昨日の話
新商品が出るたびに、わたしたち広報部・デザイン部と営業部は研修会を行っている。
営業部には実際の実演販売と同じことをしてもらい、広報部はそれをみて商品の勉強をするのだ。どちらの部も、新人のための研修会ではあるので、中堅以上の社員は参加しないことも多い。
昨日も結局うちの部で時間が空いていたのが下っ端のわたしだけで、営業部で練習させられたのが新入社員の宮本くんだった。タイミングによってはこの研修は少数になるのも珍しくないが、宮本くんと二人きりになるのは初めてだった。
わたしは少し緊張していて。時間が来て、「じゃあ始めましょうか」とにっこり笑って言ったのは、宮本くんの方だった。
よく響く声だ。先輩によく仕込まれたのだろう、文房具の実演販売をする宮本くんは背筋を伸ばして、堂々と商品の説明をしていた。
もちろん、ときどきは説明につっかかったり、声が裏返ったり、多少はらはらしたけど、そのみかけとのギャップがまたどこか「かわいい」と思わせる要素を持っている。
(文房具の小売店は女性の社員も多いし、きっと人気がでるだろうな)
なんて思いながら、わたしは彼をみていた。
「こちらは当社の新商品、プラ鉄定規「L型」です」
宮本くんがA4用紙とカッターを片手に実演しようとしているのは、プラ鉄定規から派生したものだ。新製品は、プラ鉄定規をL字にして縦軸、横軸に切れ込みがある。直角で紙が切れる、というもの。
宮本くんは新製品の定規をもって、優雅に説明していたが、
「このように紙が……ん?」
なかなか、カッターが先にすすまない。
ぐっと力を入れたのが、みてわかった。
(あぶな……)
注意をしようと思った矢先、
―― サクっ
力み過ぎたんだろう。右手で持っていたカッターの刃が、定規を押さえていた左手の親指にくいこんだ。
「~~~~~!」
さっきまでのりりしさはどこへやら。
宮本くんは、こっちが見ているくらい動揺して左手をぶんぶん振った。
(案外うたれ弱いの?)
心のどこかでちょっとがっかりしながらも、びっくりしている宮本くんに声をかける。
「落ち着いて、宮本くん!」
わたしは宮本くんの左手の手首をつかんで、ハンカチを当てようとしたのだけれど。
(……れ?)
つう、っと親指の爪を流れ、切ろうとした紙に滴り落ちる血液は。
(赤く、ない)
それは、濃いインクのように青かった。
「あ、あの」
手をつかんだまま、わたしは宮本くんをみた。
なにも言わない。
なんとなくみつめあってる間に、紙の上に吹きこぼれた青い液体はプルプルとゼリーのように固まり。
(え、え、え!?)
シュバっと傷口に自ら戻った。
そして、その傷口さえ、見る間にすっと消えていった。
「……。」
「……。」
(なんだろうこれ、なんだったんだろうこれ)
右手でつかんだままのシャツがうっすらと湿った。それはわたしの手のひらの汗なのか、彼の冷や汗なのかわからない。
「す、すいません……あ、の」
見てわかるほど、彼はだらだらと汗を流している。
まるで何もなかったかのようだ。青い血がしたたりおちた紙の上さえ真っ白で、怪我をした痕跡すらみあたらない。
「え……と」
自分には理解できないことがおこった。それだけはわかった。
そして、それは無理に理解しなくてもいい気がする。
わたしはどうにかして、この空気を戻そうとした。
(何をしゃべろう。
何をしゃべればいいんだろう。)
脳内をフル回転させて、そうだきのう見たテレビの話をしよう、と思った。
そして、この場の空気を変えよう、と。
「あの、知ってる?」
「はい?」
彼は軽く飛びあがるくらい緊張して返事した。
わたしは昨日のNHKを思いだした。たしかあれは壮大な宇宙の話だった。
そう、たしか……
「火星の夕焼けってさ。青いんだって!」
「へ?」
結構な長い沈黙が落ちた。
(あれ、反応悪い。)
そこは全力でのっかろうよ。宮本くん。
そして話題をそらそうよ。
どうしようと思うと、今度は宮本くんが言った。
「あ、あの知ってますか?」
「は、はい?」
宮本くんはやけになったように、晴れ晴れと笑って言った。
「火星人は血も、青いんですよ」
「……そ、そうなんだ」
ああ。墓穴。
これが、昨日の話だ。