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フェイカー(贋作師)

作者: 花南(ミコト)



 天才はよく二十七歳で死ぬらしい。

それは悪魔と才能の契約をしているためで、その歳で去った天才たちはいわば悪魔の力を借りているだけの、自分の実力で勝負していない人たちなのだと父は僕に説明した。

 幼い頃の僕はそれのどこが悪いのだろうかと思い、僕にも悪魔的な鬼才が宿らないかとちょっぴり願ったくらいだ。

凡人という名の十字架はキリストが背負った十字架より重いと思うんだ。

僕はこの重荷を背負ってすでに十八年生きているけれど、いまだにその重さに耐えられなくて「左目を差し上げますから僕に絵の才能をください」と願わずにはいられない。

 父は有名な画家だった。

さすがに美術館に特設展示会が開かれるほどではなかったが、それなりに名前は売れていた。

 そんな父が死んだのは今から二年前のことになる。ある日、山に出かけると言ったきり人気のない山奥で焼死体として発見された。

根暗な奴だったとは思っていたけれども、何か追い詰めるようなことを言ってしまったのだろうかと、当時自分の行動を振り返った。

 そう、母は僕が十歳のときに離婚していたし、兄は大学生活を楽しむために一人暮しをしていた。

つまり追い詰めるとしたら僕しかいない。

 あれかな、

「二十七歳になっても死ななかったってことは、お父さんは凡人だったってことだね」

 って台詞が堪えたのかな。

そんな子供の冗談さえ真に受けちゃうナイーブさを発揮されるとさすがの僕としても付き合いづらいのだけれども。

 とはいえ、付き合う必要もなくなってしまったわけだ。父はあっという間に僕を置いて自殺してしまった。

 兄の美鶴みつるは僕の面倒を見るために大学を辞めて家に戻ってきた。

母は莫大な遺産が手に入った僕らのところにここぞと顔を出して、財産分与の権利を主張したが、いくばくかの金を渡したあとはぱったりと連絡を寄越さなくなった。

 美鶴は帰ってきたときに、少し老けたかもしれないと思った。

父は二十代で補導されて以来、ヒゲを伸ばしていたから見た目は熊のようだった。

美鶴の顔は二十とは思えないくらい老けこんでいたから、きっと兄は老け面の母親似なのだろう。

そして僕はいまだに中学生と間違えられる童顔だからきっと父親似だ。

 さて、なんでこんなに兄と父について話しているかについて説明しなければいけない。

 僕たち兄弟は去年からある計画を実行している。

 そのきっかけになったのは、美鶴が見つけてきた父の日記に書かれた内容だった。

そこには父が殺されるかもしれない、狙われている……そんなことが書いてあった。

「たしかに有名な画家ともなると、美術的な価値を向上させるために殺されるなんてこともあるかもしれないね」

 と兄と話し合った。何よりびっくりしたのが、そんな有名な画家だったということを息子の僕が知らなかったということだ。

美術的な価値で殺されるなんて、有名スターのようではないか。

そんなプレミア価値が父の描いた絵にあるとはつゆとも思っていなかった。

 美鶴は言った。

「私利私欲のために親父を殺すなんて許せないな」

 僕は父はどうでもよかったが、兄のことは好きだったから「最低な奴だな」といちおう同意しておいた。

「親父の絵をそんな奴らに渡したくない」

 美鶴はさらにそう言った。

僕はよくわからずに「お気持ちようくわかります」と頷いた。

千鶴ちづる、お前は絵が描けるよな?」

 なんとなくここらへんから嫌な予感はしていた。

「贋作を作ろう。それを売りさばいて、本物を買い戻すんだ。大丈夫、お前は人の真似っこだけは得意だ、親父の絵だって真似できる!」

 待て待て。上手いと言っても美大にすら行ってない高校生のらくがきにそんな値段がつくわけがないだろ?

僕は「ムリだよ」と苦笑いをする。

 だけど美鶴は諦めなかった。

来る日も来る日も、「お前はやれば出来る子だ」と言ってくる。

 やれば出来る子で画家顔負けの絵が描けたのなら、僕は悪魔の力なんて頼ったりしないのだよ、お兄様。

いくら美鶴がいい兄だったとしても、こればかりは勘弁だと感じた。

 だけどあんまりにうるさいもんだから、一度だけやってやることにした。

まだ売り残してあった絵を見ながら、父がいかにも描きそうな静物画を一枚だけ。

本当にそれだけのつもりだったんだ。

僕は本来チキンだから、父の絵だと言って自分のらくがきを売るなんて真似、恥ずかしくてできない。

 ところがこれが僕の運命を大きく変えてしまった。

兄が僕のらくがきを持っていって「贋作掴まされましたね」と画商で笑われて終わりだと思ったそれは、何故かいいお値段で買い取られてしまったのだ。

 僕は何度も「嘘だよね?」と確かめた。

だけど兄は小切手を見せて、そのゼロの数が正しいのを僕に確認させてくれた。

僕の絵に百万単位の値段がつくってどういうこと?

少しの間信じられなかったけれども、そのうち僕の中で認められた嬉しさのようなものに変わっていった。

「この調子でどんどん頼むよ」

 兄は僕の大好きな肉屋のヒレステーキをお祝いに出してくれて、僕は食べ物につられてうっかり「うん」と言ってしまった。

いいや、言い訳せずにおこう。僕は浮かれていたんだ。

自分の絵は父と並ぶんだってことが素直に嬉しかった。

それが父親の名前を借りただけの仮初めの名誉だとも知らずに。

 かくて、僕の贋作を描く日々が始まった。

 僕は魅せられていた。絵の持つ魔力に、そして金の魔力に。

 そうして僕と兄の、贋作を売って父の絵を買い取る計画は着実に進められていった――。



 さて、回想はここまで。

 季節は三年生最後の四月だ。

僕は青春を捧げるための部活もなく、肩を叩きあって理解し合えるような友達ができたわけでもなく、大学に向けて本当にやりたいことが見つかったわけでもなく、なんとなく生活して三年生になった。

当然、彼女もいない。

そんな選ばれた男にだけ許されるような特権は僕の前を春風のように通りすぎていってしまった。


 その日、僕は普段よりも少しだけ早く登校した。

予鈴が鳴る前に学校についたのはいつぶりだったかな?

そんなことを考えながら自転車を駐輪所に止めて、裏庭から昇降口のほうへ歩いている最中だった。

 絵が目に飛び込んできた。

 正確には、ある生徒が描いていた絵が目に飛び込んできた。

彼女はグラウンドで朝練に励む野球部員のクロッキーをしていた。

しかもその手つきがやたら早いのだ。

あっという間に一枚、一枚と瞬間をとらえたクロッキーを描いていく。

 けっこう上手いなあ。

そう思って思わず足が止まってしまった。

女の子はこちらの様子には気付かないようで、そのまま親の敵のように野球部員を睨みつけたままスケッチブックを消費していった。

「ねえ」

 僕がかけた声に、女の子はこっちを振り返った。

眉は整えてないゲジ眉、卵型の綺麗なフェイスラインの、どちらかといえば少年のような顔立ちの女の子だった。

「何か用?」

 声はとてもハスキーだ。

髪型もショートだし、彼女がスカートを履いていなかったら、僕は彼女を男だと思っていただろう。

「上手いなあと思って。美術部なの?」

「まあな」

 彼女ははすっぱな口調でそう言った。

「絵、あんたも描くの?」

「いや、僕は描かないよ。見てるだけ」

「絵を描く隠れオタクかどうかは実際に描かせてみればわかる。一度ペンを握るのがうまくなると、簡単にはずぶの素人には戻れないからな」

 コンテをこちらに向けられて、僕は思わず

「ごめんなさい。実は描きます」

 と白状した。

彼女は「へー」と低く呟き、コンテを引っ込める。

「いつもここから絵を描いてるわけ?」

「いや、たまたま。最近基礎を怠っていたなあと思って、初心にかえろうと思ってさ」

 彼女の傍らにはカップ酒が置いてあった。

昼間から学校で飲酒かよ、勇気あるなあと思っていると、それに手を伸ばしながら笑った。

「あ、これただの水。ゴミが入らないし、水道水汲んで朝飲むのにはちょうどいいだろ?」

「缶ジュース買えば?」

「朝から百二十円使えるってさてはお前、金持ちだな」

 どうやら彼女はジュースを買う回数を制限しなければいけないくらいお小遣いが少ないようだ。

僕は彼女が美味しそうにただの水を飲むのを見ていて、「美味しいの?」と聞いた。

「飲むか?」

 ぐっと差し出されたカップ酒の瓶を受け取り、一口飲んだ。

「ぶはっ!」

 思わず水を吹き出した。

ここらへんの水道水が変な味するのを忘れていた。当然美味しいわけがない。

「やはり金持ちのお口には合わない一品だったか」

「ねえ、そんな体に悪そうな水飲むと体壊すよ?」

 まだ喉の奥に嫌な感覚が残っている。

女の子は「だいじょーぶ、俺は丈夫だから」と言った。

俺女ですか……あまりに板につきすぎて、女の子の嗜みとかを指摘する気にもならないや。

「おう、そろそろ予鈴鳴るな。戻るか」

 階段からお尻をあげて、女の子はこっちを見た。

「お前さ、名前なんて言うの?」

「は? 皆千鶴かいちづるだけど?」

「千鶴か。俺は鵬未来おおとりみく。未来って書いてミクって読むの」

「ふうん。よろしくね」

 といっても、予鈴ぎりぎりに登校してくる僕が彼女と会う機会なんてそんなにないのだろうけれども。

 未来は小脇にスケッチブックをはさむと、外股で昇降口のほうへと消えていった。僕も自分の上履きをはいて、教室に向かう。


 「おはよう」

 クラス替えが行われた直後の、見知らぬクラスメイトが挨拶をしてくれた。僕も「おはよう」と返す。

 教室は本鈴で先生が入ってくるギリギリまでうるさい。

 僕は幼馴染の白木律花しらぎりつかの姿をさりげなく探した。

彼女は二年生からいっしょのクラスだった女子と話していた。

 本鈴が鳴る。遅刻ゼロを目指している担任は本鈴とほぼきっかりに入ってきた。

生徒たちはめいめいの席に戻り、改めて起立の合図と共に立ち上がる。

 着席して、担任が名簿をチェックしている間、名前順に座ると僕の斜め前の席になる律花を見ていた。彼女の長いストレートヘアーは今日は結ってなかった。僕はポニーテールのほうが好きなんだけどなあと思いながら、彼女が勉強用の眼鏡をかけるところまで見ていた。

 別に彼女が恋愛的な意味で好きかと聞かれたら、そんなわけじゃあないけれど、なんとなくいっしょにいると気が楽だから、今の今までいっしょに行動していることが多い律花。

 紺色のセーラー服にストレートヘアー、眼鏡、やや美人、優等生。

人によっては「お?」と思うような格好なのだろうけれど、僕からすればこの上なくスタンダードかつマニアックな容姿だと思う。

 理系クラスの女子は少ないし、彼女はちょっとモテる。

今も隣の男子がちょっかいを出している。

 律花はお前のような平和そうな頭している男の手に追える女じゃあないぞ?

