第7章 駆け上がる階段(3)
一年間つづくミス・ジャパンの審査を、ヒロはひとつひとつクリアしていく。
お茶の作法や、言葉のエチケット、所作などなど、容姿だけでなく、人間性を磨くさまざまな研修や勉強会が課せられる。そこで、何人かが脱落していくのだ。まさにサバイバルである。
いかに自分が勉強不足だったか、狭い世界に住んでいたかを痛感した。
――負けたくない。
ヒロは、勝ち抜くために必要と思えることは何でもした。毎日、ステージに立って輝いている自分をイメージトレーニングした。トイレの中でも笑顔で質疑応答のシミュレーションをした。ダイエットもした。好きなお酒もコンテスト中はやめた。とにかく食らいついていくしかない。一年はあっという間に過ぎた。
そして、結果の発表となった。
予定されたセレモニーがひと通りすんで、会場が静まり返った。あの静けさを何にたとえたらいいだろう。太陽の光さえ届かない海底の世界は、あんな静けさかもしれない。
それほどの重く厚い静寂が会場を包んだあと、
「発表します……星野ヒロさん!」
静寂から、一転して大爆発。
鹿島神宮への願いが通じたか、ヒロは、なんと優勝の座を獲得してしまったのだ。
ステージで、目も開けていられないほどのまぶしさの中、華やかな表彰を受けるヒロの頭に、瞬時のことだが少年の影が走った。バイクに乗っている影にも見えた。
あ、カモだ。
――祝福してくれたの?
万雷の拍手を受けながら、ヒロは走り去る影を見つめていた。
翌日、いつものように支度をしてForestへ着くと、店の入り口から店内まで、
!!!ヒ ロ ミ ス ジ ャ パ ン お め で と う!!!
と一字ずつプリントされた紙が至る所に貼りつけてあった。
店内には従業員と常連客が待ち構えていて、祝杯をあげてくれた。
ヒロに笑顔が戻った瞬間だった。
ミス・ジャパンとしてのヒロの活動が始まった。
この女王は、ただ見栄えがいいお人形としての役割ではない。言ってみれば、人間の豊かさを運ぶ「華やぎの人」なのだ。
そういう意味からの仕事はたくさんあった。老人ホームや障害者施設の訪問もそのひとつである。
ヒロはミス・ジャパン審査の一年の間に、自分を磨くためにも自発的にそうした施設を訪れ、ボランティア活動を手伝っていた。それが役立った。
施設へ行くと、そこで暮らす人々がみんな心を開いてくれた。
そして、その訪問でヒロはあらためてたくさんの衝撃と感銘を受けることになった。
障害者施設の人々が、みな感受性が豊かであることに心を打たれた。絵の授業を見学したときもそうだった。
何かが決定的にちがうのだ。
たとえば、リンゴを描くとする。健常者の絵から伝わってくるのは存在感だ。技術的に優れれば優れるほど形だけでなく、匂いまで伝わってくるようだ。
けれども、障害者の描く絵は、そういうものとはちがう。
健常者の絵がリンゴの皮を精密に描いているとすると、障害者の絵は、外からは見えないリンゴの芯を描いている。そんな感じなのだ。表現力というか、もっとちがった大きなパワーをヒロは感じるのだった。
知的障害の子に、あいさつしたら、いきなり頬をビンタされた。ヒロはうろたえなかった。親しみの表現だ、と思った。子どものとき、近所のダウン症の和歌子ちゃんと仲がよかった経験があったからかもしれない。
自閉症の子が、ヒロのそばにつかつかと寄ってきて、何かきらきらするものを差し出した。無言だけれど、これ見て、というジェスチャーである。
彼の手の中の光るものを見ると、金メダルだった。
職員の人に聞くと、スペシャルオリンピックスの卓球で優勝したのだそうだ。
パラリンピックが身体に障害のある人のオリンピックだとしたら、スペシャルオリンピックスは知的障害の人のためのオリンピック。第五十三代アメリカ合衆国大統領のJ・F・ケネディの妹、ユニス・ケネディによって一九六八年に創設されたスポーツ活動組織だ。全世界一六〇以上の国と地域で一〇〇万人以上の選手が参加し、オリンピックと同じように、陸上競技、水泳、サッカー、バスケットボール、テニス、卓球などなど、ほかにもたくさんの競技が開かれる。
その大会で、みごと金メダルをとった少年が、ヒロにその栄誉を見せにきたのは、ヒロがミス・ジャパンだからというわけではなかっただろう。彼にとって、肩書はどうでもいい。というよりも肩書は理解できなかったにちがいない。
彼は、きっとこう感じたのだ。
「この女の人なら、ぼくのすごさをちゃんとわかってくれる」
だから、金メダルを見せたのだ。
一年間の審査で自らを鍛えたヒロは、ひとりの知的障害少年の純粋な心をとらえる、とても貴重な何かを身につけていたのだった。
老人ホームの慰問では、こんなこともあった。
ある老女の部屋を訪れた。
おそらく、もうかなりの記憶を失っていると思われた。その表情を満たしているのは、多くのものをあきらめ、多くのことを捨てている人の持つ清々しさと哀しさだった。
ヒロは、身を折り、
「おばあちゃん、こんにちは」
とゆっくり声をかけた。
老女はヒロの目を覗きこみ、両手を差し出して、すがるようにヒロの両手を包みこむ。細い、平たい、小さい手のひらだった。握る力もとても弱い。
「おげんきでね、いつまでも」
ヒロは手を握られたまま、つづける。
老女から、花が咲いたような笑顔がこぼれた。小さな肩を揺らして、ほんとうに楽しそうに笑っている。
その部屋を出て、ヒロは廊下を歩いた。
急に歩けなくなった。壁に額をすりつけて、声をあげて泣いた。
自分の祖母を思い出したのだ。
――どうして……
泣きながら思う。
――こんなに人に優しくできるなら、どうして、あたしのおばあちゃんが生きている間にやさしくできなかったんだろう。
取り返しのつかない後悔で、ヒロはもういちど泣いた。