第7章 駆け上がる階段(1)
ヨットは大海原で風に倒されても、構造上ふたたび起き上がることができるよう設計されている。
人もそうだ。打ちのめされ、ほとんど戦意を喪失しているように見えても、体内に復元力を抱えている。
ただそれは、きっかけが必要なのだ。小さな激励、思いがけない出会いなど、そういったきっかけが。
ヒロの復元力が本来のはたらきを始めたのも、そうだった。花織と洋司の激励、バー『Forest』のマスター・透さんとの出会い、それらによって、はっきりヒロは前を向く姿勢になった。
電気もつけないうす暗い部屋でワインをラッパ飲みしていた、あの荒んだ日々。自暴自棄というのは、自信喪失にほかならない。どうなってもいい、と思いながら、どこかで救いを求めている。けれでも、どうにもならない。
そうした堂々巡りにいたヒロだったが、親友の激励と、運命的な出会いとによって、少しずつ自分を取り戻しつつあった。
そんなヒロを影で見守っていた母は、けれどもまだ本当の笑顔を見せてはいないと感じていた。生きる喜びを全身で発していたヒロの少女時代。あの頃の輝きをもう一度取り戻すにはどうすればいいのか。母は考えた末に、我が娘にモデルになることを勧めた。何でもいい、とにかく夢を持ってもらおうと思ったのだ。
唐突な母親からの申し出だったが、意外にもヒロは乗り気になった。
子どものころの夢が蘇ってきたのだ。
――芸能界で自分を試してみたい。
それは、有名になってみんなからちやほやされたい、というチャラチャラしたものではなかった。
自分という全体を使っての表現、その喜びが得られるものが芸能界にはあるにちがいない、ヒロにはそういう予感があった。
モデル事務所は、母が探してくれた。
長兄の大輔(血のつながりでいえば、母の連れ子だから異父兄妹)はカリスマ美容師になっていたが、かつてモデル事務所に所属していたことがあった。母が兄に頼んでその事務所を紹介してもらった。
事務所は渋谷にあった。ヒロはバー『Forest』で働きながら、事務所に通うことになる。
オーディションに、いくつも参加するようになった。
CMとしては、たとえば量販店、カップ麺、ゴルフ場などなど。
雑誌では、タウン誌やテレビ番組誌などなど。
もちろん、事務所からヒロひとりを特選して出かけるオーディションではない。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる式に、マイクロバスで数人が運ばれていく、その一員だ。
オーディションの審査員は、CMならば広告代理店の営業やクライアントの担当者、制作プロダクションのプロデューサーやディレクターなど。雑誌なら編集者やカメラマン、ときにはスタイリストが参加することもあった。
顔見せと、簡単な質疑応答。
月並みな質問が多いが、ときにはだれかがきわどいジョークを言ったりする。そのときの笑い方を、じっと観察されたり。
それにしても、ほんの短い時間。
――こういう審査でマルかバツか決められていくわけか。
ヒロは、なんとなく味気なさのようなものを感じた。
そして結果はというと、ことごとく落選。
いくどかつづくうちに、すっかり「落選慣れ」になって、がっかりすることさえなくなった。言い換えれば、ハリがなかったのだ。それはオーディションにも表われてしまったことだろう。だからまた落選を繰り返す。
――だめだね、あたしには。
ヒロは思った。
つまり、「売り」がないんだね、だから、「その他おおぜい」なんだ。やっぱり子供の頃の夢のままって訳にはいかないね。この世界はあきらめようっと。
――だけど……
と思った。
そうか、「売り」か。
それは「ハク」と言ってもいい。あるいは、アイデンティティと言ってもいいし、付加価値とも言える。
それを身につけなきゃなあ。
たった一人で、自分の全体の表現だけに頼って生きていくためには、それは欠かせないだろう。
そんなとき、知ったのが「ミス・ジャパン」の公募である。
――よし、最後のチャレンジということにしようか。これがだめなら、モデルの道とは潔くオサラバだ。
ヒロは迷わず応募した。
数年前、花織に勝手に応募されて、わけもわからず出かけて行って合格し、いつの間にかやっていた「ミス茂原」のこともかすかに頭にあったかもしれない。
だが、およそ、ケタがちがっていた。
地域のミスコンの審査はたった一日。ところが、ミス・ジャパンの審査は、なんと延々、一年間かけるのだという。マラソン審査である。