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第11章 傾いてゆく(3)

 ある夜、めずらしくアトランティスはすいていた。どの店にもあるエアーポケットのような時間だ。

 客はカウンターに一人だけ。

 それがチャンだった。

 あとから思い出すと、その夜、ヒロは恋に落ちたらしい。

 なによりも、チャンの会話をはっきり覚えている。

 はじめはダルマの話だった。

 カウンターの女の子が、

「わたし、子どもときのあだ名が姫ダルマだったの」

 ということを言って、大笑いしたあと、

「そう言えば、チャンさん、あのダルマって中国の人?」

 と女の子が聞いた。

「あれはインドの人、だけどね……」

 と、そこからチャンは、おもしろい話をはじめた。ある男が自分の片手を切り落とした話。

 ダルマは達磨という修行の人。禅宗の祖である。

 生まれはインドの人だが、修行で中国に渡った。

 そして、拳法で有名な少林寺という寺にこもり、その洞窟で壁に向かって坐り、ひたすら座禅をした。

 ダルマ人形に手足がないのは、ずっと壁に向かって九年間も坐りつづけて修行したので手も足も萎えてしまったという伝説でもあるらしい。

 とにかく、この人は伝説の多い人だ。

 少林寺の修行時代での話もそのひとつ。

 壁に向かって坐りつづける達磨に心を打たれた男がいた。その名を慧可という。

 彼は弟子にしてもらいたくて、達磨の坐っている洞窟に通いつめた。ところが、達磨は相手にしてくれない。

 一年以上通いつめた、ある冬の寒い日。

 雪の積もるなか、慧可はまた達磨の洞窟にやってきた。

 何も言わずにじっと達磨の背に立っていた。

 そして、なんと、ふところから斧を取り出し、自分の右手をバッサリと落としたのだ。

「きゃあ」

 と聞いていたカウンターの女の子が叫ぶ。ヒロも眉をしかめる。

 慧可の右腕はぼとりと落ち、雪を真っ赤な血が染めた。

「そ、それから、どうしたの?」

 女の子が聞く。

「それでおしまい」

「おしまい?」

「その慧可って男が、禅宗の第二祖、つまり達磨の一番弟子になった男さ」

「じゃあ、入門を許されたってわけ?」

「そういうこと」

「右腕と引き替えに?」

「そう」

「野蛮!」

「たしかにね」

「ねえ、チャンさん」

 さっきからだまって話を聞いていたヒロが口をはさんだ。

「その慧可さんって人は、なぜ、自分の腕を落としたの。どういう意味があるの」

「意味なんて……」

 チャンは静かな声で言う。

「意味なんてないさ。そのときは、もう、それしか方法がないと思ったからやったまでさ」

「ふうん」

 新しい客が入ってきた。

 たまたまカウンターでいまチャンの話を聞いていた女の子のなじみ客だったので、彼女はそっちに移る。ヒロは、その客に会釈してから、チャンの前に立った。

「ねえ、チャンさん」

 ヒロがチャンの右腕を見ながら言う。

「なんだい?」

「いまの話って、修業のこころみたいなもの? あなたの」

 チャンは、ちょっとおどろいた顔で、ヒロの目をじっとのぞきこむ。

 そして、ヒロの質問には答えず、

「弟は中国で料理の修行をしてきた。その修行は、強烈だ。血が滲むような、という言い方が日本語にあると思うけれど、ほんとうに毎日毎日、血を出してやっていた」

「そうなの……」

 ヒロは、なんだかおかしいな、とそのとき思った。あとになってその理由がわかることになる。

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