第13章 漁船にて(4)
無何有、ということばが中国にはあるそうだ。
ヒロはそれをチャンから聞いたことがある。
古代の哲学者、荘子が好んだことばらしく、意味は「からっぽ」ということだ。
禅のことばにも「本来無一物」というのがあるように、「からっぽ」ということに対する尊敬の念が中国の思想にはあったらしい。
その無何有を、ヒロは思い出していた。
――からっぽ、ということがビンビン胸に響いてきたんだなあ、あのとき。
漁船の上で、そう思い出している。
からっぽ、何もない。
それは寂しいとか、心細いとかを越えたもの。
無と有との間に、「何」が入って、あたしはその「何」?
それは、行き場を完璧になくしたからっぽであるようにヒロは思えた。
夕闇が迫っていた。
ヒロは海へ向かった。
思えば、何かがあると必ずヒロの足は海に向かう。それは母のおなかの羊水みたいなものかもしれない。
防波堤に立ったころは、すっかり日が暮れていた。
さよなら。
ヒロはつぶやいた。
何に対しての別れか、自分でも明らかではなかった。
ただ、ひとつはっきりしていることがあった。
以前、致死量のハルシオンを飲んだあのとき、あのときにはなかったけれど、いまははっきりある気持ち。それは「自死」の心だ。明確に死を意識した。こんなにつらい思いをするなら、あの時死んでしまえばよかったんだ。大好きな海に帰ろう。
アンデルセンの童話に『人魚姫』というのがある。
海の上の王子に恋をした人魚姫は、掟を破って人間になって海上に出る。
おばあさんが言った。
「行くならお行き。そのかわり、もしおまえが恋を失ったらおまえは死んで海の泡になるしかないのだよ。それでもよかったら、行くがいい」
そして、人魚姫は人間の王子のもとへ。
しかし、王子にはいいなづけがいた。
掟にしたがって、姫は泡になるしかない。海へ飛びこむ。小さな泡が色とりどりに浮かび、やがてすべて消える。
ヒロが防波堤から身を投げたところを、だれかが目撃したら、
「あ、彼女は泡になるつもりだな」
と思ったにちがいない。
そして、ちょうど夜の操業から港に戻る父子の漁船に拾われたというわけである。
さいわい、まだ水を大量に飲んでいなかったし、心臓も停止していなかった。漁師の父、おじいさんの手際よい処置で、すぐに意識を取り戻した。
運が良かったのか、悪かったのか。
ヒロは、また死にそこなった。
「さ、着いたよ、おねえちゃん」
おじいさんは言い、ヒロが船着場に渡りやすいように手を貸してくれた。
ヒロがカッパを脱ぐと、息子がそっと手を差し出し、そのカッパを受け取った。
「ありがとうございました」
ヒロが言うと、息子は恥ずかしそうに、大きな身体を縮ませた。
「おねえちゃん」
おじいさんが船の始末をしながら言った。
「はい」
「この先、いいことがいっぱいあらあね。いのちは粗末にするんじゃねえよ」
そう言っておじいさんはにっこり笑った。