第16章 あららがま(1)
宮古島から戻ったヒロの中に、変化が宿った。
「人生観が変わる」というものとは少しちがっていた。その種の言い方は、どこか頭だけで考えたようなところがある。
そうではなくで、ヒロの場合、からだ全体で感じ取った変化だった。細胞がすべて新陳代謝をしてしまったとでも言えばよいか。
――サビが落ちたみたい。
と、ヒロは自分の状態をそうとらえてみた。
たしかに、長い時間かけて酸化されてきた心が、サビ落としによってさっぱり磨かれ、もともとあった弾力や輝きを取り戻したかのような新鮮さだ。それが、精神にも肉体にも感じられた。
視野がくっきりしてきた。
視力の悪くなった人が、はじめてコンタクトレンズを装着したときには、きっとこんな感慨をもつのではないか、とヒロは思ったほど、世界のすがた、自分の進むべき道が明瞭に見えてきたのだ。
そのクリアな視野に入ってきたものがあった。
――映画を作りたい。
そう、あたしは、それを求めていたのだ。その、表現に自分を投げ込むことを!
東京に出てくるときに、それは胸の片隅にあった。片隅の思いだったけれど、胸の中心を支配していたように思う。
――あららがま!
ヒロは、何度かそっと、その言葉をつぶやいた。
宮古島で教わった、あの島の方言だ。
いまに見ていろ。
自分の向上心、野心、高揚、それらをこれほどズバリと言ってくれる言葉はほかに見当たらないとも思った。
では、どんな映画を?
いろいろアイデアの切れ端は、頭の中に乱れ飛んでいるのだけれど、まずは、何よりも「自分」を描きたい。
ヒロは痛切にそう思った。私小説ならぬ私映画。
芸術表現というものは、どんなかたちでも「自分」の表出であるという言い方を信ずるとすれば、それなら、やはり皮切りは「私の歩んできた道」を描いてみるべきだろう。
ヒロは、そんなふうに思った。
さて、そのためにはどう進めばいいのだろう?
映画とは、レシピがあって、そのとおりに素材を調理していけば出来上がり、というものではない。
いざ、そう考えてみると、どこへ向かって進んでいけばいいのかわからず、考えれば考えるほど、闇の中だ。
子どものときから見てきた映画をひとつひとつ思い出してみることにした。『ローマの休日』『カサブランカ』『風とともに去りぬ』『終着駅』『ひまわり』……などの古典名作から、スピルバーグや黒澤明などなど、毎晩、眠りにつくまで、そのストーリーを思い出せるかぎり思い出してみることを習慣にした。
名シーンの数々が浮かび、目がさえて眠れなくなる夜もふえた。
――そうだ。
とヒロは寝不足の夜がつづいた中で、ふと思った。
映画をつくる、ということのはじまりは脚本だ。食事のはじまりが、ごはんを炊くことであるように。
どんな食膳になるかをはじめから考えるのでなく、あたしはまず「ごはんを炊こう」。脚本を書くことだ。