遺書
ブラックユーモアのつもりで書きました。
一代で巨万の富を得た男。社員数1万以上の超巨大企業の会長として頂点に君臨する男。彼の推定資産はざっと一兆円を越える。田園調布に六百坪の屋敷を構え、国内外に3つの別荘を持ち、ショーファー付きのリムジンで出社する男。
彼の日課は、広い食堂でひとり夕食をとること。例えどんなに忙しかろうと必ず同じ時間に夕食をとる。3年前までは大きなテーブルの向かい側に彼の妻が座っていた。しかし死に別れて以来ひとりの食事。彼のために腕をふるわれた料理の数々がテーブルに並ぶ。
ある日の午後7時30分。そんな彼に異変が起きた。
「んぐっ!」
ちょうど血のしたたるようなレアのフィレステーキを口に入れた瞬間であった。突然彼は持っていたフォークを取り落とし、自分の胸倉を掴みながら激しく身悶えしはじめた。
「会長?」
傍らにいた給仕女が慌てて彼のもとに駆け寄る。その時彼は樫材のアンティークな椅子からばったりと転げ落ちた。
「きゃあぁぁぁぁぁっっ!」
給仕女の叫び声に執事も駆けつけ、すぐさま救急車も手配された。
株式会社ムラタの会長、村田誠三郎は突然の心臓発作により緊急入院となった。
※ ※
「おじいちゃん!」
病室へ一番最初に駆けつけたのは、誠三郎が一番かわいがっている孫の武史であった。
「大丈夫、おじいちゃん!」
「ここは病室です。どうかお静かに」
誠三郎は病院の簡素なベッドに横たわり、安らかな寝息を立てている。そしてその傍らに中年の看護婦が付き添っていた。
病室の中に規則正しい電子音が響いていた。誠三郎は病院の服に着替えさせられており、その襟元襟から幾本もコードが伸びていた。それが心電図につなげられている。彼の鼻には酸素チューブが入れられていた。
「おじいちゃんは大丈夫なんでしょうか?」
「今は安定しています」
「何があったんですか?」
「心筋梗塞による心臓発作で倒れられました。緊急の処置により一命は取り留め、今は安定しています」
看護婦はあくまで事務的にそう話すと、「失礼」と一言残して病室を出ていった。
「おじいちゃん……」
武史はそっと誠三郎の手を握る。その時ゆっくりと誠三郎の目が開いた。
「おお、武坊・・・」
「おじいちゃん……。大丈夫?」
「ん、大丈夫じゃよ。他のモンは来とるかね?」
「母さんはもうすぐ着くって。おじさんは……」
その時病室をノックする音が聞こえた。ゆっくりと扉が開き、中年の男が顔を覗かせた。
「父さん?」
入ってきたのは誠三郎の長男で株式会社ムラタの現取締役社長、村田健児であった。彼に続いて長女であり副社長でもある富子も入ってきた。
「父さん、具合はどうなんだい?」
「ああ、だいぶ楽になったよ。お前たち、会社は?」
「お父さんが倒れたって聞いて、途中で切り上げてきたのよ」
「そうか……」
そう一言呟いて深呼吸する。そして。
「アレは? 来ているのか?」
「さあ。どこで何をしているのかも分りませんから」
アレとは誠三郎の次男、進であった。会社を継ぐことを嫌って家を飛び出したのである。以来30年近く行方が知れず、連絡のつけようもなかった。
「ま、父さんが無事でなによりだ。さて、私は会社に戻るぞ」
「えっ? こんなときに仕事する気なの?」
「こんな時だからこそ私が行かなくてどうする。何かあったら連絡してくれ。それじゃ父さん、行ってくるよ」
「ああ」
健児はそのままさっさと病室を出ていった。
「富子、お前も仕事があるなら……」
「いいのよお父さん。兄さんがなんとかするでしょうから。私、先生に呼ばれてるからちょっと行ってくるわね」
そう言って富子も病室を離れた。
「うーむ……。この鼻についてる管が邪魔だなぁ。武坊、取ってくれんかいの?」
「だめだよ。息するためのものなんだから」
※ ※
「あと一回ですな」
医師はまずこう切り出した。
