第12章 石の少年(5)
三日後の木曜日は、月に一度の兆龍飯店の定休日だった。
ホンダのオデッセイが走っている。
車内は三人。ハンドルを握っているのが、チャン。助手席にチャンの長男・ユキオ。そしてうしろのシートにヒロ。
その車内の空気をだれかが見たとしたら、
――なんて、どんより疲れているんだ。
とおどろいたことだろう。
人が疲れている、というより、空気そのものが疲れている。くたくたになっている。
ハンドルを握るチャンは、半日で頬が削げてゲッソリしている。助手席のユキオは石のように身を固くしている。そして、後部座席のヒロは……
車内の疲れ切った空気の発信地は、まさにヒロだった。
ヒロは膝を抱えて、その中に顔をうずめている。今日一日の時間が、どれほどヒロを消耗させたかをあらわすように。
オデッセイは、今朝早く、湘南の江ノ島水族館を目指したのだった。チャンの前妻が、びっくりするほどあっさりとヒロの申し出をのんだのを受け、すぐにヒロはチャンに提案した。
「わたしとユキオくんの時間をつくって」
チャンは了解した。
そして、この日の水族館行きのプランとなったのだ。
車に乗り込むとき、ユキオは頑なに拒んだ。大声を出すわけではないが、目が淀んでいた。チャンとヒロが二人がかりで乗せようとしても、脚をふんばり、肘を張って動かない。小さな身体なのにものすごい力だ。
チャンがようやく抱き上げて乗せた。
だが、ユキオは泣き叫ぶわけではない。くちびるを噛んで抗議している。ヒロの顔を決して見ない。
「こういう子なんだ、ごめん」
チャンは息を切らしながら言った。
「だいじょうぶ、そのうち……」
ヒロは言った。自信があった。こっちが誠意をもって接すれば、かならず心を開いてくれる、と。
しかし、ユキオのガードの固さは想像をはるかに超えていた。
途中のサービスエリアで買って与えたオレンジジュースは、手にしたとたん窓からジャーッと捨てた。
何を話しかけても、肩を石のようにして無言。
二時間が過ぎただろうか。まだ湘南は先である。ユキオは朝からひとことも口をきいていない。
「おい、ユキオ、いいかげんにしろ。何様だと思ってるんだ」
とうとう、チャンが切れた。
しかし、ユキオはそれにも口答えしない。石になったままだ。
とんでもないことが起こった。
交差点が赤に変わったので、オデッセイは止まる。そのとき、ふいに助手席のドアが開いた。と、思ったら小動物のようなすばしっこさで、ユキオが路上に飛び出していった。
「ああっ」
ヒロとチャンが同時に叫ぶ。
うしろについていた車がクラクションを鳴らす。
ユキオは交差点の中央へ向かって走っていく。ブレーキの音、クラクションの音。交差点は騒然となった。
歩行者に大学の運動部らしい一団がいたのがさいわいだった。彼らはユキオを組み止め、抱え上げてくれた。
助手席に重い荷物のようになったユキオを詰めこみ、チャンは脇道にハンドルを切る。
小さな公園の前で止めて、
「おい、ユキオ、おまえ何考えてんだ、いったい」
チャンはくたびれた声でたずねる。
「いいのよ、チャン。ね、ユキオくん。水族館じゃなくてもいいんだよ。どこへ行く?」
ヒロが言う。答えはない。
「ね、ユキ……」
とヒロが重ねて聞こうとすると、はじめてぐいと顔を上げたユキオのくちびるから血が流れていた。頑なな気持ちをずっと噛みしめていて、自分でくちびるを噛み切ったのだ。
ユキオはその形相のまま、チャンとヒロを見据える。敵意に満ちた目だ。そして、
「かえる」
とひとこと言った。
「え?」
ヒロが聞く。
「母ちゃんのところへ、かえる」
そう言い、あとはもう、何があってもしゃべるものかと口をつぐんでしまった。
予定を変更し、そのまま帰途につくことになった車内にどんよりとした空気が満たされているのは、そういうわけだったのだ。
前妻が住む街の駅でユキオは降りた。
「ごめんねユキオくん、気分悪くさせちゃって」
ヒロは別れぎわ、最後にもういちどだけ会話を試みた。
ユキオは、助手席から降りて、デイパックを背負ったかと思うとヒロを指差し、
「ぼく、このひと、きらいだ」
と言った。
「おはよう。聞いたけど、息子が失礼したそうね」
チャンの前妻から電話があったのは、二日後の朝だ。前回の電話のとき、ヒロは番号を教えていた。
「あ、どうも」
「どう、あの子の感想?」
「感想?」
「仲よしになれた?」
「時間がかかりそうだけど」
「ふうん、時間がねえ」
「きっと心を開いてくれると思う」
「ふうん」
「わたしは、粘り強さでは自信あるから」
「ふうん」
受話器の向こうで、カチッとライターを点火する音がして、前妻が大きく息を吸い、吐き出したようすが聞こえる。煙草だろう。
そして、
「星野さんでしたっけ、あなたいい気なものね」
と抑えた声で言う。
「は?」
「勘違いするのもいいかげんにしときなよ、ええ!」
トーンがいきなり上がった。
「なにが粘り強いだ、心を開くだ。あんた、女神のつもり?。心が広くて美しくて、どんなつらい子どもでも、やさしく見守れば、その子は助かるって?」
「……」
「顔洗って出直しな。世の中にはねえ、あんたなんかのわからない悲劇がゴマンとあるのよ。ひとりの子どもがずっと抱えている悲しみは深くて深くて、底が見えないのよ。それと付き合っていける自信があるってかい。わかりもしないのに」
「……」
「ユキオは帰ってきたわよ。さぞ、ご迷惑おかけしたことでしょうね。ふざけんなよ! ユキオにとっての母が、どういうものかってわからないらしいね。そんなことだろうと思ったから、このあいだ、できるならやってごらんと言ったのよ。思ったとおり、ユキオは恐怖と怒りに顔を引きつらせて帰ってきたよ。もう、何台もの戦車で連れにこようとしたって、あんたのところに行くことはない」
「……」
「もういちど言うよ。あんた、勘ちがいしてるよ、人生を」
電話はそれで切れた。
ヒロは、自分の頭から大量の血が引いていくのがわかった。