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第11章 傾いてゆく(4)

 その夜から一週間後。

 チャンは閉店まぎわの時間に現われた。

「ねえ、チャンさん」

 ヒロは、水割りを出しながら言った。

「なんでしょう、ママさん」

 チャンはおどけた調子だが、目はじっとヒロの口元を見ている。

「この前の、料理の修行のこと、おもしろかった。もうすこし、聞かせて……」

「え、そうかい。まあ、弟の話だからなあ、双子の」

「いいわよ、弟さんのでも」

「ううん、そうか。じゃあ、また聞きだけど、料理のいのちは包丁なのだ。と、弟は言った」

「はい、いいわよ」

「包丁はもともと『庖丁』と書くのだけれど、『庖』の字が日本の当用漢字にないから『包』になっているのだ、と弟が言った。『庖』は『くりや』つまり台所のことで、『丁』は『よほろ』つまり仕事をする人のこと」

「ふうん」

「だから、包丁というのは道具ではなく、人そのものなのだ。と弟が言った」

「ねえ、チャンさん」

 ヒロが、にっこり笑いながら言う。

「それ、弟さんじゃないわね、あなたね」

 チャンは、目をくるんとさせてから、

「あちゃー」

 と言いながら頭をかく。

「やっぱり、ママにはばれたか」

「わかるわよ、そんなの。ああ、この人は、かなりきつい修業をしてきた人だろうなあ、とピンときていたわ」

「そうだったか……」

 それから、チャンはいっきに白状した。

 あれはいつだったか、街で買い出しをしているときヒロを見かけたという。

「ああ、あの女だ、とすぐわかったよ。いつか老酒一本飲んで、べろんべろんになっていた……」

「まあ、よして。覚えていたの、やめて」

「ところが、その買い出ししている女は、ものすごくいい女だった。けなげ、という日本語があるよね。使い方が正しいかどうかちょっと自信がないけれど、いっしょうけんめいで、正直で、まっすぐ前を向いていて……そういう印象だった。一目惚れだ」

「ありがとう、もうそのへんでいいわ」

「あの女の店はどこだろうって、ずっと探した」

「そうだったの」

「何軒まわったか知れない。車一台買えるぐらい経費を使った」

「あら、お気の毒」

「それで、ようやく見つけたというわけだ」

「それなのに、双子の弟だなんて」

「べつにだますつもりはなかったけれど、近所の中華料理屋の男というんじゃ、あまりナゾめいたものがなさそうで、つい、そんなふりをした」

「かわいいこと言っちゃって」

「いつか、タンメン食いにきただろう」

「ああ、そうかもしれない」

 ヒロははっきり覚えていた。

 あのころはまだだまされていたから、彼の厨房すがたに、

――ああ、弟もかっこいいなあ。

 なんて思ったものだ。

「じゃあさ、チャンさん」

「チャンでいいよ」

「うん、そうする。じゃあ、チャン」

「なんだ、ヒロ」

「あら、あんがいずうずうしいのね。まあ、いいや。あなた、住まいは東京って言ったのも……」

 いつかそう言ったのだ。東京からわざわざ通ってくれるのか、とヒロは思った。

「あれも、もちろんうそね」

「うん。弟なんか持ち出した手前、そう言うよりしかたなかった。でも、いっとき住んでいたこともあった」

「そうなの」

 閉店の時間になった。

「このボトル、きりがいいから今夜でカラにしたら。チャン」

 ヒロは言った。

 客はみな帰り、従業員も引き上げていく。後片づけはやっておくから、おやすみ、と全員を見送った。

 二人だけになって、新しい水割りを口に含んでからチャンがぽつりと言った。

「ヒロ。あなたは、東京が似合う」

「え?」

「こんな田舎町、とは言わない。ここだってすばらしい街だ。それになにも東京がすべてじゃない。でも、あなたみたいなけなげな、努力の人、華やかな人は、東京が似合う」

「そうかな、わかんないな、そういうことは」

「可能性が開ける。あなたの持っている花が必ず開く」

「それお世辞?」

「ちがう」

「あたしは、そういうことは考えたことがない。いま現在でせいいっぱいだから」

「ヒロ」

「なあに」

「後悔にはふたつの種類がある」

「……」

「あのときああしておけばよかったという後悔と、あのときああしなければよかったという後悔」

「うん」

「どっちの後悔が取り返しがつかないだろう」

「そうねえ、やっぱり、ああしておけばよかった、のほう?」

「どっちかは人それぞれかもしれない。でも、そのことは考えたほうがいい」

「チャン」

「なんだい?」

「そのボトル開けるの、手伝ってあげようか」

「たのむ」

 チャンはヒロが渡したグラスに琥珀の液体をたっぷり注いだ。

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