第11章 傾いてゆく(5)
チャンの独り暮らしの部屋は、ヒロの想像よりはるかにきれいだった。調度品が立派というわけではなく、むしろ、モノが極端に少ない。だから、きわめて清潔なのだ。壁の本棚には、料理の本と中国の禅の本などがそっと置かれ、その横にブラームスやバッハなどのCDが数十枚。部屋の主役はそうしたものたちだ。
「なんだか、仙人の部屋みたい……」
ヒロは小さなテーブルの椅子にちょこんと腰かけて言う。
「センニン?」
「うん。世捨て人」
「ははは」
チャンは、香りの強い中国茶を出してくれた。
ひとくちすすると、口の中が洗い流されるようだった。それを飲みながらヒロは、今夜これから起こることのすべてを祝福したい気分になっていた。
数分前、ふたりの乗ったタクシーが、このチャンの住まいまで着いたときのことだった。
「酔いざましに、熱い中国茶を飲むかい?」
軽い調子でそう言ったチャンに、
「古い手ね」
ヒロは言い、
「古い手だけど、いいわ、あたしも古い人間だから」
とタクシーを降りた。
そう言いながら、今夜はほんとうに中国茶だけで帰るのだ、と決めていた。
チャンが気に入らないからではなかった。なんだかとても、口惜しい気がしたのだ。あたし、惚れたのかな。
熱い茶を飲みながら、
「中国人はよくこう言われているよ」
とチャンが、ゆっくりした調子で言う。
「空飛ぶものは飛行機以外なら何でも食べる。四足のものは椅子以外なら何でも食べるって」
「へえ。そんなに食いしん坊なの」
「うん。そういうこともあるけど、食材にたいする想像力がゆたかだっていうことでもあるんだよ」
そしてチャンは、いくつか、ヒロの聞いたこともないような食材について、それが調理によってどのように値打ちを高めていくかについて語った。
ヒロはチャンの話の中身を聞いてはいなかった。
ただ、その語り口に聞き惚れる。ふしぎな楽器の民族音楽のような魅力があった。
「調理は、包丁。食材を切ることがすべて」
「ふうん」
ヒロは耳を傾ける。
少しずつ、ほんの数ミリずつ、チャンのからだがヒロの腰に近づいている。
「塊は、ぶつ切り。片は薄切り、絲は細切り、丁は角切り……まだまだいくつもあるんだ。この4倍ぐらいの数の切り方が……」
「すごいのね」
ヒロは、肉を切るというイメージに、どこか官能にちかいものを覚えている自分がふしぎだった。
「耳のついた名前もあるよ。兎の耳と書いてトゥーアル、これは材料をまわしながら斜めに切る方法。馬の耳と書けばマーアル、これは兎の耳よりももっと細かく切る方法……」
そう言いながらチャンはヒロのピンクの耳たぶに、すっと口づけする。ヒロのからだがぴくんと反応する。
ごく自然に、ふたりのくちびるが重なる。二人はひとかたまりとなって椅子から落ちる。