「一回?」
「ええ、あと一回が峠です。いろいろと検査してみた結果、さきほどの心臓発作によるダメージが相当残っているようですし、それ以前からもかなりボロがきているようでした。あと一度の発作に耐えられるかどうか……。今はペースメーカーが効いてリズムも安定しているんですが、いつ発作が起きてもおかしくない状況です」
「そうなんですか……。あ、心臓移植の可能性なんかは?」
「手術に耐えられる体ではありませんし、第一今からドナーを捜しても手遅れになる可能性が極めて大です。それよりも最期を看取る人をお集めになられたほうがよろしいでしょうね。お気の毒です」
取ってつけたような「お気の毒」だった。富子はそれを聞いてただ「そうですか」とだけ答えた。
「とにかく……とにかく出来る限りのことはしていただけますか? あの子が……うちの息子が寂しがると思うので。少しでも一緒にいさせてやりたいので……」
「保証はしかねますが、やれるだけやってみましょう。では、別の患者が待っておりますので」
富子はすごすごと担当医の部屋を出て、その足で公衆電話へ向かった。
「ああお兄さん、私です。お父さん、次の心臓発作が峠なんですって。それがいつなのか……だからなるべく早く仕事を切り上げて、こちらに来てちょうだいね」
『そうか。なんとか都合つけて行こう』
電話を切りひとつため息をついて少し複雑な表情になる。
「あの子になんて言えばいいのかしら……」
※ ※
富子と武史は、病室のすぐ外にあるベンチに並んで座っていた。富子は意を決して話してしまうことにした。
「あのね武史、おじいちゃんね……」
「おじいちゃん……悪いんだね」
「え、ええ……。次に心臓発作が起きたら……」
「そう……」
武史はもう泣きそうな表情になっていた。それを無理やり両手で顔を洗うようにこすりつけ、泣き顔も拭き落した。
「とにかく今は側についてあげてちょうだい。私はおじいちゃんの荷物を取ってくるから」
「うん」
武史はトボトボと病室へと入っていった。その後姿がいかにも痛ましかった。
「おう武坊、何話しておったんじゃ?」
「ん? なんでもないよ」
病室に入るなり話しかけられ、武史は無理やりに笑顔を作って答えた。しかしどうにも引きつってしまう。
「なるほどな。わしもそう長くはないんじゃなぁ」
「ち、違うよ! ちょっといろいろ……テ、テストのこととか言われちゃって……」
「まあまあそう意地になることもあるまいて。人はいつか必ず死ぬように出来ておるんじゃから。武坊と会えんようになるのはちと寂しいが、そろそろ向こうに行ってやらんとな。アキが寂しがっとるじゃろうて」
「おばあちゃん……」
「わしはあっという間に死ぬんじゃろか。アキみたいに長く苦しむのは辛いのぅ」
彼の妻アキは食道ガンで苦しみながら逝った。最期は誠三郎が医者に頼み込んで楽に逝かせたのだ。
「ところで武坊。お前さんにちょっと頼みたいことがあるんじゃ」
「何?」
「わしが死んだらタマの世話をする人間がおらんなってしまう。お前が可愛がってやってくれんか。あれはお前によくなついていたから」
タマは彼の犬である。子犬の時は玉のようにコロコロと可愛いかったのでそうつけたが、成犬になるにつれタマと呼べないくらいにりりしい犬になってしまっていた。
「うん。きっとちゃんと世話するから」
「よかった。これで思い残すことはない」
※ ※
しばらくして富子が帰ってきた。執事に大きな荷物を持たせていた。病院の服からいつもの羽織に着替え、誠三郎は少し落ち着いたようにベッドに横たわった。枕も家で使っているものを持ってきていた。
それからすぐ後、健児も病院に戻ってきた。
「どうだ? 変わりはないか」
「ええ、落ち着いてるわ……って、その後ろの人は誰?」
健児の背後にスーツをびしっと着こなした男が一人立っていた。