胸中そんなことを思いながら、化学の教師が来るのを待った。


「千鶴」

 一日の授業が終わって、ホームルームも終わって、帰宅しようとした僕に律花が声をかけてきた。

「今日も真っ直ぐ帰宅コース?」

「律花は茶道部?」

「そうだよ。お茶飲んでく?」

「断る。抹茶オレならともかく、あんな葉っぱ味」

「お茶はみんな葉っぱの味じゃない」

「律花、君は草食動物だったんだね。どうりで馬面だと思ったよ」

「うわあ。千鶴ったら雑食だと思っていたけれどもやっぱり猿の子だったんだね」

 すぐに反撃は返ってくる。

そうそう、律花は口が減らないくらいで丁度いいんだよ。

 僕は「じゃ」と手をあげてお別れを言った。


 自転車をすいすいこげば、自宅まであっという間についた。

 誰もいない家の鍵を開けて、誰もいないのに「ただいま」と呟いた。

後ろ手で鍵をかけると、鞄を持って二階へと上がる。

自分の部屋に鞄を置いて服を着替えたら、一階に下りて冷蔵庫から麦茶を取り出した。

 コップに二杯一気飲みして、喉の潤いが満ちたところでアトリエの扉を開く。

照明が一番明るい真下には描きかけのカンバス。僕はイーゼルの角度を調節してから、今度は自分の座る位置を微調整した。

アクリル絵の具をジェルメディウムで薄めながら、好みの色を作って、そして着彩を開始する。

 父のとおるは油絵を好まなかった。

もちろん油絵もできるのだけれど、自分で好きなように薄めたりテクスチャをつけたりできるアクリル絵の具のほうが好きだと、それを画材に選んでいた。

僕ももちろんその方法に倣う。

 父の絵は風景画や静物画が多い。

僕は父の好みそうな風景をネットや雑誌からチョイスして、それに少し角度をつけて誤魔化しながら描いている。

 だけど今回は筆が乗らないのか、いまいちピンとくるように仕上がらない。

スランプというわけではないのだけれど、なんとなく父の絵らしい雰囲気ではないのだ。

 僕はしばらくその絵と苦戦しながら向かい合った。

そうしてようやく描きあげて、乾燥させる段階までいった。

 やれやれ。

そんな気持ちで席を立つと、ずっと我慢していたトイレに行った。

最後に一度、おかしいところがないかチェックしてから休憩に入ろう。

 アトリエに戻ると、いつの間にか帰ってきていた兄が僕の絵を見ていた。

「苦悩が滲んでるな」

 美鶴は顎に手を宛ててそう呟いた。

「そりゃ、苦労したから」

「苦労じゃあない、苦悩。何か考えながら描いてたんじゃあないか?」

 僕はふと自分のさっきまでを振りかえってみる。

たぶん、絵のこと以外は何も考えていない。

「特に悩みとかはないけど」

「そうか? 何かあるんだったら、俺でできることがあったら言ってくれよ」

「あんま十八歳の男に過保護だとブラコンじゃすまなくなるんじゃない?」

 僕は笑ってアトリエを出た。少し遅れて兄も出てくる。

「夕飯、材料買ってきたから今から作る」

 美鶴はエプロンをつけながらそう言った。

僕は「ごゆっくり」と呟いて、ポテトチップスの袋を手にとった。

「食べ過ぎるなよ?」

「大丈夫。ちゃんと夕飯も食べるから」

 僕はポテトチップスを持ったまま二階まで上がる。

絵を凝視し続けたあとに画面は見たくなかったから、テレビもパソコンもつけずに菓子をぱくついた。

何かしたいような気もするけれど、特にしたいことが見つからない。

 一眠りしてから宿題を片付けてテレビでも見るかな。

そう考えてベッドのスプリングを軋ませたときだった。携帯が鳴る――

「もしもし?」

 うっかり名前の表示を見ずに取ってしまった。

幸い声を聞いただけでわかる相手だったけれども。

――千鶴? 私だけど。

「律花、まだ学校にいるの? それとも自宅?」

――学校。片付けてたら思ったよりも遅くなっちゃってさ、他の部員もう帰っちゃったの。最近変な人も多いし、迎えにきてくれない?

 僕はちらりと外を見た。たしかにもう真っ暗だった。

「すぐに行くからちょっと待ってて。どこにいる?」

――昇降口んところ。

「わかった。じゃ、あとで」

 通話を切った。携帯をポケットに仕舞って、自転車の鍵を鞄から取り出す。

ジャケットを羽織って階段を早足で下りた。

「夕飯できるぞ?」

「律花から呼ばれた。ひとりで帰ってこれないんだってさ」

 僕の返事に美鶴はおかしそうに笑う。

なんだよ、僕は別に律花にいいように扱われているわけじゃあないぞ?

まあ美鶴にどう思われていようがどうでもいい。


自転車に乗って、高校までの暗い道のりをこいでいく。

「やーみやみやみやみこさーん。あなたはどうして小学校にいないのー」

 闇の中を走りながらてきとうに作曲した「闇子カムバック」を口ずさむ。

闇子は最近の小学校の怪談から消えてしまったのだろうか。誰がトイレのヒロインを花子と張り合うのだろう。

 高校の正門はほとんど閉まっていた。

僕は僅かに開いた隙間から中に入り、律花の姿を探した。

「律花、律花ぁー」

 名前を呼ぶと、小走りで小さな影が近づいてきた。

セーラー服の紺は夜の闇に紛れやすい。

「あまりに黒いシルエットだけだったから闇子さんかと思った」

「病み子? なんか病んでるの?」

「病んでないよ。いや、多少なら病んでるのもアリだけど」

 律花は僕の自転車のかごに荷物を入れて、隣を歩き出した。

行きはよいよい、帰りは歩きだからやや遠い。電灯がところどころある以外は、人気もあまりない道をふたりで歩いた。

「律花ってさ、他にも送ってくれる男くらい、いるんじゃあないの?」

「うん、たぶんね」

「なんで僕を呼んだの?」

 ここで「会いたかったから」なんて答えが返ってきたら僕もちょっとときめくかもしれないんだが。

律花は「だって……」と口ごもる。

「拒絶されるのは、怖いでしょ?」

「なるほど。つまり拒絶しないであろう僕に連絡がきたわけだね」

 わーい、神様。僕の淡い期待を返せ。

律花は隣を歩きながら、こくりと頷く。

「千鶴はどうして来てくれたの?」

「呼ばれたからだよ?」

「呼ばれたらウルトラマンのように来るの?」

「すぐに行ける距離ならね」

「千鶴は優しいの? それともノーと言えない男なの?」

 僕は少しだけ含み笑いをして、言った。

「人間誰しも嫌われたくはない。誰も彼もから好かれたいと思わなくても、誰からも嫌われたくはないんだ」

 おかしいよね。どうでもいい人にさえ、嫌悪の目を向けられるのは辛いと感じるんだ。

 律花は「それくらいじゃ嫌いにならないよ」と口を尖らせて言った。

「でも、そうでしょ。律花だって拒絶されるのは怖いって言ってたし」

「そうだね。私は拒絶が怖くて、君は嫌われるのが怖いんだよねー?」

「そのとおり! だから僕は自分の余暇を削って律花を迎えに行くし、どうでもいいクラスメイトの誕生日に缶ジュースを買ってあげるわけ。嫌われるのは嫌だからね」

「チキン!」

「アイアムチキン! クックドゥドゥ」

「え、全然おもしろくない」

 そう言って律花は鼻で笑い飛ばした。

寒いと言われるよりも失笑されるほうが辛いんですけれども。

 他愛もない会話を続けて、彼女の家まで無事についた。

お別れをして、自転車にまたがる。

さあ、お荷物もなくなったし、すいすい帰るか。

 自転車のペダルに力をこめてちょっとこぎ出したところだった。

まだあまりスピードを出してない僕の耳に、ボールをつく音が聞こえる。

公園のほうからしているみたいだった。

僕はネガティブにスイッチが入って、ボールがこのタイミングで自転車にぶつかったら横倒しだと思い、そっちを確認した。

 そこでバスケットボールをゴールにぶつけたり、ドリブルしたりしていたのは未来だった。

パーカーとショートパンツ姿でひとりボールと遊んでいる。

夢中みたいだし、特に声をかける必要もないかな? と思ってもう一度ペダルに力をこめた。

 何かがぶつかってきて、僕の自転車は横倒しになった。

「知り合いに会ったのに無視するとはいい度胸だな。千鶴」

 僕にぶつかって再び転がったボールを拾い上げ、未来はそう言った。

「俺の動体視力を嘗めるなよ?」

「未来さん、危ない。自転車にボールぶつけるのは」

「そんぐらいしないと止まんないだろ?」

 普通に声をかけるという術を知らないのだろうか。

僕は自転車を起こして、「何の用?」と聞いた。

「遊ぶ奴いなくて退屈なんだ。二人ドッヂボールやろうぜ。円の中の人が当てられる役な」

「それって一方的にサンドバッグになるんじゃあ?」

「だから楽しいんだろ? せいぜい逃げまわることだな」

 未来はにやりと口の端を持ち上げて笑った。少し怖い人だと思った。

 彼女は棒切れで円を描く。僕はため息をついた。

「一度だけだからね?」

「おう、お前が一度当てられて、お前が俺に一度当てられたら帰っていいよ」

 そう言って彼女はボールを構えた。

僕は円の中に入って、彼女のほうを向く。

 投げる。

 僕が避ける。

 未来がボールを取りに行く。

 投げる。

 僕はまた避ける。

 遠くまで転がっていくボールを未来が追いかける。

 いつまで続くんだろう、能率悪いゲームだ。

そもそも相当とろくさくない限り、女の子が投げたボールを正面から避けられない上に受け止めることもできない男なんていないと思う。

「むがー! 何故ぶつからないんだ」

 彼女にこのゲームの致命的すぎる理由を言おうかと思った。

二人しかいないということ。

キャッチボールが成立しない状態でボールを投げれば、当然ボールはあっちこっちに飛んでいく。

「ようし。俺が本気で必殺技を出すから、お前はそれに当たって死ぬんだ。三回転とかしながら」

「え。それどんな罰ゲーム?」

「必殺技の名前は『俺ってスバラシイ』にしようと思う」

 ああ、なんだか未来ってちょっと痛い子なんだってことが分かってきた。

「当たれよ? 当たって三回転して倒れるんだ。でないと最終必殺奥義『人生ってバラ色』が発動するからな!」

 それって必殺技「俺ってスバラシイ」とどうパターンが変わるんだろう。

投げるスピードか、それとも彼女の意気込みか。

 女の子が投げるボールに痛くないような角度でわざとぶつかって、なおかつ派手に三回転しながら倒れる方法を僕はちょっと考えた。

すぐには思いつかない。

もちろん僕はそこまでサービス精神豊かではない。

「いくぞ! 俺って、スッバラシー!」

 彼女は夜だというのに大声でそう叫ぶと、僕に向かってボールを全力で投げてきた。

え、ちょっと痛そうだ。

そう思った瞬間、僕は反射的によけてしまった。

「あ……」

 飛んでいったボールは女の子の投げたボールとしてはかなりのスピードで、公園の前を通りかかった人にぶつかった。

「すみません!」

 慌てて未来がそっちのほうに走っていく。

僕には謝らないけれども常識はあったんだなあ。

じゃあ、僕に謝らなかったのは僕が口答えしないことが見越されていたからか。

時折女の子の弱者を嗅ぎ分けるパワーはすごいと感じる。

いじめても無抵抗な存在を直観で探り当ててるとしか思えない。

「いってぇな……」

 ボールを持って怒り心頭の様子で公園に乗り込んできたのは、スキンヘッドのヤクザっぽいおじさんだった。

うわあ、やばい。

弱者のいじめられるセンサーでなかったとしても、これはやばいと感じる。

「へへ、ちょっと力みすぎて。すみませんね」

 ところが空気の読めない未来ちゃんはへらへら笑いながら謝った。

 おじさんはもちろんバシッと一回、未来の頬を叩く。

「人にぶつけておいて、へらへらすんじゃねえ」

「すみませーん」

 ああ、駄目だ。

そこで語尾を伸ばしちゃだめだ。

 平謝りのスキルが底辺とおぼしき未来がにこにこ笑いながら謝る。

「住所どこだ? 首が曲がったら接骨院の費用ぐらい出してくれるんだろうな?」

 まずい。

こんなおっさんに住所教えたら、何回にも分けて割増請求されそうだ。

僕は彼を怒らせずにどうやったら帰ってもらえるか考えた。

「おじさん……」

 未来が少し真面目な口調で言った。

「俺さ、ダンボールの家なんだけど住所ってどう教えればいい? お金あんまないけど、払うよ。だけど全財産で五百円しかないから、コロッケを買うための五十円だけおつりちょうだい」

 彼女は至極誠実な口調でそう言った。

ヤクザ風のおっさんは深刻な事実に直面したような顔をして、「仕方ねえな」と言ってボールを渡して帰っていった。

 未来はけろっとした顔でこちらを振り返る。

なんとなくわかった。

こいつは平気な顔して嘘がつける、嘘吐き人間だ。

「嘘も方便って言うだろ?」

「まあ、住所知られるよりはマシかな」

 嘘の付き方は人の良心を利用したものだから、あまり褒められたことじゃあないけれど。

「この必殺技は危険すぎた。封印しよう」

「できればこの非効率的なゲームを封印しようよ」

 要は、家に帰りたい。

未来はこちらを見て、へらーっと笑った。

「さてはあれだな、家でコレが待ってるんだろ」

 彼女は中指を立てた。

普通、小指じゃあないのか?

