第13章 漁船にて(2)
あの夜。
出来事のジェットコースターのはじまりは、あの夜だった。
店は休みだった。チャンと会って、家に帰ってきたヒロは、自分の気持ちがもう制御できなくなっていた。不安、焦燥、思慕、覚悟、決断……さまざまな思いが自分の胸に渦巻いている。
自分の部屋で、膝を抱えてしばらく考えていた。
居間には両親がくつろいでいる。テレビ映画を見ているのだろうか、ときどき拳銃の音などが聞こえてくる。
「言おう、お父さんとお母さんに」
ヒロは立ち上がった。
居間へ入ると、思ったとおり、テレビでは「007シリーズ」をやっている。母はうとうとしているが、父は目を皿のようにして画面に食い入っている。水着姿の美女のシーンだった。
「お父さん」
父は気づかない。
「ねえ、お父さん」
「え? ああ、ヒロか」
父はバツがわるそうに、画面の水着の美女から目を離す。
「おまえも見るか」
ヒロは首を振って、父の前にすわる。
「話があるんだけど……」
「なんだ、金か、金ならないぞ。お前に養ってもらってる身だからな」
選挙活動の件で職を失って以来、父は再就職していない。奇跡的に回復したとはいえ、障害の残る身体で職を見つけるのは容易ではない。蓄えを切り崩す生活は楽ではないはずだ。父の心の負担にならない程度に、ヒロは毎月入れられるだけのお金を家に入れていた。照れ屋の父は感謝の言葉を口にする代わりに、時折こうした諧謔を交えるようになった。
そんな父の顔をまともに見れず、ヒロは目を伏せる。
「お金じゃないわ」
「じゃ、なんだ、男か、ははは」
「そうなの」
「おいおい、図星かよ」
父の顔がすこし曇った。
「好きな人がいるの」
「おいでなすったな。金持ちか、ハンサムか」
「料理人なの」
「ほう、職人か、いいじゃないか。なんの料理だ」
「中華……」
父の顔にするどいトゲが生えた。
「ヒロ! まさか」
と言って、座りなおし、
「まさか、いつかのチャンコロじゃあるまいな!」
「やめて、そのきたない言葉は」
「なにィ? そうなのか、ええ、ヒロ」
母がうたた寝から目をさまし、寝ぼけまなこでヒロと父を見比べている。
「どこの国の人かなんて関係ない。あたしは彼の人柄に魅かれたの」
「ヒロ……」
母が困り果てた顔で会話に加わってきた。父は、ぶすっとした顔でテレビ画面に目を移している。が、画面を見ていないのはありありだった。
「付き合いは長いのかい?」
母が聞く。
「ええ」
「いい人なのかい?」
「うん。それでね、お母さん」
ヒロはひとつ大きく息を吸って言った。
「彼、バツイチなの。小学生の男の子がいるの」
「……ヒ、ヒロ……」
母はうろたえた。父は、背を向けたままだ。
「でも、あたしは、その子を育てる自信があるわ」
ヒロはきっぱり言う。
「ヒロ」
父がテレビのスイッチを切ってから、ヒロの眼前に座って言う。
「わるいことは言わない。おれは差別でものを言っているんじゃない。人生の先輩として言っているんだ。もうすこし、頭を冷やせ、それから決めたって遅くはないだろう」
「もう、引き返せないよ、ここまで来たら」
「ン? どういう意味だ」
「赤ちゃんがいるの、おなかの中に。彼の子供……」
「な! なんだとお!」
父の声がかすれた。
「どうして、どうして、いままで黙っていたのヒロ」
母は青ざめている。
「いつか言おうと思っていた。つい、言えなかった、ごめんなさい」
「あやまるようなことか!」
父の顔は母とちがい、真っ赤に紅潮している。
「もう、入籍もすませたの」
ヒロは冷静に言う。
「ば、ばかやろう! お前の先走りはいつものことだが、ものには限度ってもんがあらぁ!」
「お父さんお母さん、あたしを信じて。お願いだから許して」
「信じるとか許すとかの話じゃねえ。娘からそういうことを急に言われて、はいそうですかっていう親がどこにいるか!」
「あたしの幸せを思うなら、おねがい」
「地獄に落ちるぞ!」
「そうならしかたないわ、自分の選んだことだから」
「おおばかやろう!」
「どうしてもだめ? 許してくれないなら、もう出て行くしかないわ。かなしいけれど……」
ヒロは立ち上がる。
すると父もすっくと立ち上がる。
「行けるものなら、行ってみろ。ただし、おれをぶっ倒してからだ」
父は仁王像のようにヒロの前に立ちふさがっている。
ヒロはその仁王像に突進した。
「おねがい、お父さん。わかって!」
畳にぽたぽた涙が落ちている。
それは、ヒロだけの涙ではなかったようだ。父のものも混じっていた。
「この、おおばかやろう!」
父は平手でヒロの頬を殴った。
「やめて、あなた! ヒロ、早くあやまって、ねえ!」
母が二人の間に入る。が、父が母の身体を乱暴に払うと、母は畳に力なく座りこんだ。
「おねがいだからそこをどいて!」
ヒロは、もういちど父に突進した。
父はもう無言だった。が、さっきよりもさらに強い力でヒロの頬を殴った。ヒロは吹っ飛んだ。畳の上に倒れ込む。ヒロはとっさにおなかを押さえたが、転がる勢いは止まらなかった。
箪笥に激突したヒロの額から赤い絹糸のように血がひとすじ流れて、それはみるみる太くなった。
母がふたたび止めに入り、父にしがみついているスキにヒロは部屋を飛び出した。