「ん? 私の知り合いの弁護士だよ。公証人を頼んだ」
「公証人! なんでここに連れてくるのよ!」
「こういうことはきちっとしておいたほうがいい」
「だってお父さんはまだ死……」
はっと気づいて富子は慌てて口をつぐんだ。
「そう気を使うな富子。もう知っとるわい。おい弁護士、名前は?」
「田中法律事務所の田中幸人と申します。この度は大変ご愁傷様でございます」
男はそう言ってピッと名刺を取りだし、慇懃にお辞儀をする。
「わしはまだ生きとるわいな。まぁいい」
名刺を受け取り少し目から離してじっくりと眺める。いろいろと立派な肩書きが並んでいた。
「まあいいじゃろう。遺書を作ればいいんじゃな?」
「そうです。後で揉め事にならないように」
「ちょっと兄さん!」
「いいんじゃよ。さて、こういうことは初めてなんでな。どうすればいいんじゃ、田中君」
「基本的には村田様のご自由に、後の人々に対してご自分の意志を残されればよろしいのです」
「そうか。以外と簡単なものなんじゃな」
そのつぶやきに、一瞬室内が静かになる。その静寂を破ったのはドアをノックする音だった。
「親父、死んだか?」
「す、進っ!?」
無礼な挨拶とともに現れたのは次男の村田進であった。きれいに整えられた髭、それとは反対に小汚いラフな服装であった。
「おう兄貴、いたのか」
「今更あなたが何しに来たのよ!」
「ちょいと知り合いがここの病院にいてな。そいつから親父が担ぎこまれたって聞いてな」
「ふん、こんな時に現れるとは都合のいいやつだ」
「なぁに、死に水取るのは息子の役目だろ?」
進は鋭い眼光を放ちながらベッドの横に立った。
「なんだ、元気そうだな」
「お前もな、進」
進の眼光は相変わらず厳しかったが、誠三郎の視線は優しい父の眼差しであった。
健児が進の肩をぐっと引っ張る。
「とにかくこっちに来るんだ。富子も来い」
「へへ、じゃあまた後でな」
進は健児に半ば引きずられるように病室を出ていった。富子もその後を追った。最期に病室を出たのは弁護士の田中である。
「さてと、どんな遺書を書こうかの」
「書くのが面倒なら僕が代筆するよ」
「そうか? じゃあ頼もうかの。ふむ……折角じゃしおもしろいもの書こうかの」
※ ※
4人は病院を出て近くにある24時間営業のファミレスに入った。
「なぜ今頃戻って来るんだ。できれば最期までお前の顔を父さんに見せたくはなかった」
「最期だから来たんだろ」
「何? なんで知ってるんだ」
「さっきも言っただろう。あの病院の看護婦とちょっとした仲でな。そいつから洗いざらい聞いたんだよ。もう後がないんだろ? 今のうちに顔見せて、オレがいることを思い出してもらおうと思ってな」
そう言ってふてぶてしくタバコの煙をプカッと吐き出してみせた。
「兄貴のことだからよ、用意周到にオレなしで遺産分配するつもりだったんだろ? 案の定弁護士なんか連れてきてるしよ」
「お前は村田家とは関係ない人間なんだから当然だろう。お前に分けてやる金など一切ない」
「ちょっとそうもいかないでしょう。進兄さんは戸籍上はまだ……」
「ええ、法律的にはこのままだとお三方に均等分配されますね」
弁護士の田中が口を挟んできた。ペラペラとシステム手帳をめくっている。
「誠三郎さんには直系尊属も配偶者もいませんから、直系卑属であるあなたがた3人が現在の相続財産を3等分することになります」
「なんであなたがそこまで詳しく知ってるのよ」
「私が事前に調べさせた。こんなこともあろうかと思ってな。こいつさえ現れなければ、2等分で済んだものを」
「なにぃ?」
「ちょっと!」
「あ、あの……」
深夜バイトの女の子がすまなそうな表情で声をかけてきた。
「他のお客様もいますので、少し声を……」
「あら、ごめんなさい……」
全員が冷めたコーヒーを一口すする。
