第5章 堕ちる落ちる(1)
喪失感って何だろう。
何年ぶりかの街を歩いていて、
――あれ、ここにたしかあったはずの店は?
というところに建物の影も形もなくなり、駐車場になってしまっている。あのとき、感じるのもまちがいなく喪失感。
すきま風が胸に入り込んでくるようで、とても感傷的になる。その店と深い馴染みではなかったのに、取り返しのつかない失くし物をしたような気分になったりして。
でも、そうした感傷はすぐに淡くなる。
なぜなら、その建物自体はこころの中にそれほど大きな体積を占めていなかったから。
同じ喪失感でも、人がもしそのものに、自分でも気がつかないほど深く鋭く寄り掛かっていたものを失くしたとしたら……。
なんとなくさみしい、というものではなくなる。
つっかい棒がはずれたわけで、自分の立っている地面がふいに消え失せるような喪失感。身体は激しく傾く。身体が傾けば、当然のことながら心が傾く。傾いた心は、どんどん下に沈んでゆく。
カモを失ったヒロの心が沈んでいく速度は速かった。喪失感に加えて、拭い去れない罪悪感が重なっていたからだ。
――あたしが、カモを死なせた。
それは、どんなに頭を振り払ってもまとわりついてくる思いだった。ヒロは疲れ果てた。
人は心が沈んでくると、空を見なくなる。
あれは、どうしてだろう。
もしかすると、空の重みに耐えられなくなるのかもしれない。いつも、分厚い灰色の雲が頭上にある。それが、ずっしりと覆いかぶさってくる。
だから、首をうなだれて歩く。
うなだれるから、下ばかり向く。空を見ない。
いつのまにか、友だちが自分のまわりから去っていった。
「ヒロ、あんたの話を聞いてあげたいんだけど……」
とひとりの友だちが言ったことがある。
「でも、だめ。つら過ぎて聞けない。ごめんね。元気だしなよ。つめたいようだけど、あたしにはそれしか言えない」
と言って去る。
去ってからは、二度とヒロの前には姿を見せなかった。
――死にたいなあ。
ヒロは毎朝、目がさめてまっさきにそう思う。
新聞で、自分と同じくらいの子が事故でいのちを落としたなどという記事を見ると、
――うらやましい。
そう思った。
電車を待ってホームに立っていて、急行列車がスピードをあげて近づいてくるときなど、ふっとその列車のほうに倒れ込みたい衝動にかられる。
『カモ、会いに来て』と何度願っても会えない。それなら私が死んでカモのいる世界に会いに行こうと本気で思った。
でも、実行はしなかった。
ある夜、いつものように魂を置き忘れたようにヒロは街を歩いていた。小さな公園があった。暗い灯がひとつ点いているだけで、中のようすはよく見えない。
いつもはそんなところへ入る気にもならないヒロだったが、夢うつつのような足取りで入っていく。
ベンチに、いくつかの影がある。
――あ、森の動物がすわってる。
ヒロは、そう思いながら歩いた。不思議とも、気味悪いとも、怖いとも思わない。ただ、「動物がいる」とだけ思った。
そのベンチの横を通ると、動物たちは動いた。
――なんだ、人間だ。
ヒロは思う。
自分と同じぐらいの男の子たち……あ、二人が男の子で、一人は女の子だ。ベンチに座っているのではなく、ベンチの前の地面にしゃがんでいる。
――骨の軟らかい子たちだなあ。
ぼんやり、ヒロは思う。ぐにゃぐにゃなのだ。
みんなで、なにかを手渡ししている。ハミングのような、動物の鳴き声のような、なんともへんてこな小さい声を出しながら。
ペンキ屋の匂いがぷんとした。
「ハア?イ」
一人の子が何かを口から外し、右手をふわぁりと挙げてヒロに声をかける。とても機嫌がいい。けれども、とても弱々しい。関節もぐにゃぐにゃに見える。
――ああ、そうか。
ヒロはわかった。
やったことはないが、話に聞いている。シンナーだ。
「おれたちさあ……」
手を挙げた子がいった。
もう一人の男の子がつづけた。
「UFOを待ってるんだぜ、ははは、いっしょにどう?」
女の子がにやにやしている。
男の子がふらふらしながら立ち上がり、手にしていたものをヒロに差し出した。
ヒロは、目の前が真っ赤になった気がした。
むしょうに、かぎりなく腹がたった。持て余すほどこみあげてくるものがあった。
「ふざけんじゃねえよッ、ばかやろー」
シンナーを差し出した男の子の脇腹を蹴りあげた。
男の子は二メートルぐらい吹っ飛んだ。
「なにすんだよう」
ゆるゆると立ち上がってきたもう一人の男の子と、そのあとをついてきた女の子をまとめてぶっとばした。一人は平手で、一人は肘で。三人はあっけなくベンチの横に倒れ込んで動かなくなった。
「てめえら、甘っちょろいんだよ、ばかやろー」
ヒロは吐き捨てるように言って、立ち去った。