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第13章 漁船にて(3)

――あのあと、あたしの記憶は吹っ飛んでいるんだ。

 ヒロは漁船の上で思っている。

――気がついたら、浜辺だったなあ。

 たぶん、車を拾って行ったのだろう。

 浜に大の字になって、ヒロは夜空を仰いだ。額からの血は止まったようだ。さようなら、お父さんお母さん。ヒロは、唄を歌うようにつぶやいていた。迷子になって、途方に暮れている小学生のような心境だった。どこかに、すてばちな思いも混じっている。

――東の空が白々してくるころだった、あたしのおなかが急に痛み出したのは。

 鈍痛というのだろうか、下腹部に鉛の玉が入ってしまい、それがピシリピシリと割れていくような……

 もしかして? とヒロは思った。はじめての体験だけれど、カンがした。そのカンはまちがいないだろうという確信に変わる。

 浜沿いの道路に立つと、鈍い痛みは鋭さを増して刺すような痛みに変わった。ヒロは道路に手を突いてしゃがみ込んだ。

 運よく空車のタクシーが通った。道端にうずくまっているヒロをみてタクシーの方から止まってくれた。

 座席に入ったヒロは、経過を診てくれている産婦人科の名を告げた。しかし、そんな早朝にあいているはずもない。

 タクシーの運転手は、すべてを察したようだった。

「大きな病院に行きましょう。メーターは倒します」

 20分ほど走って、総合病院に着く。



――そして、あたしは流産した。



 あっけなかった。

 ほんとうに、いのちというのは不思議なものだ。

 どうしてこんな奇跡のようなものが地球上に生まれたのか。たった一粒の、小さな小さな細胞が、どんどん分裂をくりかえして、心臓ができ、肺ができ、腸ができ、目ができ、鼻ができ、手が生え、足が生え、やがて人間の造型となってくる。

 それは、一個の精密きわまる装置だ。

 あるいは、それひとつが宇宙といえるのかもしれない。

 そんな奇跡。

 でありながら、散るときは信じられないほどあっけなく散る。

 すべての処置を終え、ヒロはベッドに寝かされていた。

「引き取り人として、ご家族に連絡したいのですが」

 と病院の事務の人にたずねられ、ヒロはチャンの連絡場所を告げた。両親の連絡場所は伏せた。

 一人になると、ひとつの生命を失ったという事実が、ようやく実感を伴った現実としてヒロの頭を占めるようになった。

 自分のおなかの中に子供がいる。たとえ行く手が困難な道を指し示すものだったとしても、それは喜びに違いなかった。ほんのわずかな間だったけれど、あたしは母親だったんだ。

 だけど、もういない――。

「産んであげられなくて、ごめんね……」

 一人きりの病室の中で、ヒロは声を上げて泣いた。



 チャンが来たのは、消灯時間の直前だった。

 病室に入るなり、チャンは、

「ごめん、ヒロ」

 と顔を引きつらせていた。

「おれが、不甲斐ないばっかりに……」

 と、チャンは言った。

――不甲斐ないって、そんな日本語をよく使えるなあ、とあたしは思った。そして、チャンの顔をしげしげと見たの。

 チャンがとても小さな人間に見えた。

 なぜかは、わからない。

――あたしが、チャンを慕う気持ちは変わらなかった。どんな苦労が待っていようと、あたしは進むしかない、と気持ちを固めていたし、それが流産で揺らぐことはなかった。

 それなのに、ヒロの気持ちの温度に急激な変化がうまれてしまったのだ。

 父も母も捨ててしまった。おなかの新しいいのちも消えてしまった。

――あたしは恋するチャンと、いったいどこへ向かえばいいのだろう。こんなに小さい人間に見えるチャンと。

 ナースがやってきて、

「消灯時間です」

 とチャンに退出をうながす。面会時間外でもあったし、チャンはナースにわびて、退出の支度をしている。

 その彼をヒロは、

「ねえ、チャン」

 と呼び止めた。

「え?」

 チャンがベッドを振り返った。

「あたしと別れて」

「……」

「退院したら、すぐ役所に行って離婚届を出したいの」

「ヒ、ヒロ……」

「何も聞かないで。おねがい」

「どうしてだ、どうして、そんな」

「わからないわ。でも、もうその道しかなくなったの」

「いまは、気持ちがふつうじゃないから、そう言うだけだろ? また明日話そう」

「明日も変わらない。もう決まったことだから」

「ともかく、また明日」

 チャンは、すでに消灯された部屋をそそくさと出ていった。

 思いがけないヒロの申し出に戸惑っている背中だった。しかし、その戸惑いより大きく、深い安堵があふれている、そういう背中だった。

――チャンも、ほんとはホッとしてたんだ。それはそうだよね、あたしのようなまっしぐらな女は、ちょっと負担に思い始めていたにちがいないんだ。

 ヒロの提案どおり、退院してすぐ離婚届が出され受理された。

 市役所を出てすぐ、家に電話をした。

 母が出た。

「いったい、どこへ行っていたの」

 とすぐに涙声だ。

「店に電話してもお休みって言うじゃない。父さんはどうせ駆け落ちしたんだろう、もう、うちの子じゃないからほっておけ、なんて言うし」

 ヒロは、ちょっと考えることがあって旅をしている最中だと答えた。母が、どこへ? とたずねたから、口から出まかせに北海道と答えた。

 そして、

「ねえお母さん。あたし、おなかの子どもを堕ろしたの。そして離婚届も出したの」

 と静かに言った。

「なんだって!」

 そう言ったきり、母は口を閉ざしてしまった。

「もういいの、すんだこと」

「……」

「じゃあね、切るわね。お父さんによろしく」

「ま、まって、ヒロ」

 という母の声の途中でヒロは電話を切った。

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