そんな中指が立つような存在がいる家に帰りたくはない。

「兄貴がごはん作って待ってるから」

「ほら、兄弟だろ。お兄ちゃんのほうか」

 中指のことをお兄ちゃん指って表現で使う人って久しぶりに見たかもしれない。

幼稚園ぶりくらいだと思う。

 何かがズレてるとしか思えない彼女にお別れを言って、僕は自転車に乗って帰った。




 美鶴は「遅かったな」と言って、チャーハンとスープを出してくれた。

作っておいてもらいながら文句を言うのは筋違いだけど、チャーハンとスープだけじゃあ栄養が偏っている。

 美鶴は偏食なのかお子様舌なのか知らないけれど、スタンダードな料理しか作らない。

 一方父が料理を一切作らない、ラーメンしか出さない人だったため、父と二人暮らしだった僕は自炊が得意になっていた。

 レンゲでチャーハンを口に運ぶと、「味どう?」と美鶴が聞いてくる。

「美味しいよ」

 たしかに美味しい。

 食堂でお昼を食べる分にはこれで十分かもしれない。

 僕はチャーハンを食べながら、そういえば生活していくための金を稼ぐ以外、何もしてくれない父親だったなあと思った。

 掃除もしない、ゴミも出さない、料理も任せっきり、風呂もたまにしか入らない無精者。

 ずっとこもりきりで絵にばかり向かっていた。

 母が心配を通り越して苛つく気持ちも理解できないわけではない。

 兄貴は家事のほとんどを僕と分担してくれたし、心がけて声をかけてくれている気がする。

 なんだか気を使わせて申し訳ないという思いも半分、僕がブラコンなのを差し引いてもちょっと重荷というか、過干渉だと感じるところも半分。

 助かってるのだけれども。

 助けられながら、恩を受けながら不満を言えるというのは、僕が兄貴に甘えている証拠なのだろう。

 父には言えなかった不満が、美鶴になら言えた。

 父とは感じられなかった絆が、兄貴となら感じられた。



 僕の通っている学校の七大不思議を教えておこう。


 一つ。

 留学生が先生のサポートなしに移動教室に行ける。

 つまり先生ノータッチで生徒たちが自主的に関わる。

 二つ。

 図書室に一番揃っている蔵書が漫画。

 ネットカフェかと思うほど揃っていて、生徒も司書も漫画が大好き。

 三つ。

 文化祭がやたら盛り上がる。

 あんなつまらないものが盛り上がる理由がいまだにわからない。

 四つ。 

「この学校にいじめはない」と誰も言わない。

 生徒も先生も、常に助け合いながら常にいじめがないか目を光らせている。

 五つ。

 先生の中に元番長クラスの不良がいる。

 進学校にきて不良との戦い方をレクチャーされるとは思っていなかった。

 六つ。

 保健室は計画的にサボるならば利用してもいい場所。

 先生たちは自分たちの授業を聞くことを強要せずに、成績がよければ「サボっていいよ」と言ってくれる。

 七つ。

 放課後の掃除をサボる人が誰もいない。

 自分たちの使っている校舎を綺麗にするのは生徒たちにとって当然のことだった。


 なんと理想的な学校だろう。

 時に模範的、時に変人な生徒たちの中で、僕はちょっと浮いている。

 つまりこのステキな学校のノリについていけない。

 律花のほうはついていけてるみたいだけど、彼女も僕らの学校がありふれた校風でないのは知っているようだった。

 僕にとって最大の不思議は、最後の掃除をサボる人がいないというものだ。

 誰も面倒と感じないらしい。

 たまたま用事があって帰る人がいた場合、その人の分まで誰かが負担するような奉仕の精神にあふれた集団だ。

 だけど一人だけサボるなんて真似は臆病な僕にはできない。

 おそらくだけど、僕と同じように「ついていけない」と感じながら、空気を読んでいい子のフリをしている生徒は他にもいそうだ。

 そんなわけで、僕は廊下にモップをかけている真っ最中だった。

 僕は掃除が苦だと感じるタイプではないけど、みんなが楽しそうに掃除をしているのを見ると少ししょっぱい気持ちになる人間だ。

 そんなに掃除が好きならば夢の中でも掃除できるように雑巾を抱いて寝ればいいのに。

 そう思ってしまう。

 ふと、美術室の廊下まで差し掛かったとき、僕はガラスケースの中に展示された絵を見た。

 大きな絵だった。

 実物大で一面のひまわり畑が……僕に背を向けている。

 なんで正面からでなく、後ろからの構図なんだろう。

 下のプレートを見ると、「斜陽」と書いてある。

 僕は面白い発想だと思った。

 誰が描いたものだろうとその美術部員の名前を確認する。

「鵬、未来」

 未来の絵か。

 へえ、こんな絵を描くんだ。

「一種のシュールレアリスムみたいなもんなのかなあ」

 明るい色調の絵なのに、なぜか見ている人の気持ちをもやもやとさせる、素晴らしいセンスだと思う。

 きっと未来さんのことだから、「後ろから描いたら面白くね?」くらいの感覚で描いたんじゃあないかな。

 あっちは楽しんでこっちはもやもや。

 普通閲覧者が楽しんで画家が苦悩するってもんだろうに。

 僕はちょっとにやついてしまった。

「皆くん」

 いきなり声をかけられて、にやついた顔を慌てて引き締めた。

 振り返ると美術の顧問がこちらを見ている。

「その絵、好きなの?」

「面白い構図だなあって思ったんです」

「たしかにあの子しかやらないかも。このサイズで、この奥行きで、この色彩で、この構図」

 たしかにこのデカいカンバスいっぱいにみっちりと背中を向けたひまわりを描くためには、相当変人でなければ根気が続きそうもない。

「そういえば皆くん、提案があるんだ」

 髭面の美術の顧問を見る。

 なんで芸術家は髭をたくわえるんだろうとか、そんなどうでもいいことを考えながら。

「君の絵、美術部じゃあないけどコンクールに出していいかな? ほら、美術の授業のときに描いたやつ」

「なんでしたっけ?」

「家族ってテーマで描いた、『父の背中』ってやつ」

 ああ、あれか。

 僕が最大の手抜きをした、あの絵か。

 灰色の背広に見立てた背景に、背中の縫い合わせとわかる程度に一本縦に線を引いただけのものだ。

「先生、あれ好きなんだよね」

「あんな手抜きした絵を、ですか?」

「皆くんって絵が上手じゃない? しかも皆川藍堂みなかわらんどうの息子だし。なのにあのお父さんのことをどうでもいい存在みたいに描いているのが好きなんだよね」

 この学校の先生は、みんな変人だ。

 そして父のペンネームを聞いて、「ああ、そんな奴の息子だったかもしれない」と思った。

「人とすら認識してないよね。灰色一色に縦線一本って投げやり加減が。それでいて『父の背中』とか、いかにもこの背中を見て育ってきたんだみたいなタイトルつけてさ。どうでもいい親のどうでもいい背中がいつも自分の前で進むのを邪魔しているんだみたいな苦悩がすごく好き」

 すべて図星だ。

 だけど何度も言おう、この先生は変人だ。

 人の親に対してそこまでずばっと言えるこの無神経ぶりはちょっと尊敬する。

「気に入ってくれたのは嬉しいですけど、一般受けしないと思うので遠慮しておきます」

 よりによってあんなひどい絵がコンクールに出されようもんなら、恥ずかしい。

 先生は残念そうな顔をした。

「ところで、皆くんはどの進路を希望しているの?」

「まだ決まっていません」

「先生さ、君の絵はすごく買ってるんだよ。美大に行く気ない? ちょっとお金かかるから、保護者の人とよく相談する必要あるかもしれないけど」

 実力を買ってくれるのは嬉しい。

 君に期待しているよと言われているようで、しかも重荷にならない程度のソフトなプレッシャーが心地良かった。

 だけど……

「ちょっと美大は考えていません。僕、絵が好きじゃあないんで」

 先生は意外そうな顔をした。

「あんなに上手いのに? だって、練習けっこうしているでしょ」

「書道家の家に生まれれば冬休みの書き初めで手抜きを許されないように、僕の家ではデッサンが義務化していたんです」

 実際には嘘だ。

 父はそんな興味すら僕らに向けてくれなかった。

「そうか。じゃあ、忘れてくれていいよ。残念だけど」

 先生はそう言って苦笑いすると、準備室の中へと消えていった。

 僕はモップを片付ける。

 片付けながらちょっともやもやした気持ちになった。

 先生の言葉が僕をもやもやさせたんじゃあない。

 自分で言った内容を引きずっている。

 父はどうして僕たちに絵を教えてくれなかったのか、父はどうしてラーメンしか作ってくれなかったのか、父はどうして何も言葉をかけてくれなかったのか、父の背中から僕は何を学べたんだろう。

 美鶴は父が十六歳のときに生まれた。

 もちろん結婚できる年齢ではない。

 ただの学生でしかなかった父は、たまたまあばずれた女の子とまぐわって兄を産み落とし、その責任を二年後に結婚という形でとる。

 そして同じ女とまた同じ失敗を繰り返し、さらに二年後に僕が生まれた。

 きっと父にとっては絵を描くこと以外どうでもよかったんだろう。

 母も、兄も、僕も――オプションだったんだ。

 父の興味のある分野ならば気を引けるかもしれないと思っていた子供時代はもう過ぎた。

 僕はどうでもいい背中をずっと追ってしまった。

 短い一生のうち、十五年もの時間を無駄にしたんだ。

 絵は正直だ。

 あの人が死んでから二年も経つというのに、いまだに僕の苦悩をカンバスに反映する。

 もういいでしょ? あの目ざわりな背中をいつまで見続けなければいけないのだろう。



とはいえ、僕はそれでも筆を折ることができない。

 自分に才能がないとわかっていてもだ。

 画材屋で切れた絵の具リストを見ながら、僕は小さなかごにどんどん放り込んでいく。

 特にジェルメディウムは大量に使うからありったけ買うのが基本だ。

 画材屋の壁にはレモンの絵が額に入れて飾ってあった。

 本の上にレモンが置いてある静物画はなんとなく、梶井基次郎の「檸檬」を彷彿とさせた。

 梶井さんはきっと、当時先頭を歩く中二病だったんだろうと思う。

 文学者はどこかで重篤な慢性的思春期を引きずっているから小説が書けるのだろうけれど。

 いいやきっと江戸時代にも平安時代にも、もしかしたら石器時代にも中二病はいたかもしれない。

 きっとこの言葉が生まれた歴史は新しくても、その背景はやたら根深いんじゃあないだろうか。

 小学生の頃から国語の教科書を見ると胸が弾んでしまう。

 小学時代は「ちーちゃんの影送り」で彼女の齧った干飯は幻覚をもたらす黴が生えてたんじゃと考えた。

 中学時代は「赤い実はじけた」の哲夫はきっと中学生になって綾子を夜のおかずにしたんだとか考えていた。

 高校時代にはいった頃、ヘッセの蝶を潰された友達は、大人になったらコレクションを自慢するためにキープしていた友達に、偉そうなことを言った自分の恥ずかしさで壁に頭をぶつけたくなるだろうと、だんだん内容はリアルさを帯びてきた。

 どうしよう、そろそろ慢性的な中二病を卒業してしまうのだろうか。嫌だ、もっと楽しみたい。僕はこんな幼稚な自分が大好きなのに。

 そして今の教科書マイブームは檸檬だった。

 あの檸檬爆弾というアイデアは新しい。

 あれから僕は本屋や画材屋に行くたびに爆弾になりそうなものを目で探してしまう。

「あれ」

 声がした。僕はそっちのほうを振り返る。

「一日ぶりー? おひさー、元気はつらつぅ?」

 未来も画材を買いにきていたみたいだ。

 彼女は手をひらひらと振って挨拶してきた。

「元気だよ。そっちも元気そうだね」

「ああ、元気だよ。太陽はな」

 俺じゃねえ、と小声で呟くのが聞こえた。

 たしかにここ最近日差しが強いなあ。

「アクリルばっかだな。アクリル派?」

「そうだね。そっちはパステルの補充?」

「そ。ちょっとこの前気合いれて描きすぎたからな」

 僕らはレジに並んで、会計をすませるといっしょに画材屋を出た。

 途中まで帰る方向がいっしょらしく、未来と同じ道を並んで歩いていた。

「そういやさ、絵、見たよ。美術室に飾ってあるの」

「斜陽のこと?」

「うん、それ」

「へー。素晴らしいだろ? 俺のひねくれ度が」

「うん、天の邪鬼だなあって思った」

「あまのじゃく?」

 未来は少し首をかしげて、きょとんとした顔をつくった。

「それ、どんな虫?」

 本気で言葉を知らないのだとしたら、彼女はどうして進学校にいるんだろう。

「虫じゃあないよ、ひねくれてる人への褒め言葉」

「なるほど。あ、俺さ、物理クラスだよ。あらゆる国語を排除した結果そんな進路になった」

「ははっ……」

 僕は小さく笑う。

 日本という社会であらゆる国語を排除したら、住みにくいだろうなあと思った。

「鵬さんって美大希望?」

「あ? 未来でいいよ、あんま上の名前で呼ばれないし。美大には行かない。俺の実力じゃあ画家にはなれないし、だったら専門学校のほうが先が開けると思うから」

「なるほど。たしかに」

 無謀なほうかと思ったら意外と堅実だな。

「だけどCGの仕事ってさ、金にならない上に時間泥棒らしいんだよ。しかも体壊すぐらいヘビーなんだって」

「そういう話はよく聞くね」

「畜生、楽してたくさん金稼げて、楽しい仕事ってないかなあ。あーあ」

 そんな仕事があったら僕が紹介してもらいたいくらいだ。

 ああ、そういや贋作を描いて売るだけの仕事ってけっこう金になるんだっけ?

