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第5章 堕ちる落ちる(2)

 とつぜん噴き出した、火山のマグマのような怒りは自分でも始末がつかないままヒロの胸に突き上げつづけた。

 ばかやろう、ばかやろう。

 そう思った。何に対してだか、ぜんぜんわからない。自分のまわりのものすべて、いや、その自分自身に対しても怒り狂うような気分だった。

 もう、死にたいとは思わなくなった。

 なにもかも、ぶっ壊してやろう。

 そんな荒々しい気分が立ちこめた。

 翌日の夜、もういちどきのうの公園に行った。きのうのベンチには人影はなかった。

――なんだよ、弱虫。あれくらいのことで。

 ヒロはあきれた。

 ずんずん公園の奥に入っていった。

 ひとつのベンチで、きのうのように動物が数匹かたまっていた。きのうのように、みんな、ぐにゃぐにゃだ。

「よう」

 ヒロが声をかけると、動物たちはびくっとした顔でヒロの頭のてっぺんからつま先まで見る。それから愛想笑いをする。きのうのうわさが広まっていたのかもしれない。

「あたしにも、それ、くれよ」

 さらりと言った。

 一人の男の子が、ヒロの機嫌をとるようにすぐ差し出した。つんと、ペンキ屋の匂いが鼻元にひろがる。

 ヒロは男の子たちがしているのを真似て、袋を口と鼻にあてがう。息を吸う。いくども吸う。

 なんとも感じなかった。

――なんだ、アホくさ。

 と思った。

 けれどもその頭の中に、広い、白の世界がひろがっている。それは、ちょうどあの九十九里の白砂の浜のようでもある。

 白砂の中、遠くをだれかが歩いている。

 カモのようでもあり、大きな鳥のようでもある。

 ヒロは駈け出して追いつこうとする。足がふわふわして、空へ昇るようだ。見ると、遠くに見えた姿も空へ飛んでいる。

 ヒロはこのうえなく幸福な気分に包まれた。



 その日が、事実上の境目だった。

 ヒロはたったひとつのことを思った。

――堕ちよう。まっさかさまに。

 である。

 あたしの身体も心も、とことん堕ちる。それしかない。

 具体的にどうしたい、ということは思い浮かばない。けれど、堕ちることでしか自分を支えられないというセッパつまった気分だけはたしかにあった。

 周囲でヒロのそのころの毎日をずっと余さず観察していた人がいたとしたら、

「いったい、なにがかなしくて……」

 ああまで、自分をずたずたにして、まわりにも迷惑をかけなければならないんだろう、と思ったにちがいない。

 街の片隅のモグラの巣のようなところで、だらっとしゃがんでシンナーを吸う。

 と思ったら、こんどはいつのまにか爆音を響かせるバイクの後部シートに特攻服を着て乗っている。

 暴走族の主要人物になっていたのだ。

 が、しかし、ヒロを観察しつづけていた人ならきっと気づいただろうが、ヒロはそうした日々に決して高揚してはいなかった。醒めていた。徹底的に醒めていた。特攻服を着て、風に髪をなびかせながら、おそろしく無表情な女の子は、どこかはかりしれない凄みも感じさせていた。

 暴走族の上部には、もちろんその筋の人、つまり暴力団が位置する。それがこの世界の階層である。

 当然のなりゆきで、ヒロはその筋の人の手足となる。無表情で、どこか度胸がすわって見えるため、よけいに目をつけられた。

 ブツをあずけられた。

 マリファナである。

「どうするんですか、これ」

 無表情の暴走族少女がこわいおにいさんに尋ねる。

「売るに決まってるだろ」

「わかりました」

 指示された場所に、指示された人と待ち合わせる。

 でも商談は成立しない。そもそも、ヒロにはやる気がないから成立するはずもない。

「高過ぎていらないと言われました」

 そう報告すると、こわいおにいさんは、充血した目をぎろりと向いて、

「ばかやろう、死んじめえ」

 かすれ声で言った。

 ヒロはびくついたりしなかった。けれど、そのセリフ、いつかあたしも言ったことがあるなあ、とそのことのほうに胸が痛んだ。

 成田空港で使用済みのテレカを集めた。

 それを暴力団の事務所で偽造テレカへと改造する。そういう仕事もやらされた。事務所の大きな水槽にはピラニアが飼われていた。餌は金魚だ。

 むぞうさに数匹の赤い金魚が放りこまれると、あっというまにピラニアに食われる。荒涼とした景色だ。それを見るときのヒロも、能面のように無表情だった。

 家にはほとんど帰らなくなった。

 仲間の家を泊まり歩いた。

 ちっとも楽しくなかったが、ばか騒ぎには付き合った。

 どろどろしたものが、自分の中に淀んでいくようだった。たまに家に帰ると、身の置き所のないほど疲れて、畳に崩れた。

 父は、そういうヒロを怒鳴りつけはしなかった。

 かといって、見放しているのでもなかった。

 いつだったか、その日も、朝方、濡れて干されている洗濯物のようにダラーリとしたようすでヒロが家に帰ってくると、

 父は、

「自分をゴミ箱に捨てたきゃ、勝手に捨てたっていいが……」

 ひと呼吸おき、

「最後のところだけは残しておけよ」

 そう言って、立ち去った。

――最後のところ?

 それが何を意味するのかよくわからなかったが、ヒロにはずしんときた。最後のところ……、最後のところ……、捨てずに残す最後のところ……なによ、いったいそれって。



 高校の出席日数はかろうじて足り、ヒロは卒業できることになった。が、進路は決まっていない。そんな生徒は学年でただ一人だった。

 卒業式もヒロは一人だけ浮いていた。先生達の棒読みの祝辞など耳に入らず、

 『高校を卒業したら……』

 いつかカモが言っていた言葉を思い出していた。

 『俺たち、誰よりも早く結婚しようぜ』

 冗談交じりの他愛ない約束。眠る前に誓い合ったっけ。

――バカ、あんたがそっちにいたんじゃできないじゃん……。

 泣いている生徒は他にもいたが、ヒロの涙だけは深い悲しみの色だった。



 卒業式の翌日から、一週間、ヒロは何もしなかった。父もあのことを言った日以外、何も言わない。たったひとつだけ、積極的にやったことといえば、バイクの免許を取ったことぐらい。自分では気づかなかったが、やはりまだカモの呪縛からは解放されていなかったにちがいない。

ようやく第5章が終わりました。一部には『カモの死に主人公が絶望して冒頭のシーンに戻るのかぁ』と思われた方もいるみたいですが、話はまだまだ続きます。現時点で全体の4割くらいですね(この後変わるかもしれませんが)。カモの死は主人公にとって確かに衝撃的な出来事でしたが、ここから立ち直る様を描かないと救いがないですよね。これからのヒロにご期待ください。

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