第14章 銀座の水(5)
あるとき、昼間、アパート近くのコンビニで日用品をいろいろ探していると、
「あら」
と声をかけられた。
見知らぬ顔なのでヒロがきょとんとしていると、
「ごめんね、すっぴんだとわからないよね。ケリーよ」
と笑う。
「あッ」
クラブ『華蘭』のホステスのひとりだった。ケリーとはもちろん仕事上の名前で、日本人だ。
「この近くに住んでるの?」
ケリーは尋ねる。
「ええ、すぐそこのアパート。あなたは?」
ヒロは答える。
「わたしは荻窪。ちょっとこのへんに用事があって来たの」
自分で言うように、きれいさっぱりのすっぴんで、着ているものも地味そのもの。これじゃあ、だれも『華蘭』のケリーとは思わないだろう。
「でも、あなたは、ふだん着でそうしていてもきれいね。チャーミングよ」
ケリーは言う。
「ありがとう」
ヒロはうれしかった。チャーミングよ、と言われたことではなく、そうやって親しくケリーに声をかけられたことが。
ケリーは、妖艶そのもののホステスだ。ハリウッド的な存在感がある。いつも店にいるときは、あいさつはおろか目も合わせたことがなかったのだ。
「お急ぎ?」
ヒロは聞いてみる。
「もし、お急ぎじゃなかったら、すぐそこにおいしい紅茶の店があるんだけど……」
誘うと、ケリーは賛成した。
紅茶の店に入り、それぞれの注文をきいたウェイトレスが去ってから、
「あなた、オーラがあるのね」
ふいにケリーが言う。
「オーラ?」
「自分では気づかないものよね。はじめてあなたをお店で見かけたとき、ビビッと感じたわ」
「そう……」
「おぬし、できるな。っていうやつよね」
「へえ」
「みんな、あなたを無視していたでしょう」
「え? そうね。だって、銀座は個人の責任の世界だから……」
「うん、それもあるけれど、あなたのオーラのせいもあるのよ」
「そうなの?」
「嫉妬というと言い過ぎだけど、警戒ね。銀座の女のカン」
「ふうん」
「あなたはね」
ケリーは紅茶をおいしそうにひとくち啜ってから、
「すぐにナンバーワンに昇りつめるわ。でも、そのまえに何かべつのことで才能を発揮しそうな予感もする」
「ちょっとォ、ほめすぎだよ」
「そうね。紅茶はごちそうになっておこうっと」
夜の街では妖艶な美女ケリーが、いまは中学生のような素朴さで笑っている。
いったん会話が途切れたあと、ぽつりぽつりとケリーは、自分のことを話した。身の上話というほど深刻ではなく、先週の天気のことを話すような調子で。
話によると、こんなふうだった。
ケリーの出身は青森県。中学の時から陸上競技をやっていた。三段跳びが専門。県大会で優勝を何回かした。自分はぜったいオリンピック選手になるという自信があった。そういう人生を歩むにちがいないと。
思わぬ挫折があった。
地方公務員だった父が、つまらない汚職事件に巻き込まれた。わるいことに、その事件で村から自殺者が出た。父の立場はひどいものになった。
あっという間に一家の様相が変わった。多感な少女だったケリーは、混乱した。三段跳びをするように、家から、そして村から逃げ出した。
「そこから先は省くけれど、わたし気づいたらAV女優やってた。カメラの前でアヘアヘいう、あれ」
ケリーは言う。
「えっ」
ヒロは戸惑った。そんなことまであたしに言っていいの?
その当惑を見透かしたようにケリーは言う。
「ははは。心配しないで。あなたに口止めを命じたりしないから」
「……」
「あたしね、来月でお店やめるの」
「え! どこかの店から引き抜き?」
「ううん、ちがうの。わたし、足を洗うの、ホステス稼業から。で、帰るの青森に」
「へえ」
「もう、つかれちゃった」
「そうなの……」
「足を洗うとなったら、だれかにこういう前歴を白状したくなっちゃったんだ。さっき、あなたをコンビニで見かけて、よし、こいつだって決めたの」
「ふうん」
「でね、AV女優から死ぬ思いで這い上がったのが、いまの世界っていうわけ。ま、だからって、悔いはないけどね」
「そうなの……」
ケリーは、サッと伝票をもって立ち上がった。あ、ここは……とヒロがあわてて追うと、ひらひらと手を振っている。さっきは、ごちそうになろうっと、なんて言っていたが、そういうつもりはなかったらしい。
そのケリーとコンビニの出口で右と左に別れた。アパートへ向かって歩きながらヒロは、
――いろいろあるなあ。
つくづく思った。