 楽しくはないけど、楽じゃああるかな。

 いちおう好きな絵に携わるっていえば、そうだ。

 そこまで考えたあとにこれは仕事というより犯罪だということに遅まきに気づいた。

「内臓を売るとかどうかな。あとは宗教家になるとか、詐欺とかも儲かりそう」

「俺の隣に新鮮そうな臓器が歩いている。いい肉屋に売り飛ばしてやるから紹介してくれ」

「ははは。断る」

 僕は棒読みで笑うとそうきっぱり断った。

「たまにさ、三億円転がってないかなとか考えないか?」

「ないよ。僕普通だもん」

「嘘吐け、似たことくらい考えてるだろ。非常ベルを見ると殴って逃走したくなるとか、隙のある腰を見るとくすぐってやりたいとか」

「いいや、ないって。僕普通だもん」

 けろっとした顔で二度見え透いた嘘をついた。

 うん、それは普通。誰でも考えるよね。

「何だったら考えるんだよ? ただし面白いネタに限る」

「面白いことなんて何も考えられない凡庸な学生です。趣味は勉強すること、好きな音楽はクラシック、休日は適度な運動と適度な食事と適度な遊びを嗜んでおります」

「うん、お前の冗談を理解するスキルがなかった」

 全力で痛そうな人を考えたのに。

 もうちょっと過激な冗談にすればよかったのか。

 空は暗くなってきていて、一番星がのぼっている。

 未来は女の子だし、家まで送っていくべきなのだろうか。

 だけど夜中に孤独にバスケをやってヤクザに殴られてもへらへらしているのを考えるとそんな必要もないかなあという気もしなくもない。

「あ、流れ星」

 未来がそう呟いた。

「金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金金」

 僕は小声で願い事を唱えた。

 ありったけ消えるまで。そして未来にそれを見られていたことに気づいてはっとする。

「ロマンチストだな、お前」

「今の願い事のどこが?」

「星が金をくれると信じているところ」

 そんな。慢性的な中二病な上に夢見るロマンチストってどんな痛い人なの。

 地味にショックだ。

「未来ちゃんは何を願うの?」

「もっと絵がうまくなりますように」

「好きなんだね、絵が」

「許せないだけだよ、自分が下手なのがな」

 未来は「もっと描きたい」と呟いた。

 絵が上手くなるというのはおまけのような気がした。

 それこそが彼女の純粋な願いのような気がした。

 好きという気持ちが100%純粋に表現された言葉のような気がした。

 僕にとって「好き」という感情は、未来みたいな、こんなキレイなものじゃあなかった。

 嫌いという感情は単純なのに、なぜ好きは複雑なのだろう。

「私のこと嫌いでしょ」と本気で嫌っている奴に言われても、そんなことはないと否定して、いいところを挙げるくらいのお世辞は言える。だけど好きは説明が難しい。

 嫌いになる理由、気に入らない点をあげつらうのは誰にだって、僕にだって出来る。

 気に入らない点さえ許してしまい、もっと好きになってしまう感情を「好き」という言葉以外でぴったり置き換えられるものを僕は知らない。

 好きが純粋なはずがない。

 こんなにもやもやした、甘い苦痛をもってくるものの正体は、ぜったいに不純で、キモチワルイと思う。

 そのくせやたら中毒性のある恍惚を持ってくるのだ。

「なあな、千鶴。何かいいこと起きないかな?」

「なんで?」

「だって、何も起きないって不幸だろ」

 僕は不思議になって「どうして?」と聞いた。

「明日の延長線上にまた明日があるってさ、当たり前だけど怖いなって感じるんだよな。明日も今日と同じだったらどうしよう、その次の日も同じだったら、毎日同じことが繰り返して続いたら、きっと退屈だ。退屈はサイコーに不幸」

「ふうん。それで、どうして『いいこと起きろ』なの? 悪いことでも刺激にはなるじゃない」

「ばーか、そんな痛キモチイが好きなタイプの人間じゃあないんだよ」

 未来はけらけら笑った。

 そうですね、僕はそのちょっと痛いのが気持ちいいという快楽が大好きなマゾ男です。


 一般的ではないことは自覚している。

「『今日はいいことありそうだな』って考えると心がはずむだろ? 何も起きないとしても。三億円拾ったときに何に使うか考えるのと同じでさ」

 未来の言葉に僕は答えなかった。

 だけど、この考え方はけっこう好きだと感じた。

 僕とは違う未来の、その単純で純粋な「前へ前へ」ってパワーが好きだった。



 その日はカンバスに下地を塗っただけで終わった。

 僕はそのあと風呂に入って髪を洗った。

 タオルで頭を拭きながら、鏡に映る自分に向かって「お前は誰だ」と呟いてみる。

 意味はない、ただ言い続ければ頭が狂うらしいという情報を聞いて試してみたくなったんだ。

「やい、お前は誰だ」

 鏡に向かって呟けば、口パクしている自分が映る。

「お前は誰だ」

 独り言としてはこの上なく痛い。

「お前――」

 言いかけた瞬間、脱衣所の扉が開いた。

「誰かいるのか?」

 美鶴が誰かと会話していると思ったらしい。恥ずかしい場面を見られてしまった。

「自分に向かって『お前は誰だ』って言い続けると狂うんだって。実験中」

「くだらないことやってるな」

 笑われるかと思ったら心配そうな顔をされた。

「冗談だからさ、心配しなくていいよ」

「だけど本当にそうなったらどうする気だよ?」

「別に。僕であることは変わんないし」

 思考回路が僕以外になったとしても、僕という器が残ればそれが僕だ。

 僕の中の化け物が悪さをしたんだなんて言い訳が警察に通用するわけがない。

 兄貴は本当に心配そうな顔をして腕を組んでいる。僕はため息をついた。

「じゃ、何て言えばいいの?」

「『僕は皆千鶴です』とかは?」

「自分に自分で自己紹介。『お前は誰だ』に匹敵するくらいクレイジーだね」

「同じクレイジーならそっちのほうがまだマシ」

「へー。兄貴は自分に『俺は皆美鶴です』とか言う?」

 そうしたら意外なことに「たまにね」と美鶴は言った。

「変なの」

 僕は無神経にそう呟いた。

「俺はさ、自分が自分であり続ける自信なんてないよ。自分の名前でも呟かなきゃ、誰を演じればいいのかわかんなくなるかもしれない」

 美鶴はそう呟いて扉を閉めた。

 僕はちょっぴり自分の冗談が兄貴を傷つけたことを知って、後悔した。

 でも美鶴、美鶴は美鶴以外の誰かも演じられるってことなの?

 僕の前での兄貴は、素のままの自分でなくて作りきったフェイクだってこと?

