第10章 白い道(1)
お待たせしました。今日から投稿を再開します。今まで以上に山あり谷ありの展開で、自分でもこの先どうなるのかハラハラしています。ちゃんと書き切れるかな(汗)。それではお楽しみください。
酸素吸入のマスクをつけた患者がベッドに横たわっている。
心電図、心拍数、血圧のモニターが稼働し、それらの刻々とあらわす値が生と死の境であることを示している。
「覚醒反応がみられます」
ナースが言う。
第三種向精神薬、つまり睡眠薬を大量に服用して死の淵まで進んでしまった人間の身体が、かろうじてそこから戻ろうとするとき、独特の覚醒反応がある。
溺れるものはワラをもつかむ、ということわざがあるが、覚醒反応はそれに少し似ている。手足の末端に強い力が入る。衰弱しているはずなのに、思いがけない力だ。最後の火を燃やすかのよう。
手は宙を握りしめる。足は宙を蹴る。
むろん、暴れるというほどエネルギッシュではない。スローモーションのような動き。それは、「向こう側」へ落下しそうな身体を、懸命に「こちら側」へ引き戻そうとしている行為にも見える。
だが、その反応をしばらくつづけてから、ふっと患者は動きをやめる。残りの力が尽きたかのように、おだやかになった。
患者は目を見開いたままである。だが焦点はこの世の向こう側に定まっているように見える。
心電図の波が不穏だ。弱々しくなっている。
病室に、緊迫した空気が流れた。
「呼吸が停止しました!」
「心臓マッサージ!」
医師のその指示にナースが従う。
生死をさまよっている患者は、星野ヒロだ。
ハルシオン100錠が服用されている。発見が早く、そのすべてが吸収されていなかったから絶望的ではないが、かぎりなく危険な状態であるのはまちがいない。
覚醒反応で手足に力をこめたあと、おだやかな顔で力を失っている状態は決して楽観できるものではない。
ヒロはそのとき、白い道を歩いていた。
――なんて、やわらかなんだろう。
心から感心している。
空気が、光が、道が、これまで経験したことのないほどのやわらかさで自分を包んでいる。
まわりには、だれもいない。犬も馬も虫も鳥も、まったくいない。それどころか、木も花も草も川も山もない。
ただの真っ白い世界。
なのに、なぜだろう、ちっともさみしくない。
――こんにちは! 元気!
と、なにもかもに、大きくあいさつをかけたい。
歩いている足元をみると裸足だ。その足も真っ白。
――あたし、こんなに白い足だったっけ。
とヒロは思う。
白い足が、白い道を滑るように歩いている。サーファーがいい波をつかんだときのように。
気がついたらヒロは歌っている。自分でも聴いたことのない曲だけれど、なんて心地よいことか、ヒロは自分で自分の歌唱に感動している。
――あれ? むこうに、だれか……
遠く、そこももちろん真っ白なのだけれど、ひとつの影が見えるような気がした。
――なあんだ、ただの子供か。
ヒロは思う。
たしかに、高校生のような男の子が、向こうに立っている。やはりまわりと同じように、顔も髪も洋服も真っ白。
「おおい、何してんの?」
ヒロはそう叫ぼうと思って、自分の喉から声が出ないことに気づいた。
――ああら、あたしの声も真っ白になっちゃってる。
おかしくて、吹き出しそうになった。
声が出ないから、しかたないので手を振ってあいさつした。向こうも、気づいたようすだ。
――あれは、だれだっけ。よく知っている高校生、とてもよく知っている高校生だと思うのだけれど……ええと、ええと。
ヒロは考えている。
そのとき、ふっとその高校生が動いた。と、思ったら、手が紫色に光っている。
――ああ、きれいだなあ。
ヒロはその紫の手に見とれた。
すると、高校生がその手を大きく払うように動かしている。何をしているんだろう? 不思議に思ったヒロは少し近づいて眺めた。
そのうち、声がした。金属の束を揺らしているような、ふしぎな声だった。
「クルナ、クルナ」
そう言っている。
いったい何語かわからない。呪文のようでもある。
高校生はつづける。クルナ、クルナ。
――あ、そうか、「来るな」だ。なによう、そんな冷たい言い方しなくたっていいじゃないの。この真っ白な世界の中でたった二人じゃないのさ。
ヒロは思う。
けれども、高校生は断固とした調子で、さらに大きくはっきりと、
「来るな、来るな、帰れ」
と言った。
――あ、あれは……
高校生がだれだったか、思い当たるような気がして目を閉じた。
――ええと、ええと……
ぐるぐるっと、白い道が自分を中心にして渦を巻いた。白い風がヒロの髪をなびかせる。ヒロは薄目を開ける。
渦巻いた白い道は、いくつもの固まりになって、さらに小さなたくさんの渦になっている。
やがてそれは、白い無数の斑点になって空中に留まり始めた。
ヒロは目をこらす。
天井だ。
白い無数の斑点は、病室の天井の模様である。