第12章 石の少年(3)
その夕方。
ヒロは駅ビル二階の小さな喫茶室に座っている。
目の前にコーヒーが置かれている。けれども、ひとくちも啜らないまま、コーヒーはすっかり香りを失い、水のように冷えてしまっている。何度目か、ヒロが腕時計を見たとき、入口の扉がカランカランと音を立てて開き、
「遅くなって、すまない」
入ってきた男がヒロのところに駆け寄った。チャンだった。
店に出る前に、どうしても話したいことがある。
遅れてもいいから、かならず来てほしい。何時間でも待つ。
ヒロは電話でそう伝えておいた。用件は言わなかった。チャンは今日、抜き打ちにヒロが部屋を訪れたことを知らない。訪れたときに、留守番をしていた息子と鉢合わせしたことなど知らない。息子は、何も言わなかった。気をきかして、というのではない。その男の子は、知能にすこし未発達なところがあったのだ。
何も知らないチャンは、ヒロが何を話そうとしているのかは、思い当たらない。最近、すこしドタキャンすることが重なったことは気になってはいた。が、それへの抗議というには、ヒロのようすがただならない。
どうしても外せない用事があって、指定の時間に遅れたチャンは喫茶室に飛び込んだ。ヒロは奥の席に座っている。
「すまない」
チャンはそのことばを繰り返して、ヒロの前に座る。ウェイトレスがオーダーを取りにくる。
「同じもの」
ヒロの目の前のコーヒーカップを指差しながら言う。
ウェイトレスが立ち去ったあと、
「今日、行ったわ」
ヒロが静かな、抑揚のない調子で言う。
「え? どこへ?」
チャンはコップの水をひとくち含んでから言う。
「チャンの部屋へ」
「……」
「とつぜんで、ごめんなさい。会いたくてしかたなかったから」
「……そうだったか。留守をしてごめん」
「男の子が出てきたわ」
「……」
「父ちゃんはいないって言った」
「……」
「父ちゃんって、チャンのこと?」
「……」
「どうしたの、日本語がわからなくなった?」
チャンは、コップの水の残りを一気に飲んだ。
「8歳だ」
「え?」
「8歳になる。おれの息子だ」
「そう……」
「ヒロと会ったとは思わなかった」
「いつもいっしょに住んでるわけ?」
「ちがう。別れた妻のほうに住んでいる」
「別れた妻? なんなのそれって」
「ときどき、おれに息子を預ける」
「預ける?」
「男と遊びに行くときに……そうなんだ、前の妻は男にだらしがないんだ。おれと別れたのも男が原因だった。いまも治らない。で、男と会うときには、ああして息子をおれに預ける」
「チャン」
「なんだい」
「ずいぶんとさあ」
「……?」
「ずいぶんと、馬鹿にしてくれるじゃないの!」
いきなりヒロの声のトーンがあがった。店内の目がいっせいに二人に向いた。
「馬鹿に? 別れた妻がおれを?」
チャンがかすれ声で言う。
「ふざけるな!」
ヒロの声はドスがきいていた。店内の人々は、もう見ないふりをしている。
「前の女房が男と遊ぼうが何をしようが、あたしの知ったことじゃない」
「……」
「だけどチャン、なんでそれを今まで黙っていたの。それをはっきり言ってよ」
「うそをつくつもりはなかった、ただ……」
「ただ?」
「言う機会が見つからなかった」
「あのねえ、チャン。あたしとあなたは籍を入れたのよ。親にも内緒だけれど、入籍したのよ。わかってるわよね」
「わかってるとも」
「入籍した相手に、言う機会がなくて黙っているような内容?」
「……」
「お尻にオデキができてるっていうのと、わけがちがうのよ」
「わるかった」
「それだけ?」
「もうほかには、隠していない」
「まさか、まだ向こうの籍は入ったままっていうんじゃないでしょうね」
「それは、ない。信じてくれ、ヒロ」
ヒロはすっかり冷たくなったコーヒーを下げてもらって、おかわりをオーダーする。チャンもそれにならう。
新しいコーヒーカップを前にして、長い沈黙が二人のあいだに流れた。そして、カップがすっかり空になるころ、
「息子というのは……」
とチャンがぼそぼそと話し始めた。
その8歳になる子は、すこし知能に未発達があるということをチャンは言う。
だから、おれが面倒を見たかったのだけれど、息子はそういう頭だからか、母親にどんなにつらくされようとも、この世で母親がいちばんという思い込みが激しい。どうにもならない。
と、チャンは話した。
「ねえ、チャン」
ヒロは、自分の手のひらを見ながら言う。
「彼を、あたしが引き取る」
「え?」
「あたしが新しいお母さんになるわ」
「むりだ、ヒロ、あの子は……」
「むりじゃないわ。あたしは、子どものときに、そういう友だちがいたし、いつか話したようにミスジャパンのときにも、たくさんそういう子と接していた。できるわ」
「ヒロ……」
あたしの母も、父の連れ子を三人も育てたのだ、とヒロは言おうとしたが、それは黙っていた。