「怖っ!」

 僕はぶるっと震えて風呂にもう一度入った。

 背筋が冷えるかと思った。

 優しい兄貴が実は変態とか、優しい兄貴が実は根暗とか、色々想像してみた。

 僕のことを嫌いな兄貴のことも想像した。

 僕のこと痛い弟だって思っている分にはいいけれど、軽蔑されてたら嫌だなあと考えた。

 だって哀れみに満ちた視線に勝てるものを僕は知らないんだ。

 それより冷たい感情を僕は知らないんだ。

 僕は人に嫌われるのが、一番怖いんだ。



 道化を演じていれば「馬鹿だ」と笑われることはあっても、本気で軽蔑されることはあまりない。

 むしろちょっと利巧な瞬間に褒められさえする。

 つまり頭のいいフリや格好つけるよりもずっと利巧だと思うわけだ。

 脳ある鷹は爪を隠すって言葉は本当だと思う。

 だけど僕は狡猾な鷹ではありえない、本当の馬鹿なのだということを自覚している。

 馬鹿だから賢く見せたい、馬鹿だから格好つけたい、馬鹿だから褒められたい。

 僕という人間は見栄だけで出来ている。

 そして真の格好いい人間になれないのが分かっているから、ならばいっそ道化に徹底したほうが傷つくことが少ないと思っている。

 公民の教師は「相手を思い通りにしたかったら、自信を奪ってあげることだ」と言った。

 それこそが現代社会の反感を抑圧するための手段だと説明してくれた。

 僕はきっと、人に好かれる自信がないんだな。

 そのときそう思った。

 誰かに自信を奪われたり操作されたとは思っていないけど、見えない足枷が僕の心の自由を奪うからだ。

 叩かれたくなかったら謙虚でありなさい、そういうふうに。

 頭の中でどれだけ痛々しいことを考えても、僕が口にする言葉はけっこう常識的だと思う。というより、そう心がけている。




「シアワセかい?」

 唐突に休み時間、そんな質問をしてきたのは律花だった。

 彼女のほうがいくぶんか、発言が大胆だと思う。

「聞くなよ」

 愚問だ。不幸だ不幸だと言っている人間の不幸ほど食べて不味いものはない。

「シアワセかい? と聞かれて不幸せですと答えるのはなんか難しいよね」

「不幸せです」

 言われてすぐにそう切り替えした。

 言葉遊びは僕らの会話にちょっとした刺激を与えてくれるおもちゃだ。

「人の不幸ってさ……お肌にいいのよ?」

 律花ならば、というよりも女の子は誰しも、他人の悪口を栄養にお肌のストレスを軽減しているような気がする。

 彼女の持っている語彙は悪意が加わるとやたら破壊力が増す。

 他愛ないテレビの話題で盛り上がっているクラスメイトを見て、律花が真顔で「滅べばいいのに」と言ったこともある。

 なんと狭量な心。

 律花の心の狭さはすぐにバルスを放つ。

「不幸せなオーラほど不味いものってないでしょ。僕は人の不幸を美味しいと思ったことがない」

「そうなの? 他人の不幸は蜜の味なのに」

「それは認めるけどさ」

「認めるんだ。へーえ」

 認めるよ。律花が「拒絶されるのは怖い」って言った、あの一言は特別甘かった。

 本当の不幸の味がしたからだ。

 ただし甘いと思ったところで、美味いと思うわけではない。

「何か美味いもの食べたいなあ」

 僕は呟いた。律花は僕のひとつ前の席に座って、鞄をあさりはじめる。

「お菓子買ってきてる。いっしょに食べない?」

「お菓子ばっか買ってると……」

「太るって?」

「いいや、貯金できないよ」

 律花の体脂肪率なんて僕からすればどうでもいい。

 彼女は鞄の底にあったお菓子を探り当てたようで、引っ張り出した。

 たけのこの里だった。

「おい……」

 僕のテンションが一気に下がった。

「きのこの山にしろよ」

 舌打ちする。

 口調さえ、ちょっと乱暴になった。

「きのこ派のほうがマイナーじゃない」

「たけのこのチョコレートばかりの甘ったるさ、胸焼けがする。クッキー部分がないなんて」

「きのこのあのぱさぱさしたヘタの部分、全然美味しくない」

「はあ? あの美味しさがわからないなんて滅べばいいのに」

 僕は律花の口調を真似てそう言った。

 律花はちょっと不服そうな顔をする。

「じゃ、食べなけりゃいいじゃない。美味しいもの食べたいって言ったから出したのに、私が食べるよ。あんたにはあげない」

「一人で食べてぶくぶく太りなさい」

 僕は手をしっしと振った。

 律花は頬を膨らませて、たけのこの里のパッケージを開ける。

 頬を膨らませば可愛いと思ってるのか、これだから美人は頭が弱いんだ。

「千鶴くんなんて、きのこにあたって死ねばいいんだ」

「きのこにあたって死ねるなら本望。何、いっしょに食べてくれないからってそんな台詞。拗ねてるの?」

「きもちわるい」

 彼女はずばっと言った。

 さらに追撃がある。

「キショイでもキモイでもなく、きもちわるい」

「失礼しました」

 僕より律花のほうが言葉の刃物が強力だ。

 僕は自重するけれども、彼女はそこをあっさり飛び越えるから。

 律花はぱくぱくとたけのこ型のチョコレートを口に運びながら言った。

「きのこにしたってたけのこにしたって、大量生産だよね。どういう作り方したら、こんな同じ形に作れるのかな?」

「人間だって大量生産だよ。学校見てみろごらん、同じ型の人間が育つだけ」

「なんか染められたもの以外にアイデンティティがあればいいなあ」

「ないよ。世界は紛い物ばかりだ。オリジナルなんて巫山戯たものはない」

「そう思っちゃう派だよね。私たち」

「信じられるものさえ少ないというのに」

 不完全な正しさが、過ちをたくさん含んだ裁きの言葉で、僕らをあちらこちらから自分たちの信じる道徳へ染め上げようとする。

 つまりは人間、正しく生きようと感じていても、何が正しいかなんて、誰にもわかっていないんだ。

 だけど自分が間違っていると感じることをやり続ける苦痛は、純粋に僕らを苦しめる。

 好きは間違いと誤魔化しだらけ、嫌いはだいたい間違わない。

 人をかどわかすような美しい価値観たちは、きっと人が誤作動するように仕組まれた罠なのだ。

 これが正しいと信じたものが本当の正しさだなんて保障はどこにも存在しない。

 証明されていないからだ。

 だけど、どんなに愚かだと思っても、僕は「好き」という気持ちに、自分の中に疼く感情に、完全な蓋はできない。

「たけのこ好きは滅べばいい」

 僕はもう一度呟いた。

 僕はきのこの山が好きだ。

 そして律花のことも大好きだ。


 律花は今日、茶道部がないようだった。

 僕らは放課後いっしょに帰る。

「こつん、ぱたん、ってさ」

 道中、彼女はいきなりそんなことを言った。

「あ、茶道で柄杓を置くときにこつん、ぱたんってやるのね」

 あとから説明が追加される。

 へえ、初めて聞いたと思った。雑学が増えるのはちょっと面白い。

「私、毎回こつん、ぱたん、ごとんってなるの」

「つまり床に落ちるわけだ。きたね」

「そうなの。先生がね、あまりに私がごとんってやるから、呆れた顔するんだよ。初釜ですら同じ失敗しちゃってさ」

「初釜?」

「正月、最初にやるお点前のこと」

「お点前?」

「お茶を点てることね」

 いちいち全部の用語を聞き返すものだから、律花はちょっと面倒くさそうに説明した。

 だって知らないんだもの、律花だって野球のポジション全部言えないでしょ。

「このままだとお茶の資格とれないよね……」

 彼女はそう呟いた。

 まあ、柄杓すらまともに置けないならば資格は取れないだろう。

「そもそもお茶が好きなの? あの苦いやつ」

「教養はあったほうがいいでしょ」

「教養よりわびさび身につけたら? こつんぱたんごっとん」

 僕はごっとんを強調してそう言った。

 律花は眉を寄せる。

「部活、受験もあるし、そろそろ辞めるべきなのかもね」

「たしかにお茶の資格は受験に有利なる材料じゃあないね。それもいいんじゃない?」

「お母さんもお父さんも、そろそろ勉強しろってうるさくて。千鶴は美鶴兄ちゃんに言われない?」

「言われない。『勉強は楽しくやるもんだ』って言ってくれるよ」

「いいなあ。こっちは毎日プレッシャーばかりかけられる。兄弟だってほかにいるんだから、浪人させるお金はないんだって」

「不景気だからね」

「親は『何かをしている、何かができている』ところは覚えていないんだよ。『何もしてない、何も出来なかった』ところだけ覚えていて、何故出来ないのか、何故やらないのかって言うばかり。『親の気持ちも分からないくせに』とか言うけどさ、そりゃ親になったことなんてないんだから当たり前じゃない。自分は元子供だったくせに子供の気持ちも分からないのかな」

「『足りない』も忘れずに。だいたいの親は限界超えて頑張っても、要求してくる。そして都合の悪いことは忘れるよ」

「足りないって言われてもどこまでいけば満たされるのかわからないよ。親が言うような完全になるのはずっと無理かも。あと親も人間だもん、都合の悪いことじゃあなくても忘れるんじゃない?」

「大人になったら子供をねじ伏せなきゃいけないから、忘れることは大切なんだよ」

 だって自分がねじ伏せられたときの感情をリアルに感じていたら、人をねじ伏せるなんて真似できるわけがないもの。

 僕らはよく、親の悪口を言う。

 親が僕らを理解していない、親は与えることより奪うことが多いと。

 だけど僕らはそもそも、親に何も与えちゃいない。貰うオンリーだ。

 それが当然だと思っているし、親は自分たちを生んだ責任に対して義務が課せられていると信じている。

「DVじゃあちょっと物騒すぎる単語だと思ったときに、もうちょっと手軽な言葉が欲しいよね。家庭内でかけられるプレッシャーのことを『ドメる』って言うのどう?」

 僕はくだらない提案をしてみる。

「ドメ。なんかバイオレンスよりもドメスティックのほうが響きが暴力的だよね。ちなみにドメという活用はない。ドメらないドメるドメるドメられるドメられれドメろの五段活用だよ」

「舌噛みそう」

 実際噛みかけた。

 ちなみに僕はドメられたことがない。

 律花は常にドメられているようだけれども。

 断っておくけれども、僕らは幼馴染。

 つまり僕は律花のおばさんを知っている。

 この前もスーパーで会ってちょっとおしゃべりをしたくらいだ。

 普通にいい人だと思う。

 そりゃあ外面がいいだけという考えもありだけど、それを言ってしまったら僕の外面と内面の違いのほうがひどい。

 人のことは言えない。

 律花は両親の厳しさに窮屈な思いをしている。

 僕は両親に放置されて寂しかった。

 律花は僕の寂しさを埋めてくれる。

 僕は彼女のちいさく萎縮した心を受け入れる。

 案外お似合いのカップルになるんじゃあないかって気がする。

 少し不健全だけれど、でも男女の関係に健全さを求めるほうが不健全だよね。

 水が法律で禁止されたらみんな美味しそうに水を飲むだろう。

 僕らは常に不健全にベクトルが向くように出来ている。





 その日、夕食前に表計算ソフトで作られた名簿を見せられた。

「全部白だった」

 なんのことだろう?

 僕にはこの文字は黒で書いてあるように感じるのだけど。

「父さんと懇意だった画商を洗い出しても、みんないい人たちだった。画商の元に来るバイヤーたちも、バイヤーの周囲も調べられる限りじゃ、父さんに悪意を持ってる奴も、金儲けで人殺ししそうなのもいなかった」

 美鶴はまだ父を殺した犯人を探していたのか。

 もういいじゃない?

 お金儲けもできるし、案外これはこれでめでたしじゃダメかな?

 でも、こんなこと言ったら美鶴はきっと大激怒だ。

 父親の死に対してこんな感謝の仕方ないと僕自身感じるから、口を噤む。

「あとは残ってるのは身内だけか……」

 ちょっと待って。

 まさか僕が殺したとか言い出さないだろうね?

「母さんは殺したと思う?」

「ええー」

 そんなことはない。と言うかわりに感嘆詞で返事した。

「あの人に父さんを殺すほどの度胸はないか」

「お母さんも、僕もそんな度胸ないよ。ねえ美鶴、お父さんやっぱり自殺したんだと思う。もうやめよう、身内疑うところまで来たら心の健康に悪いよ」

 僕もたいてい心が不健康だけど、今の美鶴はちょっと神経過敏すぎる気がした。

「千鶴がやったとは思ってないよ。だけど母さんがやってないってなんで言えるの?」

「あんな気性の激しくて、幼稚な人間だがそんなことして足も残さないと思うの?」

 ごめん、お母さん。

 でもお母さんの頭と僕の頭脳じゃ僕が上だし、粘着度じゃ美鶴が上だ。

「ねえ、美鶴は誓って言えるの? お母さんが絶対殺したって。疑う側が証明しなかったら犯罪の立証にならないんだよ。僕にはいちゃもんにしか聞こえないや」

 そこまで言うと、美鶴は何か反論したそうに口を開きかけて、怒り出すかなと思った矢先、眼の色が冷静になっていった。

「悪かった。たしかに何も根拠がないのに疑うなんて、失礼だな」

「失礼とかじゃないよ。よく考えてみてよ、親なんだよ? 疑うとかおかしいでしょ」

「なんで?」

「なん……で?」

 僕は言葉に詰まる。

 その質問に僕は「人として」という倫理観で言おうとしていたことに気づき、もちろん美鶴もそれに気づいたみたいで、だんだん機嫌が悪くなる。

「お母さん、お父さんを愛してたと思う?」

 美鶴の質問で、僕は美鶴が僕よりもずっと、お母さんに傷ついてきたんだということがわかった。

 僕がお父さんに傷つけられてばかりだったように、美鶴もお母さんに傷ついたり失望したりしていたんだ。

「最初は冴えない貧乏画家だったからな。ハナッから金目当てではないだろうさ」

 僕が何か言う前に、美鶴はそう付け足した。

 まるで今はカネ目当てみたいな言い草だな。

「慰謝料決まったとき、『これっぽっちで縁が切れると思うなよ!』って言ってたね。かあさん」

「その半年後に父さん死んだよね。また現れたよ、そのタイミングで」

「兄貴、たしかにお母さんは僕たちを置いていったし、今はお金目当てかもしれないけれど、もういいじゃない。親父は死んだし、お母さんだってこっちがお金渡さなきゃそのうち来なくなるって」

 なんで、なんで、こんなのおかしい。間違ってる。

 自分が正しいとも思わないけれど、ともかくおかしいと感じる。

 僕は母が嫌いだ。母は裏切り者だと思ってる。母は僕たちを置いていった。母は金を受け取ってまた僕たちを置いていった。

 だけど、母が僕たちにした行為がどんなにひどくたって、これは言いがかりだ。

「そんなに犯人が欲しい? あれが自殺でなく他殺だってことにしたい理由って何? いいんだよ、どうせお父さんは死んだ! お母さんは戻ってこない! お母さんがたとえ有罪だろうと、お金目当てでお父さんを殺したとしても、僕はお母さんを疑わない。兄貴を尊敬してるし大好きだよ。だけど僕はお母さんを殺人犯だと勝手に決めつけたりはしない!」

 息を荒げてそこまで言うと、半ばショックを受けたような表情で美鶴はこっちを見てきた。

「なんだよ。母さん、母さんって……俺は、あいつに何もしてもらってない」

 だんだん、言ってるこっちが悲しくなる。

 怒りで息が上がったり下がったり、血がのぼったりさがったり、気持ち悪い。

「僕だって、いっしょだ。お父さんは僕を見なかった。お母さんには叱られてばかりだった。何一つあの両親が褒めてくれなかった。悲しいのはレトルトカレーばかりの小学生時代、嬉しいのは誰かが帰ってくる足音、寂しいのはお父さんのために描いた絵が埃をかぶったこと、もっと寂しいのはその絵が紙の日に出されたこと、初めて憎んだのは『あんなもの』と絵を笑われたとき、失望したのは誰も三者面談に来なかったとき、救われたのは兄貴が僕の兄貴だったことだよ!」

 ここは地下のアトリエじゃなく、ダイニングだ。

 もしかしたら近所に聞こえてるかもしれないと思い、僕はありったけの声で母親の無実と、自分の鬱憤と、兄が好きだという気持ちを表したつもりだ。

「俺のこと、嫌い……になりそう?」

 なんで肝心なときに美鶴は言葉が届かないんだろう。

「なんでだよ。嫌いじゃないよ、好きだよ。兄貴が褒めてくれたからじゃあない、兄貴だけがご飯を作ってくれたからでもない、兄貴が何かしてくれたから好きなわけじゃあない。なんでわからないかな……ねえ、うんざりだよ。なんで兄貴のことを好きなのと、お母さんやお父さんが好きなのと、兄貴に今怒りを感じてることと、お父さんお母さんに対する積年の恨みを、どっちか選べって言うの?」

 選べるわけないじゃあないか。

 僕はお父さんにかまってほしかった。好きだったから。

 僕はお母さんに褒めてほしかった。好きだから。

 僕はお父さんがかまってくれないから嫌いになったわけじゃないし、お母さんが褒めてくれないから嫌いになったわけじゃない。

 あんなに何もしてくれなかった両親に今でも愛情を感じてるし、あの人たちの愛が欲しいんだ。

 僕が諦めが悪いってことくらいわかってるよ。手に入らないことも。

 手に入らないから手に入るもので満足なんて出来ない。

 隣のおばちゃんがくれたおにぎりが美味しくても、おばちゃんじゃなく身近な愛が欲しかったし、身近な愛をくれたのは兄の美鶴だった。

「もうチャーハン食べようよ。昨日も一昨日もチャーハンだったし、一週間前の同じ曜日もチャーハンで、チャーハン飽きたけれど、でも兄貴が作ってくれるチャーハンが好きなんだ。美味しくないけれど、兄貴が作ってくれるから好きなんだよ。チャーハンチャーハンチャーハン!」

