第4章 喪ったもの 還らぬもの(2)
その翌日の正午前。
カモがうつむきながら、歩いている。
向かった先は、ヒロの家だ。
門の前でためらっている。そして、決心したようにベルを押す。インターフォンからヒロの母の声。
「加茂原です」
と言うと、
「はいはい、ちょっと待ってね」
母が答える。
が、そのまま、だれも出てこない。
どのくらい待っただろうか。
玄関のドアを開けてヒロが出てきた。
「あ、なんか用?」
ヒロはぶっきらぼうに言う。
「きのうは、わるかった……」
「なんのこと?」
「きのうだ」
「ああ、そんなことか」
「わるかった」
「あたしにあやまることないじゃん」
「……」
「だけどさ、ひとつ聞いていい」
「うん」
「あのあと、どこ行ったのさ二人で」
「ちょっと……」
「はっきり言いなよ、やったんでしょ」
「……」
「ははは、なによ、じめっぽくしちゃってさ、いつまでいっしょだったのよ」
「朝まで……」
「よく言うよ、ははは、だ。何回やったの」
「……」
「五回? 六回?」
「……」
「ぬかれちゃって、スカスカな顔してるよ」
あたし、何言ってるんだろう、とヒロは思いながら、言葉だけがどんどんエスカレートしていく。
蝉が鳴いている。暑苦しい声だ。
ヒロとカモは、道に立ったままだ。二人の影が濃く道に落ちている。ヒロは、しばらくだまってから、
「話はそれだけ?」
と言った。自分でもびっくりするほど、冷やかな声だった。
「あやまろうと……」
カモは小さくなっている。
ヒロの胸の中で、大きなガラスの銅像が壊れたのはその瞬間だった。バラバラと、破片があたりに散らばる。胸を引き裂くような音を立てて。
ヒロはふいに、カモの襟首にしがみついた。
「聞こえねえんだよッ! はっきり言えよッ!」
二人は揉み合いになった。
カモも反撃に出た。ヒロの襟首をつかんで、ヒロの頬にビンタをくらわす。
ヒロは泣きながら、
「いいよ、もうッ! うっとうしいから、あたしの前にすがた見せないで」
カモは緊張した目でヒロの顔を見る。ヒロは目を合わせない。
「……」
カモは無言で首をうなだれる。ヒロは、そのうなだれた首に向かって、低い、静かな声でこう投げ捨てた。
「死んでよ」
カモは、顔を上げる。ヒロはもう背を向けて、家に入ろうとしている。
「わかったヒロ。もうぜったい、おまえの前にすがたを出さない。約束する。ごめん。ほんとにわるかった」
カモはそう言い終えて去った。
千葉の外房、つまり太平洋に面した浜は、九十九里浜と呼ばれている。六十六キロにわたって、日本一長く美しい弧を描く白砂青松の浜だ。源頼朝がその長さを測ったとき、一町(およそ六百メートル)ごとに矢を立てていくと九十九里あったという伝説からこの名があるといわれる。
当然のことながら、夏ともなれば海水客でにぎわう。けれども、海岸線が長いため混雑するということはない。
海水浴客がいるにはいるが、浜はごったがえすことはなく、むしろ整然としている。ビーチパラソルがところどころに花を咲かせていても、海水浴客のはしゃぐ声は潮風に消されているのか、まったく聞こえない。
夏の太陽が白い砂に反射して、きらきらと光る。風にハマヒルガオがそっと揺れている。華やかなのに、どこかさみしさのようなものも含んで。そんな海岸である。
その白い浜を、一人でゆっくりゆっくり歩いているのはヒロだ。
真夏の太陽は、中天からすこし西に移動している。
カモがうなだれてヒロの前から去って、ほぼ二時間がたっていた。
あのあと、カモのしょんぼりしたうしろ姿がすっかり見えなくなってから、ヒロは家の中に入った。
しばらく、自分の部屋でぼんやり天井を見上げていた。その目じりからツーッと一本、涙が伝う。それを手のひらですこし乱暴にぬぐってから、ヒロはおもてへ出た。どこへ行くということは考えていなかった。ただ、足が潮の匂いの方角へ向いていた。ヒロの家からその浜までは、二十分もすれば歩いていける。
海に出てヒロはいったんとまり、水平線を見て、それから浜を歩き出した。
女子高校生が海水浴でもなくそうして一人で歩いていても、だれも不審そうに目をやったりはしない。だから、ヒロの目にあとからあとから涙があふれていることは、だれも気づかない。
ヒロは、ハマヒルガオを見つけて、そっとしゃがむ。
しゃがんですぐに、ハッとした顔であたりを見回した。
声が聞こえたような気がしたのだ。
「コーカイするぞ」
たしかそんなふうに聞こえた。
が、ヒロのすぐ近くにはだれもいない。二十メートルほど先に、風でころがされてきたビーチボールを小学生が追ってきているだけだ。ビーチボールに追いついたその小学生が、しっかり抱えて向こうへ走り去ってからは、ほかにだれもいない。
だが、また、
「コーカイするぞ」
と聞こえる。
それは波の音に混じって、音源の古い録音のようにすこしくぐもって聞こえる。海の家の横にある有線放送もちょうどそんな感じに聞こえるが、その声が有線放送のスピーカーから発しているものでないことははっきりわかった。
ヒロは立ち上がる。膝からパラパラと白い砂が落ちて、それが風に飛ばされていく。
声は、くぐもってまたつづいた。
ヒロは耳を傾ける。だれの、どこからの声と、わかったわけではない。けれども、不思議だとは思わなかった。
声は言う。
「このあといちどだけ、あいつから電話がかかってくる。おまえはそこでかならずあやまれ。でなければ、一生涯、コーカイすることになる」
コーカイが後悔の意味だと、ヒロはようやくわかった。