01平和な大魔王城
その日、世界は平和だった。
空は晴れ渡り雲一つ無い。日中から瞬く星達の姿も、肉眼ではっきりと確認できる程空気が澄んでいた。こんな気持ちの良い空を見上げていれば人々の心も穏やかになるというもの。地上で大きな争いも無く神を冒涜する者もいないため、天上の住人も暇を持て余している。あまりに退屈で皆仕事を放り出して昼寝をしているかもしれない。神罰を下す裁きの雷も長い事使われていないので、管理者が使い方を忘れてしまうのも時間の問題だ。
地上はもう随分前から静かだ。恐怖で泣き叫ぶ声も、憎しみを込めた呪いの言葉も町からは響いてこない。理性を失い同族や人間を食い荒らす魔物も、人さらいや子供を売る親も、目を凝らして隅々まで探してようやく見つけられる程度だ。それが暗い路地からひょいと表に出れば、善良な者達がたちまち遺体を丁寧に弔い、皆で集まり悪を更正させようと考える。何とも優しく正直で単純な者達だ。これでは闇の囁きを聞くことなど到底できまい。
魔界に堕ちる者も大分少なくなった。闇の住人はどんどん少なくなる一方だ。このままではきっと滅びてしまうだろう。地下深く、光も希望も届かないような闇に満ちていたその場所、魔属が住む魔界も今では夕暮れのような明るさだ。ちらちらと光る物まで見え、いつ地上のような星空に変わってもおかしくない。古くから人間の心を喰らっていた者達は姿を潜め、人間から転じた魔王達がこの世界を治めている。
それらの原因を作り出した張本人が、古びた居城の窓からぼんやりと外を眺めていた。紺の衣に身を包んだ男。マントを脱げばただの青年にしか見えない地味なこの人物こそが、魔界を統一し頂点に立つ大魔王リンバーである。窓辺に寄りかかり、感情が抜け落ちたようなどこまでも黒い瞳で、空と世界とを見つめている。
岩壁に囲まれた大魔王城の周辺は静まり返っていた。聞こえるのは風の流れと、背の低い草が擦れる小さな音だけだ。
「随分、静かだな」
呟くような声もこの静寂の中では響き渡る。普段なら聞こえる喧騒がしてこないという事は、息子が城を出ているのだろう。己と似ていないあれはよく騒ぎを起こす。元気があるのはいい。どんなに世界が変わってもきっと順応できるだろう。そういえば最近知り合いの子供が厳しい修行を終え、ようやく外出を許可されたと聞いた。好奇心から見物に行ったのかもしれない。相手が同じ年頃だからといって、ちょっかいを出さなければいいが。
重厚な装飾がされた扉からノックの音が響いた。
「失礼します、定期報告のお時間です」
いつも通りの時間にやってくる。外にいるのは変に真面目な所のある部下だ。この扉の向こうで姿勢を正し、入室の許可が下りるのをじっと待っている。別に扉に鍵が掛かっている訳でもないというのに。他にも何人かの部下がいるが、律儀に扉を叩き返事が来るのを待っているのはこの男だけだ。
「入れ」
礼儀正しい部下サジットを部屋に招き入れると、リンバーは椅子に腰掛け報告を聞く。これもいつも通りの彼の仕事だ。
魔界各地の情勢。主に他の魔王達の戦力を指す。現在の最大勢力は魔人王率いる魔人属。地上で古代の契約法が復活したため、多くの人間達が魔法を得るために力を捧げている。同じような立場にあり、地上に進出していた竜人属や食人属は、とある賞金稼ぎ一味により王が討伐されてしまったため撤退。魔界に戻り次の機会を狙っているとの噂だ。
しかし指導者を失ったため統率は乱れ、多くの者達は他の勢力に流れている。現にこの城で働いている部下にも含まれているのだ。竜人属であるサジットは魔界が統制される以前から、付き従っている。こういった同胞の行為は裏切りだと彼は批判していた。
「実はスパイとして入り込んで、俺を討つ気かもしれないぞ」
皮肉の入ったフォローを入れる大魔王に、忠実な腹心はそれこそありえないと笑みを浮かべた。
「そのような不届き者を、あなたが見逃すはずは無いでしょう」
「ええそうね。そんな者いるわけ無いわ。あたしの城で、あたしの物に手を出そうだなんてね」
サジットの目の前に座る大魔王。その玉座の上に白い影がある。金属の接続線が揺れ、抱きしめるように絡みついても、リンバーは気に留めない。するすると降りてくる影が、床に足を落とす。紅色を纏った白い女性は無機物がそうしていたように、彼女の愛しい人を抱きしめた。見せつけるようなその仕草に、忠臣は一瞬眉をひそめる。
「そんな屑を生かしておく程あたしは優しくないわよ。知っているでしょ。あなただってそうじゃない?サジット」
鋭い瞳で射抜かれても、闇の囁きを思わせる冷たい声で名を呼ばれても、付き合いの長い男は動じない。
「そうですね、機人王。その通りですよ」
つまらない反応だったのか、機人王と呼ばれた女性は大魔王から離れると、すっと闇に溶けた。城の主が消え失せると、そこはまた二人だけの空間に戻る。何事も無かったように報告は続けられた。