「わかったよ。ごめん」

 僕が子供のように駄々をこねだしたら、もう会話が成立しないと思ったらしく、美鶴は「夕飯にしよう」と言った。

 そうだよ。お腹がすいた。

 僕にこの話題を冷静に話しあえって無理だよ。土台無理だ。

 美鶴はさっきまで持論に執着していたけれど、僕が熱くなったら逆に冷静になったみたいだ。

 冷めたチャーハンを口に運ぶ。

 咀嚼しながら、涙がこぼれた。

 グリンピースが半解凍状態だったからじゃないよ、なんでこうなっちゃったんだろうって思ったんだ。

 僕と美鶴の話題も、両親と僕たちも。

 お父さんは無職から有名な画家になったし、僕たちは高校も通ってる。お金は絶えず入ってくるし、贋作だってバレてない。

 僕たちはすごく恵まれてるじゃないか。誰もこんな幸運を予想しなかったはずだ。

 だけどちっとも幸せって感じないのは僕が贅沢だからですか? それともこれは自然なことですか。

 お前は不幸だと言われても、お前は贅沢だと言われても気にいらないよ。

 僕はいつだってベストを尽くしたのに、こんなはずじゃなかったって結果ばかりだ。




 混乱した僕の頭がようやく冷めてきて、自己憐憫の気持ちがなりを潜めだした頃、僕はなんともいえない虚脱感で部屋のベッドに寝そべっていた。

「まずいチャーハンだった」

 細かい理由はさておき、すこぶる不味いと感じた。

 あのグリーンピースは解凍せずに突っ込んだのだろう。そして食前の話題が、口にした恨み言は食事を不味くしたし、粗末な扱いをした理由たりえた。

 なんのかんの怒る理由を探したって仕方がない。

 次は、あの話題はスルーしよう。

 次があったらの話だね。次があると思ってる今の僕はめちゃくちゃマイナス思考だ。

「千鶴!」

 階下から声がして、僕は体をゆっくりと持ち上げる。

 なんとなく、さっきの話題の続きは嫌だなと逃げる方法をあれこれ考えていた。

 寝たふりをしよう。

「律花ちゃん来たぞ!」

 兄貴の続く言葉に、本当だろうな? と眉をひそめる。

「千鶴? 律花ちゃん、寝てるみたいだ」

「ここで待ってます。起きてくるまで」

 律花の声が聞こえた。正確には、泣いてるみたいな律花の声が。




「今起きた」と言って階段を降りてみた。

 白々しい嘘だったけれど、律花はべそかいててそれどころじゃあないし、兄貴は僕が嘘をつく理由がわかってるはずだ。兄貴はおとなしく二階にある自分の部屋に消えていった。

 すれ違いざまに、美鶴は

「さっきは悪かったよ」

 と言った。

 僕はそれに、返事をするタイミングを見失ったまま、美鶴は部屋に消えていった。

 律花はキッチンにあったティッシュペーパーで鼻をかんではゴミ箱に捨てるを繰り返していた。

 たいてい、こういうときのタイミングの悪さって、イタズラかってくらい重なるんだよね。

「またお母さんと喧嘩したの?」

 麦茶を律花の目の前に置いて、僕は聞いた。

「真珠ってさ、中にはいった異物がああなるんだってね。私はお母さんの中で育った異物の結晶なんだよ」

 はっはっは。

 はっはっはっはっはっはっは。

 心の中で笑ってしまった。

 今の僕にこんなチープな不幸の安売り、不愉快でしかない。

「なんかこう管巻いてるときの私ってすげぇ醜い」

「綺麗だとか醜いとか考える余裕のあるお前にすごく安心する」

 僕はそんな余裕ない。泣くのももうちょっと時間やら、体力がないと、難しい。

「泣き方を忘れたらどうすればいい?」

 僕が聞きたいよ。

 それに、律花はめちゃくちゃ泣いてるじゃないか。

 弱音を吐きたくないから僕は別の台詞を探す。

「泣く必要が無い環境にいればイイのさ」

 僕のやたらキザな台詞に、律花は少し笑った。

「誰の台詞?」

「律花をなぐさめるのに名言集見たりすると思うの? 僕の台詞だよ」

「えー、嘘。絶対今の、映画か何かのワンシーンでしょ」

 だったらよかったのにね。

 そんな格好いい俳優の決め台詞だったりしたらよかったのにね。

 僕の強がりから生まれた台詞だよ。

 律花の涙は引っ込んだみたいだった。僕と律花は並んでソファに座っている。麦茶はローテーブルの上。

 必ず律花が右で僕が左だ。小さい頃からずっと変わってない。

 律花が膝を抱えて、素足のときは指がやたら落ち着きなく動く仕草も。

「ごめんね、いつも弱音ばかりで」

「人には役割分担があるんだよ。聞くほうと吐くほう」

「あんたの悩みってないの?」

 あるよ。

 あったって言うものか。

 世界一不幸だと感じている律花に僕のとっておきの悲しさなんて共有したって、きっともっと悲しくお粗末な結果になる。

「あるよ。人の悩みを聞いて『そんなの大した悩みじゃあない』って言いそうになること」

「自分の苦しさは100%理解できても、人の苦しみは半分も理解できないものだよね」

 ああ、なんだろうこの苛々。

 今日は律花の言葉も、律花の声も、彼女の髪の毛の一本一本も、彼女のお気に入りのカットソーの安っぽい柄まで全部気にいらない。

「そんなものだ。僕はそういう自分の冷たさが嫌い」

 嘘。君が嫌いだよ、律花。

 僕は何一つ律花にヒントを与えちゃいないけど、律花に気づいて、「どうしたの?」って言ってほしいんだ。

 すごく都合のいいことを考えている。

 苛々してる僕を気遣ってほしいなんて、すごく馬鹿げてる。

 馬鹿げてるが、僕は今すぐ誰かに心配されたい。

 何を言ってくれるかなんて期待しちゃいないんだ。僕を気にかけてくれてる優しい人が、居るって確認がしたいだけなんだ。

「冷たいくらいじゃ嫌いにならないよ、私はね」

 僕は冷たいくらいじゃ嫌いにならない律花に比べてなんと今、狭量なんだろう。今すぐあったかい言葉が欲しい。

「私は人を救えない。私の言葉はナイフだから」

「世の中には同じくらいくだらねーことで悩んでる奴がいるって知るだけでも救いになるよ」

 出てくるのは悪態ばかりだ。

 もう律花じゃ役不足だと諦めるしかないや。世の中には役割分担があるんだ。

 聞くほうと、吐くほう。

 僕が吐くことは許されない、律花の質問に僕がどう答えたって、次の瞬間は律花の話題に決まってる。

 その瞬間、唇にあたたかい感触がくっついた。律花にぎこちなくキスされたのだとわかったのは、彼女の体重が乗ってきて僕がソファの肘掛けに押し倒された姿勢になったからだ。

「なんか感想言ったら?」

 律花を見上げる。律花の目は不安にまみれてた。

 僕の不機嫌さは彼女を不安にさせていた。

 いやだな、不安を紛らわせるためにいつも使われるのは。

「慰めの常用。寂しさの副作用。気付かない間に僕は依存症。僕を寂しさの埋め合わせに使ってくれてありがとう。どうせ手近で地味な男だから手を出し易いんだろ」

 律花が、すう、と息を吸い込むのがわかった。怒り出すのを覚悟した。

「そうかもね」

 ぱしん、と頬を叩かれて、律花はリビングを出て行く。そして玄関の扉が乱暴に閉まる音がした。

 ああ、格好わるい。

 今の僕、とてもふてくされてて最悪だ。

 気づいて欲しいなら言えばいいのに、言いたくないけど気づいてほしくて、気づいてくれないからって律花に辛辣に当たった。

 もうこのまま腐れ縁解消だって覚悟しておこう。僕は最低だから仕方がない。修復するのもめんどくさいし、墓穴掘りそうだ。

 最悪だ、僕はめんどくさがってる。

 最低だ、僕は何もしないつもりだ。

 そんな最悪最低な僕が愛しいなんて気持ち、今はまったく感じない。

 もう今すぐ五分前の僕を消してやりたい。




 僕は地下へ行った。

 絵が描きたいわけじゃあなかった。ただ、自分をすごく罵倒したかった。

 僕の絵を罵倒しようと思った。

 ダリが言った「君が自分の絵を罵倒したら絵が君を罵倒する」という台詞が気に入ってるから。

 だけど、地下にいっても僕の絵はなかった。かわりに父の絵をまねっこしただけのものがイーゼルにかけてあった。

 何がすごくおかしいってね、いかにも

「こんな絵が好きなんでしょ?」

 って態度が絵から見え透いてること。描いてるのが僕だから知っていて当然だ。

 すごく、すごく、気持ちの悪い絵だ。

 父親の気にいらない絵より、ずっと気にいらない絵が目の前にあった。

 僕はイーゼルからカンバスを外すと、壁に向かって投げつけた。

 カンバスはそのまま地面に落ちて、真っ黒に塗りつぶしてあるカンバスとぶつかって、バウンドすると横に倒れた。

 黒く塗りつぶされたカンバス。

 あの下に本物の絵があるのかないのかわからない。

 だけどたいていの人はその下には絵があると思い込むはずだ。

 僕に才能があるかないかなんて、あの下にあるかもわからない絵に等しい。

「ある」と思えばある、「ない」と思えばない。

 どんなに、あるよ、あるよ、ピカピカの誇りを掲げていいんだよ。君には才能もあるしセンスもあるって家族や友達が言ってくれたとしても、黒いカンバスといっしょだ。

 今はそこに、絵はないんだ。僕の才能を証明する何かはない。

 僕が欲しいのは名声と金だ。

 僕の絵で、僕の名前で、僕のセンスで、僕の手で、手に入れた名声と金だ。

 今すぐ僕は特別なんだと言ってほしい。

 僕が特別な証明が欲しい!

 でもそれは無理なんだ。

 自分は贋作と同じだ。

 どこにでもありふれた個性と才能しか持っていない。

 お父さんのようにはなれない。

 僕はただのお父さんのようになりたいだけの、お父さんの出来損ないだ。




 あまりこの気持ちを長く引きずってると、よくないことを引き起こしそうだ。

 僕は誰から言われずとも、今の状態が続くのはマズイと感じていた。

 だから、翌日の昼に学校をサボってカラオケに行った。

 今の時間歌えば律花と鉢合わせするはずもない。先生たちも授業中のはずだ。

 ところが、学校を同じタイミングでサボった未来と鉢合わせした。

「学校サボってカラオケですか。運命は仕事してますね」

「待合室混んでるみたいだから僕別のカラオケに行く」

「次俺の番だぞ。お前も来い、お前のお歌が聞きたい」

 未来は僕のシャツをぐいぐいひっぱる。

 本当、未来ってゴリ押しが得意だよね。人の事情なんておかまいなしだ。

「お歌~、お歌~」

「やめろ。僕はお歌は知らない」

「カラオケだぞ。未来が特別にお歌を教えてあげよう」

 シャツが音をたてて引き裂ける音がする。

 仕方なく振り切るのをやめた。

 僕の事情なんて、着ているシャツより優先順位が低いんだと自分で確信。





「未来って何が得意なの?」

「お歌」

「タイトルか歌手名は?」

 未来はメモをひっぱりだして、

「タイトルをいれるといい。歌うのは俺だぞ、お前はコーラスだ。あと入力するのもお前だぞ、歌うのは俺だ」

「未来さんってもしかして……字が本当に読めない?」

 まさか進学学校で字が読めない人なんているわけがない。帰国子女ってわけでもないだろう。

「字が読めなくても入る方法があったんだ。学区外特別枠」

「普通、自分の学力にあったところ選ぶよね? いくらなんでも、あまりに点数低くて入れるわけがないし」

「面接でな『字は読めないです。絵を描くためだけの目をもらいました。悲しくありません、識字率が高い国はまだそんなに多くないから。自慢できるのは絵がアジア代表に選ばれたことと、友達がいっぱいいること、そしてこの高校に貢献できることです』って言って、質問受付のときに『入学してからの楽しみなので何もありません』って答えただけだぞ」