「ほらな。オレもちゃんと相続人なわけよ。勝手に分け前取られたんじゃ、そりゃ法律違反だよ。違法だよ?」
「いいからお前は黙っていろ」
「兄貴の勝手なんかにさせやしない。兄貴も富子も合法的に会社乗っ取れるんだからいいじゃねぇかよ。オレにもすこしくらいいい目見させてくれよな」
「乗っ取るとはなんだ。引き継ぐんだ」
「固いこと言わないでよ、ほんの2千万でいいんだよ。今金がいるんだよ。そうしたらきれいさっぱり、まともな体に戻れるってなもんだ」
「進兄さん、そんなに借金してるの!」
「ジャズメンにはいろいろあるのさ」
「女に騙し取られたくせに」
「なっ! なんで兄貴がそれ知ってんだよ!」
「調べれば分ることだ」
「兄さんは進兄さんのこと、ずっと知らないって……」
健児はむすっとした表情でコーヒーを一息にあおった。
「なるほどな。オレのこと嗅ぎ回ってオレに借金があったもんだから、オレに金を回さないようにしたかったんだろ。そうだな兄貴」
「落ちこぼれには関係ない」
「兄弟じゃない! なんでそんな風にケンカばかり!」
「とにかく、どうにかならんのかな田中君」
「現段階ではどうにもなりませんね。すべては遺書次第ということで」
健児は軽く舌打ちした後、神経質そうにタバコに火をつけた。
「とにかく父さんには何も言うな。借金は私がなんとかしてやる。最期ぐらいは父さんにいい思いさせてやれ」
「ふん」
3人が病室に戻ってくると、室内に見知らぬ女がいた。女は派手な衣装と濃い化粧で身を包み、香水の匂いを強烈に漂わせていた。年齢的にはまだ若い。
女は3人を見ると慇懃にお辞儀をしてきた。
「あなた誰よ」
「私はこの方のお世話をさせていただいていたものですわ、いろいろと……ね」
そういうと女はいやらしい笑みを唇の端に浮かべた。
「まさか……愛人!?」
「あらあらそんなものじゃないですわ。少し、仲良くさせていただいてましたの。本当にこんなことになってしまって、悲しいわ」
「父さん! どういうことですかこれは!」
健児は声を荒立てると慌てて武史が止めに入った。
「今おじいちゃん寝てるんだから、ちょっと静かにしてよ!」
「ん、そうか……。あなた、ちょっと来なさい」
「どこへでも行きますわ」
その時突然派手な電子音が室内に響いた。その瞬間誠三郎の体がビクンとのけぞった。
「あら携帯が」
「早く止めて!」
武史は座っていた椅子を蹴倒して立ちあがり、女が出ようとしていた携帯電話を叩き落した。そしてまだ鳴り止まぬ携帯電話を踏み潰す。それでようやく誠三郎が落ち着きを取り戻した。
「ちょっとなんてことしてくれるの! あたしの携帯よ!」
「このなものいくらでも弁償してあげるよ! それよりおじいちゃん!」
一瞬心電図が乱れているが、携帯電話が止まってからは徐々に元のリズムへと戻ってきている。
「なによこの子、生意気ね」
「いいからこっちに来るんだ」
「痛いわね、何するの!」
女は無理やり病室から引っ張り出された。
そしてまたファミレスへとやってきた。席に着くなり女はメンソールのタバコを取り出してふてぶてしく煙を吹いた。
「どういうことか説明したまえ」
「何を説明するのよ」
「お父さんとあなたの関係よ!」
「あら、聞きたい? どんな話が聞きたい?」
「あなたね!」
「まあまあゆっくり聞こうじゃないか。なかなか楽しい話が聞けそうだぜ?」
進はなかばニヤついた表情を浮かべて女を見た。健児はまたイライラとタバコに火をつける。
「あたしの名前は麗子。六本木のバーで働いてるのよ。ちょっとした関係でセイちゃんがうちにいらしてね、それから懇意になったのよ」
「親父もあんな年でよくやる」
「進! ……それで?」
「1年ほどかしらね? あの方と関係があるのは。別にそんなに対したお付き合いじゃないのよ。ただちょっと、手と口で慰めてあげて、それでおこずかいをもらってただけよ。そういう関係」
