第2章 こころに羽根をもつ少女(5)
盆踊りやカラオケ大会に、ヒロは率先して参加した。
ステージの司会者につかつかと歩み寄った少女は、気安く司会者の肩をたたいて、
「ねえねえ、歌ってもいい?」
そう声をかける。司会者のほうも慣れたもので、
「やあ、バンビのヒロちゃんか」
と飛び入りを認めてくれた。
母は、半分本気でヒロに、
「歌手になって」
とよく言った。よし、おかあさんの期待にこたえよう、ヒロは真剣に思っていた。
かけっこが速い。絵がうまい。映画をよく知っている。演歌が歌える。性格も明るい。
そういう少女が人気者にならないはずがない。
ヒロのまわりには、いつも友だちがあふれていた。笑い声が絶えなかった。だから、この少女のこころの底の底に、まるで運命のように生まれつき抱えてきた深いさみしさのようなものには、だれも気づく者はいなかった。
ヒロの近所に、知的障害の少女がいた。
和歌子ちゃんだ。
ダウン症である。英国のダウン医師が発表したことからその名があるのだが、「成長がとてもゆっくりしている」という障害だ。筋肉や関節の力もそうだが、知的の分野でも。
ダウン症の子は、口腔が狭く、舌も厚いので言葉がすんなり出ない。そのため、相手はじれったくなってしまい、つい、仲間はずれにしたりする。
授業中に奇声をあげて廊下へ飛び出したりして授業を中断させてしまう、そういうこともあって、やはりうまく教室に溶け込めない和歌子ちゃんだった。
いつだったか、雨の日。
ヒロは道で和歌子ちゃんを追い越した。追い越すときに、ふと和歌子ちゃんの靴ひもがとけていることに気づいた。
「ひも、とけてるよ」
そう指差して、通り過ぎる。
しばらく歩いて振り返ると、傘が地面について、こんもりしたかっこうになったまま止まっている。その傘の下では和歌子ちゃんがしゃがんでいるようすだ。
ヒロは引き返す。地面についた傘の中をのぞきこむと、和歌子ちゃんが何かに必死になって背を丸めている。
――そうか、和歌子ちゃんは靴ひもが結べないんだ。
ヒロは気づいた。そして強くショックを受けた。自分の身近に、自分がふだん何でもなくできることを、こんなに努力してもできない子がいる。そういうことにいままで自分が気づかなかったことがショックだった。
その日から、ヒロはひそかに、たったひとりの和歌子親衛隊となった。
学校で、集団なわとびのゲームがあった。運動会の種目のひとつだ。みんなで放課後練習する。
当然のことながら、和歌子ちゃんは苦手だ。飛べないから、チームに迷惑をかける。みんなも、和歌子ちゃんをはずしたがる。
そこで、たったひとりの親衛隊は決意した。
和歌子ちゃんのなわとび特訓だ。
来る日も来る日も、和歌子ちゃんと二人でなわとびを練習した。そして、とうとう運動会に参加させるまでに上達させたのだ。
クラスで、だれもそのことを知る子はいなかった。
ある日、ヒロはテレビを見ていて、
「ジョユー」
ということばに、興味をひかれた。
なぜだか、わからない。家がレンタルショップも営業していて、人より多く映画を観ていたことも要因のひとつかもしれない。
ともかく、ヒロがその「ジョユー」という言葉に近づいていったのではなく、言葉のほうから近づいてきた。そんな感じだった。強い粘着力のある物質のように、その言葉はヒロの耳に、頭にまとわりついて離れなくなった。
母に聞いてみた。
「おかあさん、ジョユーってなに?」
母は、
「映画に出て、お芝居するきれいな人よ」
と言った。そして、女優という字も教えてくれた。
それ以来、ヒロの胸に「女優」の字が、まるで門柱の表札のようにくっきりと刻まれてしまった。
それが、自分のこれからの人生にどのような意味を持つのか、幼い少女にはわかるはずもなかった。