「入学する前にそれ言ったの?」

 なんというか、口が達者な人って本当にいるんだなあ。

 未来が見せてくれたリストの歌を親切な僕は入力してやる。

「ああ~、いとしくせつなくくねくねてて~」

 最初なんだろうと思った。

 どうやらわからない漢字を「くねくね」と言うらしい。

「くねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくねくね……わからんな、消すか」

 腰をくねくねさせながら、未来はそう言うと曲を停止させた。

「曲停止って読めるの?」

「デザインの知識だと、この色のボタンがあやしかった」

 未来は字という字がほとんど字として認識できないのかなあ。僕には字としてしか認識できないけれど。

「『うつくしい』と『きれいな』は難しいんだぞ。横に棒があったりうねうねしてるほうが『な』のつく形容詞だ、それ以外は『い』がつく」

「そんな難しい説明されたの初めてだよ。頭はいいんだね」

「字は読めないと言ったけど、頭は悪いって言ってないぞ」

 未来は僕が頼んだポテトチップスを食べながら、鼻の穴を膨らまして自慢気だ。

 でも、誇らしげな未来を素直にすごいと感じた。

 字が読めなくてもカラオケにくるし、字が読めないから進学校は無理と思わないし、字が読めないから僕をカラオケに無理やり付き合わせる強引さも、字が読めないだけで自信満々なのも真似できないや。

「数字はな、輪ゴム、ペンギン、おまる、おっぱい、ヨット……」

「待って。それ読めても計算どうするの?」

「おはじきを動かす」

 僕はおはじきという単語さえ久しく聞かなかった。

「頭が悪い悪い病にかかってまして、幾ら薬を飲んでも治らんのだけ悩みだな」

「深刻な悩みだね」

「不憫そうな顔をするな。瑣末な悩みだ」

 たぶん瑣末って漢字書けないんだろうな。未来はどこでそんな単語を覚えてくるんだろう。

「お前は本当に困った顔をしてるな。まるで秋田犬のような顔をしている。ポチ、悩みを言え」

 ワン、て言いたくなったけれど、プライドがノリを抑えつけた。

「本物になるためにはどうすればいいんだろうってこと。本当の自分でも、本当のセンスでも、本当の格好良さでもなんでもいいよ。ミセカケ以外の自信が欲しい」

「たとえば?」

 たとえば……未来のその、根拠のない自信みたいな。

 才能があればとか、障害がなければとか、そんな陳腐な理由笑い飛ばすほどの自信があったならば。

「本物を持っている人間のほうが少ないもんだろう世の中って。だからフェイクがもてはやされたりするし、魅せられるから真似るんだ。未来を見ろ、字はまねっこだぞ。お歌もまねっこだ。絵もまねっこから入ったぞ。お前のことを否定する奴は、真似はいけないって言うのか? 真似したらそれは偽物なのか? 本物は、真似しないのか?」

「何が本物かもわかんないよ。此れが本物だと胸を張って言えればいいんだけど」

「よし」

 未来はいきなり、ソファの上に投げ出してあった鞄を肩にかけて立ち上がった。

「見せろ、お前の絵。俺が本物を見つけてやるぞ」

「本物を見つける?」

 僕はオウム返しで聞き返してしまった。

 未来は僕の鞄も拾うと、僕に手渡しして、残ったジュースを一気飲みした。

「残らず見つけるから全部見せろ。まねっこしか出来ないって言う奴、真似が上手な奴いないぞ。真似はすごく下手だ」

 ぐさっとくる言い方だなあ。あまり上手いとは思っちゃいないけれど。

「全然似てないのに、真似しかできないって本物ってことに気づいてないんだよな。きっと、本物はひとつしかないと思ってるんだ。俺は自分の絵の偽物を見たことがないけどな。たぶん千鶴もそうだ」





 何故か、未来を家に連れてきてしまったのは本当にいやらしい下心なんて抜きで、絵を見てもらいたかった。

 僕に才能があるか、売れるかどうか、そんな将来のことどうでもよかった。

 他でもない、僕の絵を、見てほしかった。

「お前の家アトリエあるのか」

 地下室にはまともな絵なんてあるわけもなかった。全部父親の絵を模倣しただけのものばかりだ。

 未来は散らばった絵を全部踏まないようにそろりそろりと足をあげつつ、僕が絵を探しているのを横目にあたりを見渡す。

「すごいな。これみんな、お前の絵だ!」

「父の遺品だよ。僕の絵は探してるところ」

「いや、これはお前の絵だぞ」

「見たこともない僕の絵と父の絵をいっしょにしないでもらいたいな」

「ジェルメディウムたくさん買ってたの覚えてるぞ。あと、この絵は有名人が描いてたけれど違うぞ。俺のほうがあの有名人そっくりの絵が描けるくらいだ」

 僕は、「はあ」と溜息をついて、探すのをやめる。

「たしかにジェルメディウムはたくさん買ったよ。でもそれは父の絵」

「消えたジェルメディウム事件」

「ジェルメディウムは全部うずまきにしたよ。幼稚園の頃やったでしょ、金色の絵の具で」

 だんだん言い訳が苦しくなってきているのを僕は感じている。

「そうか。お前は有名人の絵をまねっこしてるんだな。有名人が忙しい間、お手伝いしてるのか? あ、有名人! 名前思い出した。皆川藍堂! お前たしか……」

「わあああああああ」

 もう無理だ。バレた、もう僕はおしまいだ。これから先は未来に金をせびられ続けるんだ。

「お金なら払います。捕まりたくないから内緒にしてて」

「藍堂の絵はどこだ。その絵を譲るで手を打とう」

 僕は仕方なく、金目になりそうな父の絵を探し始めた。価値がわかってるのかどうか知らないけれど、それで許してくれるなら安いものだ。

 だけど結局、黒く塗られたあのカンバス以外は僕の絵ばかり。僕は仕方なく、真っ黒な絵とは言えないカンバスを、おそるおそる未来に差し出す。

「これは! 真っ黒だな」

「芸術です」

 心にもない嘘をつく。未来はそのカンバスで思い切り僕の頭を叩いた。

「ふざけるな。藍堂の下塗りが欲しいとは言ってないぞ」

「それしかないです」

 もう一度、僕を叩こうと未来が持ち上げたのを見上げる。僕ってこういうとき防御に入るのが遅い。

「あ」

 電球で間近から照らされたカンバスの下に、何かが透けた気がした。

「その下に、絵がある!」

 未来はぴたっと手を止めた。

「ナイフをよこせ。俺はこの黒いアクリルを剥がす」

「ここに、ここに御座います」

 僕は自分の絵を褒めてもらうつもりで何をやっているのだろう。

 とほほな気分だ。未来はどんどん黒地を削っていくけれど、下の絵だって無事じゃすまされないような……そう思ったときだった。

「これ、絵の具じゃないな」

 未来の声に、僕はその絵の具じゃない何かを覗きこんだ。








 僕はミステリーの最後が好きじゃない。

 何故犯人は身内なのだろう。

 どこかの強盗が、つまらない金が理由で殺してくれたならば、理不尽さに怒ることができたのに。

 結論から言うならば、あいつが犯人なのだ。

 僕があの人を心から憎んだのは二度目だ。






 何も知らない美鶴は何食わぬ顔で帰宅した。

 僕はもうそいつが美鶴じゃないことを知っていたけれど。

 僕の兄である美鶴を殺し、美鶴になりかわった僕の父だ。

 まったく笑わせてくれるよ。

 ずっと気づかなかった。父と声は近いはずなのに疑いもしなかった。

 真似が上手な奴だなと素直に感心したと同時に、怒りで体が冷えていったのを感じる。

 気づいてもよさそうなものだった。

 ただの高校生が描いた絵が贋作として本当の価値があるわけがない。

 売りに出す寸前に彼自身が加筆していたのだ。

 僕は父さんが美鶴のフリをして、チャーハンをつくりだすのを待って、玄関の鍵をしめた。

 そして黙って地下に降りる。

「千鶴、チャーハンできたぞ」

「下もってきてよ」

 僕は地下で軍手をつけて、用意していた手芸用のテグスをポケットにしまう。

 父さんがチャーハンを持って降りてきた。

 地上ではクローゼットに隠れている。未来が地下への入り口を閉じたはずだ。

 これで、僕が死にそうだったら未来に電話をかけてもらえばいいし、父が自供したら、セットしといた録音機に内容が入るはずだ。

「千鶴?」

 父はすぐに危険を察知して、チャーハンを階段に置いた。が、すぐに逃げようとはしなかった。僕を丸め込めると思ってるんだろうか。

「お父さんの死体は焼死死体だった。そうしてしばらくぶりに戻ってきた兄。このパズルをつなげる方法はどんなのがあると思う? 死んだのは兄さんのほうだったんだよ。あんたは顔がそっくりに成長した兄さんを殺して、兄とすげ変わっただけの父親だ。兄のニセモノだ」

「想像力たくましいな。いくらなんでもずっと同居していたお父さんと、俺をずっと間違ってるって相当鈍くないか? ありえないだろ」

 確かに普通ならそうだ。

「俺が40こえたおっさんだって言う証明はどこにあるんだよ?」

「兄さんは絵が描けない。そう言ったよね? じゃあ、この切れ端にあるラフは何?」

そう言って見せたコースターに描いてあるラフ画の林檎をみせた。

 父は鼻で笑い飛ばして

「お前の絵じゃないのか? ペンタッチ変えただけで騙せるかよ」

 と言った。笑わせてくれるよ、僕の絵だと思ってる。

「そりゃそうさ。これは友達が描いた絵だもの。だけどあんたは今、こう言った。ペンタッチが違うと。まったく絵が描けない人が自分のペンタッチ云々を言うはずがない。そういうときは『俺の絵はこんなんじゃない』とかそんなことを言うんだよ。絵が下手だと言うのならばこの場で描いてみればいい、デッサンもペンの握り方も全部知らないずぶの素人の頃に戻れるというのならばね」

「お前の鋭いところが嫌いだ」

 僕は、お父さんのそんな開き直った瞬間次の手口に移る手際のよさが嫌いだ。

「画家ってのは、自分が死んだあとの価値を知りたいんだよ」

 ああ、兄だと思ってた奴の口から、昔から耳障りだった、すごくイヤな男のにおいがしだす。

 僕は何に騙されてたんだろう。優しい言葉をかけてくれるのは兄だけだなんて思い込みで、兄なんて結局見てなかったんだな。

「それでどうする? お前は贋作師の汚名をかぶって少年院へ、俺は刑務所行きか? お互いそういう美味しくないことはしたくないだろう? 今までだって協力してきたんだ、これからも利用し合えばいい。そのうちお前がデビューするような場面だって作ってやるさ。お前はセンスは悪くない」

 何故か、怒りの声というのは地面から涌いて来るのだ。そしてその声は、僕の思考力を奪い去る。

 コロセ。

 腹の底からぷっくりと浮き上がる、怒りの声。

 よく、漫画や小説でいっぱいコロセ、コロセって聞こえるあれはしつこいね。

 一回聞けば殺す気になれるよ。今の僕は完璧にスイッチオンだ。

「何言ってるの? 僕は贋作師だよ。血塗られた本物に真の価値があるなら、僕は本物に憧れる人に絵を描くんだ。本物にはなりえない、中途半端な僕だからこそ描ける贋作を描くのが僕の仕事だ」

 僕はポケットのテグスを確認した。

 元々用意していたのには理由があったけれど、僕はもうそんな計画は頭から吹っ飛んでいた。

「あなたはここで僕に殺されるんだよ。だって画家の価値は死んでからしか上がらないものね」

 父は階段をかけあがり、開けっ放しにしていたはずの扉が仕舞ってることに動転し、鍵を開けようとした。

 鍵は未来に開けておくようにお願いしてあった。

 父は勢い良く飛び出そうとして、グエっと声をあげて後ろに倒れてくる。

ドアノブと内側の釘にテグスをつけて、ドアノブにあとで未来が結ぶだけの簡単な仕掛けだ。勢い良く開けるような事情がなければ気づいただろうにね。

 階段下に頭を打った父親にまたがって、テグスを首にかけた。

 僕はこの人殺しと違って人を殺したことなんてないけれど、なんとなく殺せるような気がした。両手の自由を奪った状態でキリキリ締め上げれば、父はまるで縊られる鳥のような声、をあげた。








