第12章 石の少年(2)
時が過ぎる。
そうしているあいだにも、おなかの中で、生命の運動が目まぐるしく成長しているのだ。
大きな、言いようもなく大きな喜びはある。それは母性という宇宙のよろこびに近いだろう。
けれども、それと寄り添うように、はかりしれない不安もある。
その不安は、自分が子を産むことへの不安ではなかった。その子を私生児にしてしまうかもしれない、というような不安でもない。
――あたしとチャンの、これからのこと。
それに尽きていた。
もう引き返せない。そういう場所に自分は足を踏み込んだ。振り返るとすでに退路はない。そういう孤立感。人を愛してしまったゆえの、深い孤立感をヒロは全身で感じていた。
ある夜、思いあまって父母に話した。
妊娠のことは告げなかったが、チャンがどういう男かは正直に報告した。
父は激怒した。
「よりによって、ヒロ!」
そう言って、怒りに頬を震わせ、
「チャンコロといっしょになろうっていうのか、おまえは!」
チャンコロというのが、チャンの呼び名ではなく、いまでは死語になっている中国人への蔑称であることをヒロは知らなかったが、父のその激情の深さはじゅうぶん分かった。
これはどんなことがあっても祝福されることはない。
ヒロは直感した。
でも、もうだめなの、お父さん。引き下がれないの、あたし。来るところまで来てしまったの。
婚姻届を出したのは、それから間もなくだった。
入籍はしたが、まだいっしょに暮らすことはしなかった。時間をかけて、ヒロの両親を説得しなければならない。
そのうちに意外なことがつづいた。
二人の逢引きは、別れる夜に次の日を約束するのがいつものことだった。その約束をチャンが保留にすることがときどきあるようになった。
約束をドタキャンすることも。
そんなことは一度もなかったことだ。
ある日、
「東京に急な用事があるから、きょうは会えない」
と言っていたチャンが交差点の向こうに立っているのをヒロは目撃した。手を上げて合図しようと思ったら、チャンがおもむろに背を向け、そそくさと消えた。
その翌日。
はじめて二人がからだを重ねた夜以来、決して訪れていなかったチャンの部屋にヒロは向かった。
――あたしの気持ちを、初心に帰ってもういちど話そう。
そう決めたのだ。それには、いつものお茶室のような宿でなく、本とCDが主役のあの部屋にかぎる。そう思った。
ドアのチャイムを押す。
反応がない。
――留守かな?
ケータイであらかじめ連絡していなかったのは、不意を突いてやろうという演出の気分もどこかにあった。
もう一度押して、出てこなかったから、あきらめよう。
そう思っているところに、部屋側からドアのノブを開ける音がする。ヒロは笑顔を作って待つ。
ドアが開く。
おや? だれも出てこない。
と思ったら、目線の下に人影があった。
小学校低学年の男の子だ。
「あれ、ここは……」
ヒロはあわてて、ネームプレートを見る。しばらくぶりだから間違えたかと思ったのだが、そうではなかった。
「あのう……」
大きな眼で自分を見上げる男の子に向かってヒロは背をかがめた。
「いない」
男の子が言う。
「え?」
「父ちゃん、いない」
エレベーターをどうやって降りたか、おぼえていなかった。
犯罪者が事件現場から逃げ去るように、ヒロは男の子が顔を出したその部屋から一目散に退いた。
一階に下り、エレベーターが開く。無表情で入口に向かう。自動ドアが、なぜかいくら踏んでも開かない。ヒロは、乱暴に足踏みする。管理人のおじいさんが不審そうな顔で、
「ずいぶん急いでいるねえ」
と言う。
そっちは見ずに、ようやく開いたドアから走り出た。
――まさか、まさか……
通りを小走りで進みながらヒロは思う。
――まさか、あの子が言った「父ちゃん」は……
チャンじゃないよね、まさか。
しかし、現実はそのまさかだったのだ。