たっぷり二時間かけて定期報告は終了した。資料を片付ける音だけが部屋に響く。大魔王は先程と同じように外を眺めている。穏やかに流れるこの時間が、サジットは一番気に入っていた。以前は覇権争いの度に行っていた定期報告。部下達を一堂に集め、敵勢力殲滅のため淡々と指示を出す大魔王。凛々しいその姿を見られないのが残念だが、元々争いを好まない自分としては今の環境の方が相応しい。それは我が主君にとっても同じだろう。
「なあ、サジット」
「はい、何でしょう」
資料を取る手を止め、向き直る。相変わらず空を見つめている主は、視線を外に向けたままだ。最近はよく一人で考え事をしている。昔は顔見知りの魔王達が訪れる事も多く、その都度大魔王は城を離れ留守を任されたものだ。今ではその魔王達も数を減らし、ここに立ち寄るのは交流の深かった一部の者だけだ。
そのため一日中外出をしないというのも珍しくない。手の掛かる後継者の存在も理由の一部だろう。突拍子も無い問題を起こす彼の息子を、部下達だけで止めるのは至難の技だ。城を抜け出すだけならまだしも、地上にまで勝手に出て行く始末。天界に行こうとするのだけは全力で阻止しなければならない、とサジットは心に誓っていた。
遠くを眺めるリンバーが独り言のように呟いた。
「平和になったよな」
確かに昔を思えば今は平和だ。初代大魔王が倒れ、闇の軍勢に魔属が脅かされていたあの頃に比べれば、問題を起こす子供など可愛いもの。目まぐるしく変わる世界を生き抜いてきた自分達から見れば、こんな苦労は小さな通過点にすぎない。
「ええ、平和ですね」
部下であり戦友である男の返答に、リンバーは珍しく笑みを浮かべた。
「それじゃあ、もう俺はいなくてもいいな」
振り返った彼の顔は妙に晴れやかで、落ち着いていた。言われたサジットは主が何を言っているのか一瞬理解できなかった。 言葉の意味を反芻する前に、閉ざされていた扉がどん、と大きく音を立てて開かれた。続いて乱暴な足音を立てて入ってきたのは、派手な赤を纏った少年だ。扉の向こうには大きな玉飾りを頭に付けた女性が、私は止めましたよと目で主張していた。
しばらく思考を停止していた彼が、同僚に注意をしようと気付く頃にはもう姿が消えていた。いつもこうだ。その素早さがあるのだから、本気を出せば止められただろうに。大魔王の部下達は高い実力を持っているくせに、不真面目な者が多すぎる。
「あのクソガキ!こっちが手加減してやってるのをいい気になりやがって。おう親父、魔人王のガキは危険分子だ。始末した方がいいぞ」
ノック無しで部屋に進入してきた大魔王の息子は、入ってくるなり悪態をついた。服の布には所々焦げ跡が付いている。それを見たリンバーは一目で何があったのかを察した。
「何だ、負けたのか。さすが魔人王の子だな」
彼の息子は魔人王の子供に喧嘩を売り、相手を倒す事ができないまま帰ってきたらしい。恐らく手加減していたのは向こうの方だろう。魔人王が実力を認め、外に出しても問題無いと判断したのだ。修行を怠っていた自分の息子では到底歯が立たない。
「だから魔法の勉強を疎かにしないよう、言ったではありませんか」
教育係であるサジットは渋い顔だ。きちんと修行していれば、長い間箱入りだった子供に遅れを取る事も無かっただろうに。元々実力は備わっているのだから、力を磨き上げればどんな相手でも勝つ事ができるはず。それを社会勉強という名目で遊びまわっていたのだから、この結果は当然だ。
「誰が負けたかよ。今回はただの様子見だ」
そうは言っているものの、苛立った様子を見れば負け惜しみにしか聞こえない。親子でありながらどうしてこうも違うのか。この城で大魔王が感情的になる様子を見た者はいない。常に冷静で的確な判断力を持っている彼だからこそ、混沌にあった魔界を統一する事ができたのだ。その後継者がこの有様では部下達にも示しがつかない。大魔王の側近として役目を果たしているサジットの悩みの種だ。
玉座に移ったリンバーは二人の様子をじっと見つめていた。視線に気付いた息子は忌々しげに彼を睨みつける。何か文句でもあるかと言わんばかりに。
「なんだよ、親父」
次の一言で、この場の時間が完全に止まった。
「お前、大魔王になれ」
我が主はいつの間に次元を操る術を身につけたのか。静止した部屋の中で忠臣、サジットはこの時思ったとか思わなかったとか。先程までの怒りはどこへ。大魔王の息子もぽかんとした表情で固まっていた。
「俺の仕事は終わりだ。約束通り元の世界に帰らせてもらうぞ」
「やった!帰れるのねリンバー」
彼の声を聞いた機人王がどこからともなく現れ、全身で喜びを表し抱きついた。彼女の体から幾束も伸びた配線が、大魔王の体をぐるぐる巻きにする。それでもやはり彼は気にしていないようだった。まるでじゃれてくる小動物を相手にしている様子を、置き去りの二人が唖然と眺めていた。
城内はこの部屋を除き、相変わらず静かだ。その静けさも驚愕したサジットの叫びによって間もなく破られる。
この日も、世界は平和だった。