朝礼前
満員電車を乗り継いで、始業の四五分前に出社。給湯室でお湯を沸かす。広報・デザイン部では、新人が全員分のお茶を入れるのがここのルールだ。
古い慣習というひともいるけど、お茶を出すときに挨拶以外に、一言ふたこと世間話をすると、だんだんみんなのことがわかってきて、楽しい。「暑くなりましたね」とか「新しい靴、かわいいですね」とかいうと、「乾さんも体調気をつけてね」とか「三鈴屋の靴はかわいいのが多いのよ」とか、始業前、仕事とはちょっと違う、ふっとやさしい顔が見えてくる。
そうしていくうちに部の一員として受け入れてもらえた感じがして、わたしはお茶を入れる時間がすきだった。
「どうぞ」
「いつもありがとう。今日も暑くなりそうね」
満川先輩は、わたしより六つ上の先輩で毎日一番早くに出社する。今日も新聞を読んで切りぬいては、分厚いファイル閉じ込んでいた。
「昨日、研修うちからいけたの、乾さんだけだったんだって? ごめんね。なかなか会議切りあげられなくて」
新聞から顔をあげ、満川先輩は昨日の話題を出した。
(昨日の、研修)
わたしは内心ぎくりと緊張した。
「いえ。向こうも緊張してたので、人数少なくてちょうどよかったのかもしれません」
「あ。じゃあうわさの宮本くんと二人きりだったんだ。どうだった、彼」
(ど、どうって)
なんていおう。
昨日のことは、簡単には言えない心境なのに。
「かっこよかった?」
「は、はあ。まあ」
黙ってしまったわたしを「突然、先輩にからかわれて、困っている」と映ったのだろう。
「そうだ。乾さん。石垣印刷さんとの打ち合わせがあったね」
と、満川先輩は話題を変えてくれた。
「はい。今日から一人で打ち合わせするんです」
入社二年目になって、わたしは先輩の仕事を少しづつ引き継がせてもらっている。広報・デザイン部として、外の注文先さんとの打ち合わせを任されたのは、今回が初めてだった。
「石垣社長さんは、本当にやさしいから、大丈夫だよ」
満川先輩はにっこり笑った。
「おいしいお茶、いれてあげてね」
朝のこのとき間が好きだった。
昨日のことさえなかったら、わたしにとってはいい一日だったと思う。