崩れていく日常
翌日珍しく、満川先輩はまだ出社していなかった。
わたしは、急須から緑茶をコポコポとみなさんのマイカップに注いでいた。
昨日は眠れなかった。
(宮本くんは宇宙人。
きっと、石垣社長も宇宙人。)
この二人と全くかかわらず生活することは、難しい。宮本くんは営業部とはいえ、同じ会社にいる以上どこかでかかわるだろうし。石垣印刷さんは広報・デザイン部には欠かせない。
(じゃあ、会社を辞めちゃう?)
とも、考えてみたけど。全然現実感がない。
辞めたところで、なんせ相手は火星人なんだから、逃げられるはずはないし。
(……ていうか。火星人ってなに)
このことを、誰かに相談できないのが一番つらい。
『わたし、火星人に追われてるんだ』
なんて誰に言えばいいのか。
実家は長野だし。
お姉ちゃんは、旦那さんと上海だ。
恋人とは、半年前にケンカ別れだし。
仲のいい友達の顔を浮かべたが、平日に突然とめてくれるような人は思い浮かばない。
(この広い広い宇宙の中に、たった一人だけっていう気がしてきた)
たった一人で、火星人と向きあわなきゃいけないなんて思うと、なんだかこわいやら、ばかばかしいやらで、具体的にどうしていいかわからない。
映画やマンガで火星人に狙われた人っていうのは、いろいろと逃げるんだけど、なんだか逃げた時点で、頑張って築きあげてきた日常を失ってしまう気がしてこわくて。結局いつも通り出社してしまった。
「乾さん?」不意に背後から、声がかかった。
「こぼれてますよ」
「え?」
気がつくと、満川先輩のカップから緑茶がお盆の上にあふれていた。とっさに布巾をあてる。
「熱っ」
「大丈夫ですか?」
「……きゃあああ!」
そこにいたのは、宮本くんだった。わたしはばかみたいにその場でぐるりと回転してから、尻もちをついてしまう。
会社の中で誰よりも避けようとしていたのに、朝一番に会ってしまった。
「……そこまで嫌われてると、なんだかショックだなあ」
上着を脱いで、白いシャツに腕まくりしている宮本くんは、なんだかいつもよりラフな格好に見えた。
朝。一番好きな時間に、うわさの「王子」と二人きり。ついこの間までだったら、新しい恋のはじまりかとドキドキしていたかもしれない。
でも今は、体ががたがたと震えてしまう。
「だ、だって」
「話を聞いてくださいと、ずっと言っていたでしょう」
「聞きたくない」
きっぱりと言った。
宮本くんは悲しそうな顔をした。見てたらなんだか申し訳ないような気になってきたけど、それだってもう仕方ない。
そんなわたしの様子を、宮本くんはじっと見てたけど、なんかちょっと諦めたようにため息をついた。
腰を抜かしたままのわたしと視線を合わせるようにしゃがみこむ。
「じゃあ。教えてください。乾さん。なにがそんなに怖いんですか」
(何がこわい?)
改めて聞かれるととっさに出ない。
幽霊が怖いみたいに。
火星人だって、怖い。
「血が青いのは、気持ち悪いですか」
「そんなことじゃなくて」
宮本くんは何か考え込むように、唇をいじった。
わたしは、それをみて唇は青くないんだなと、発見する。
色は薄いけど、赤い唇だ。
唇いじったまま、目だけこちらにむけて、宮本くんは聞いてきた。
「じゃあ、なに」
「なにって、……だって」
「――失礼します」
広報・デザイン部のドアが開いた。
入ってきたのは、石垣印刷の石垣社長だ。いつもと同じように、黒い山高帽をちょと持ち上げてあいさつする。
「おはようございます。乾さん。昨日の話ですが」
石垣社長が来たことで、わたしのパニックは突然、頂点にたっした。
なんせ、きのうの電話は怖すぎた。
「やだっ」
「あれ、乾さん!?」
そのとき、出社した満川先輩を押しのけて、わたしは今日、初めて、会社から逃げだした。
出勤してくる他の社員と、別の方向に走りながら思った。
(わたしが怖かったのは、こうして、日常が崩れてしまうことだったんだ)