 あのとき、僕を殴り飛ばして気絶させてくれたのは未来だ。

「おまわりさん呼びました!」

 未来が僕を蹴り飛ばしてお父さんに呼びかけてる声が聞こえた気がした。

 気がした、と言うのは僕が聞こえてるはずもないという理由なんだけど。


 警察に僕が説明した内容は全部、僕のせん妄だと思われた。

 あの父親は行方不明と聞いたし、僕は捕まっていて探すすべもない。

 あいつが兄さんを殺したって説明しても、あいつが兄のフリをしていたってのも、僕が贋作の名人だというのも、全部全部、嘘っぱちだと思われた。

 未来は一度だけ会いに来てくれた。

「人殺しはダメだぞ」

 あいつはそんなことを言いにきたのか。

「それだけだ」

 それだけかよ。全部知ってるくせに、警察に事情説明をしてくれてないんだ。あの黒いカンバスも警察はなかったと言っていた。

 未来が持ち帰ったのだろう。

 なんだかがっかりした気持ちになったし、僕は何を未来に期待していたのだろうと思った。

 律花も来てくれた。

 てっきりすごく非難されるとおもいきや、僕よりあっちのほうが死んでしまいそうな顔をしていた。

「ねえ律花。僕は悪いことをしたとどうしても思えないことがある」

「何?」

 律花は珍しく、僕の言葉を聞いてくれるみたいだった。

「僕が望まれて生まれてこなかったこと。僕は悪くなんかない」

「うん」

「僕が親を殺そうとした理由も僕にとっては矛盾ないし」

「……うん」

 この沈黙はきっと、美鶴のことを僕が父親だと信じ込んでいると思った、そんな言葉のタメのように感じた。

「僕が反省してるのは、お世話になったお兄さんと実父の区別がつかないほど、誰のことも目にいれてなかったことだ。僕は何ひとつ、お兄さんに恩返しできてない」

 律花が涙をためた目で返事をしなかった。

かわりに鼻をすする音が聞こえる。

「いいよ、信じてないんだろ」

「信じてるよ」

 嘘だ。嘘だ。嘘だ。これも嘘っぱちだ。

 僕の信じたものは全部嘘っぱちだった。律花は僕を刺激したくないだけだ。

「僕は贋作作ってたんだよ。ずっと」

「千鶴は絵が好きだった」

「あいつにずっと描かされてた。いい値で売れてさ、すっごく舞い上がった。そのうち惨めになったし、偽物なんだって思った。未来に『お前の本物を見つけてやる』って言われて、家に連れてって見つけたのは黒く塗られたカンバスの下にあった、血痕だ。兄だと思ってたあいつはすぐに開き直ってさ、僕のことまた馬鹿にした。許せなかったから殺そうとした。短絡的だったと反省してる。次はもっと上手にやるよ。結局逃げられちゃったし」

 いつもだったら失笑ものの低俗劇みたいな台詞に律花は笑わない。

「あいつは消えた。そして証拠のカンバスも、たぶん未来がね、持ち帰ったんだ。未来って馬鹿だろ。法律とか知らないだけだと思うから、返してもらってきてくれよ」

「私、鵬さん嫌い。あいつ口だけだよ、上手なの。なのにあんた、鵬さんの言うこと全部真に受けた。私の言うこと何も聞いてくれなかったのに……」

「僕、今色々話してるけれど律花は聞いてる?」

「聞いてるよ」

 律花はハンカチをバッグから取り出すと、涙を拭いてからハンカチを膝の上に置いた。

「くっだらない悪口、空想、私があんたのこと好きだってこと、全部話したじゃない。あんたは慰めだの、よくわからないこと言ったけれど、私は全部伝えたよ。ねえ、あの返事まだもらってない。OKって言ってよ」

 律花は馬鹿だなと思った。

 幼馴染だからなの? 好きな男だから?

 将来なんて僕にはもうないよ。

 もういいから、律花だけ幸せになれよ。僕のことはもういいんだよって思うのに、僕は未練がましいさそい涙をしそうになった。

「僕はね、見てきたもの全部、信じてきたもの全部、ひっくりかえったよ。今更何も信じられないや」

 信じられるのは、今、僕が誰にも心を許す気になれない不信感。

 そして、頬をつたう、たしかな悔し涙。

 律花がべそをかきながらこう言った。

「全部嫌いだよ。あんたの信じた本物なんて全部いらない。本物なんてなくていいよ、私偽物でいいもん。信じてほしいだけだもの」

 本当にさ、人間って馬鹿だなって思ったんだ。律花のことじゃあないよ、僕のことだ。

 まだこの言葉は本物なんじゃないかと考えていた。

「ねえ、みんなあんたを心配してるって言ったらそんな嘘みたいって思うでしょ。あの暑苦しい学校、誰もあんたの悪口言ってないんだよ。戻っておいでよ」

 嘘っぱちだ。そんなことあるもんか。

 でも本当なんだろうなと思った。あいつら、みんなすごくお人好しだから。

 ここに来なくても、人の失敗を笑うことを嫌う学校だったから。

「面会終わりの時間です」

 事務的な声さえ、いたたまれない響きがあった。




 僕はね、いまだに未来が血痕のついたカンバスを見せて、父が捕まったりして、世界がまた正解に戻ったりしないかなって。

 裏表がオセロみたいにひっくりかえる、そんな僕の日常をふりかえっていた。

 あれも嘘、これも嘘、ああなんてインチキ。これは本物かな? 僕は本物かな? 証拠が欲しいな。本物だって証明が欲しい。

 ただ、信じたかったんだ。

 僕は愛されてるって。

 ただ、信じてほしかったんだ。

 僕に何かができるかもしれないってこと。

 ふいに、律花が言った

「全部嘘でいいし偽物でいい」

 を思い出したらまた泣きそうになった。

 偽物も本物もないよ。僕の宝物だったんだ。下らない見栄も、悲しみも、信じてる気持ちも、全部全部、僕の宝だった。

 今も、宝だ。

 なんだよ、宝物だらけだ。僕は自分の宝を見失っちゃいない。


 僕を呼ぶ声が扉の向こうから聞こえた。





 僕は今、学校の美術室の前にいる。

 正直学校を辞めなかったことは奇跡に近い。そして僕に罪状がつかなかったことも。

 卒業式間近にここに飾られる絵って、たいていは卒業に関係のある絵だと思うのだけれど、だったらこんなに人だかりができるわけがない。

「千鶴」

 かけられたくない声に、びくっとして後ろを振り向く。

 未来は教科書を僕に突きつけてきた。

「この教科書サインしといた!」

「ひらがな?」

「カタカナだぞ。かっこいいだろ」

 どういう基準なのだろう。この人だかりは、警察から返された未来の絵が飾られてるからなのだけれど、実際は絵とも言えず、字とも言えない。




 ちづるチャーハンできたぞしたもってきてよちづるおとうさんのしたいはしょうしたいだったそうしてしばらくぶりにもどってきたあにこのパズルをつなげるほうほうはどんなのがあるとおもうしんだのはにいさんのほうだったんだよあんたはかおがそっくりにセイチョウしたにいさんをころしてあにとすげかわってただけのちちおやだあにのにせものだそうぞうりょくたくましいないくらなんでもずっとドウキョしてたおとうさんとおれをずっとまちがってるってそうとうにぶくないかありえないだろおれがヨンジュウこえたおっさんだというしょうめいどこにあるんだよにいさんはえがかけないそういったよねじゃあこのきれはしにあるらふはなにおまえのエじゃないのかペンタッチかえただけでだませるかよそりゃそうさこれはともだちがかいたエだものだけどあんたはいまこういったペンタッチがちがうとまったくエがかけないひとがじぶんのペンタッチうんぬんをいうはずがないそういうときはおれのエはこんなんじゃないとかそんなことをいうんだよエがへただというのならばこのバでかいてみればいいデッサンもペンのにぎりかたもぜんぶしらないずぶのしろうとのコロにもどれるというのならばねおマエのするどいところがきらいだガカってのは、ジブンがシんだあとのカチをしりたいんだよそれでどうするおマエはガンサクシのおめいをかぶってしょうねんいんへ、おれはけいむしょいきかおタガいそういうおいしくないことはしたくないだろういままでだってきょうりょくしてきたんだこれからもりようしあえばいいそのうちおまえがデビューするようなばめんだってつくってやるさおマエはセンスはワルくない




 鵬未来、渾身の作品「クロ」。

 魚の形に並べた文字を赤で、唯一黒いのはガカの二文字。スイミーに見立てた、こいつが黒だという意味だと本人は語っていたみたいだ。

 僕ね、最初この事実聞いたときに、未来が録音テープもカンバスも持っていったのかと思ってすごく腹をたてたよ。

 でも、よくよく話をきいたら僕はなんてことだろう、録音のスイッチを入れ忘れてたらしい。そして未来が助けた瞬間、あの男は未来を突き飛ばしてカンバスを持って行ったんだとかで、そこにパトカーが到着した。

 被害者はいないし、僕は気絶しているし、当然未来から話を聞くわけだけど、未来が嘘つきだって学校や地域の噂も聞くわけだ。

 そして、僕をかばっての嘘だと判断されたらしい。

 未来は悔しかったらしい。自分が嘘ばっかり言ってたから、こんなときにオオカミ少年みたいになったことが。

 そして悔し涙で描いたのが、これだ。

 美術室のガラスケースに無断で飾ったそれは、翌日色々な人の目を引く。

 未来の想像だろうって言った奴もいたけれど、彼女はこれと同じ内容をまるっきり暗記していた。

 この内容が本当かどうか、証明できる人は誰もいない。未来は僕の殺人未遂幇助罪で疑われたくらいだ。

 馬鹿みたいな話は続くんだよ。

 僕はついていけないと感じてた、僕のクラスメイトたちは、そこからインターネットで情報をばらまいてそれぞれのネットワークでうちの父親と思しき人を探し始めた。

 ついていけないよね、そんな誰が見ても犯人ってわかる奴のこと、誰が助けるもんかって普通思うよ。

 奇跡的に良心的で、疑ってないレベルだとタカくくっていたのに。

 ここまで捜査を勝手にされたら、警察だって「私たちを信じて勝手な捜査はやめてください」って言い出すに決まってる。

 全部詳細を知っているわけではない。

 現在、父はまだ逃走中だ。警察だけが握ってる情報を全部バラすわけもない。

 だけど僕はそのうち、嘘をついていないということがわかったみたいだ。

 僕はそれを勝手に、黒いカンバスがどこかで見つかったのだと予想している。

 誰も見てないと思った悪ふざけが叩かれるこの時代、お祭りのように広がった犯人吊し上げの捜査網は、確実に父親の逃亡を追い詰めている。

「世の中、怖いなって思ってたことが役立つとか、大好きだった人が豹変したり、おかしいよね」

 僕がぼんやりそう呟く。

 大嫌いだったはずのクラスメイトは恩人だし、性格の悪い幼馴染は僕を見捨てなかった。

 これを僕の日頃の行いがいいからだなんて、口がさけても言えないよね。言えるはずもない。

「あ、千鶴。お前の性格悪い幼馴染に言っといてくれ」

 未来がニコニコ笑っている。

 なんだよ。卒業式間近に「千鶴は渡さない!」みたいな告白?

 そう期待したのは本当です。そんなことはまったくなかった。

「バレンタインのチョコレートケーキうまかったー」

 え。僕もらってない。

 僕、あのとき告白されたのにまだもらってないよ。

「と、うちの弟が喜んでた。そのあと箱の中から怪文書が出てきて泣いてたけれど」

「ああ……うん、律花に言っとく」

 女の子たちって怖い。

「俺、そろそろ食販行く!」

 何やらあわてた様子で、未来が走りだす。なんだよ、律花は今日茶道のお稽古だってのに。

 当然僕は留年、律花と未来とクラスメイトは卒業。

 未来からもらった教科書に視線を落とす。

 意外や意外、けっこう使い込まれた教科書だ。サインってカタカナだったよね。ミクて書いてあるわけだ、当然。

 そうやってひらいた数学の教科書にはサインなんてなかった。

 かわりにパラパラ漫画が下のほうにあった。

 僕が中学生から思考が止まってるならば、未来は小学生で止まったんだろうな。

 僕はぱらぱら漫画を動かす。

 僕らしき棒人間に、何かひとだかりが出来て、それがトロフィーの形になって、さいごにカタカナでこうです。


 ワレワレハ トモダチ ダ!!

 オマエ ホンモノ

 オレ ホンモノ

 アワセテ ホンモノノンホモ


 僕は泣きたいわけでもなく、ただ笑った。

 先に卒業する未来からの、応援のつもりのパラパラ漫画があまりにあんまりな内容で。

 紙切れ一枚で証明できる本物なんかよりずっと価値があるもの発見できたよ。


 僕はこの嘘っぱちだらけの、虚偽にみちた世界が、たとえ全部贋作でできていたとしても、たまらなく大好きだ。


(了)

 

スイミーは著作権にひっかかるのかな。

もし問題あったら管理者サイドから苦情がきたとき対応します。

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