「お父さんったら……もう聞いてられないわ。私は病室に戻ります。なにかあったら知らせるから」
そう言って富子は勢いよく立ちあがり、まさに風を切って店を出ていった。
「おこずかいって……なにをもらってたんだ?」
「え? そんなに対したものじゃないわよ。マンション3つと別荘ひとつと……お店の運転資金。それとプライベートなお金が少しね」
「ま、マンション? おい田中君!」
「いや……すいません。そこまで調べが回っていなかったみたいで……」
「くそっ! オヤジめ……」
「おやおや、隠し財産ってことになるねぇ。マンションの名義は誰なんだ?」
「今はまだセイちゃんのものよ。だけどもしもの時が来たら、私のものになるって言ってたような……」
女はそう言いつつハンドバックから一枚の紙切れを取り出した。
「確かにこれは条件付譲渡契約書ですよ。誠三郎様がご逝去された後効力が現れるようになってますねぇ……」
「どうにかならんのかね」
「法に基づかれていますから、どうしようも……」
「まったく……役に立たん男だな! こんな紙切れひとつどうにもできんとは」
「遺書だってそうだろうに」
「しかしまずいですよ、これは……」
田中はピラピラとシステム手帳をめくりはじめた。
「正確に計算してみないとはっきりとはわかりませんが、もしかすると赤字分配なんてことにも……」
「なに!?」
健児は思わず立ちあがってしまう。が店員に睨まれて座りなおした。
「で、どうかね」
「事前の調べでは最悪3名で分配しても黒字だったのですが、マンション等のことも考慮に入れると、相続税などで引かれて赤字になる可能性も……」
「なんとかしたまえ! 裏の帳簿なりなんなり、今までやってきただろうに!」
「まったく……折角勇んで借金チャラにしようと思ってたのに。お前が余計なことしてくれたせいで困るんだよ」
「なによ。あたしは関係ないじゃない」
「会社だって西日が見えはじめてるっていうのに、なにもかも滅茶苦茶じゃないか……。そ、そうだ。遺書の内容次第でどうにかはならんのかね?」
「ええ、なんとかはなりますよ。内容次第ですが。ですからすぐにご相談なさったほうが……」
「そ、そうだ。その手がある! よし、すぐに病院へ戻ろ……」
ちょうどその時健児の携帯電話が鳴り出した。
「こんな時になんだ……はい?」
『お兄さん! お父さんが危篤なの! すぐに戻ってきて!』
「なにぃ!」
※ ※
慌てて病室に駆け戻ると、医師と看護婦がベッドを取り囲んで必死の延命治療をほどこしている。その部屋の片隅で富子と武史が心配そうに見守っていた。
「どうなんだ、え!?」
「分らない……」
「分らないじゃ駄目なんだよ!」
「親父! なぁ親父よぉ! オレの名前書いてくれたか? 遺書にちゃんと書いてくれたか!? 2千万でいいんだよぉ」
「お前はこんな時に!」
健児はおもいっきり拳を叩きこんだ。進はあられもなく尻餅をついて倒れた。
「痛ってぇなあ兄貴!」
「いい加減にしてよ!」
逆に殴り返そうとしていた進に、武史が掴みかかって止めた。
「叔父さんたちは兄弟なんでしょう! おじいちゃんが苦しんでるって時になんで二人は喧嘩なんてしてるの!」
「まったく醜いわね」
麗子はそういいながら、病室であるにもかかわらずタバコを取り出して火をつけようとしていた。武史はそれを見ていきなり麗子の側に近寄り、平手打ちをくらわせた。
「あんたもだ」
病室がしんとなった。ただ弱々しい心電図の音だけが響く。医師は静かに振り向いて、そしてゆっくりと首を横に振った。
「あっ……」
その場にいた全員が立ち尽くしてしまう。ただ武史だけが誠三郎のかたわらに膝をついた。
「おじいちゃん……」
そっと手を握る。誠三郎はそれを見てそっと武史の頭を撫でてやった。
「この子はいい子じゃ。最期くらい静かにさせてはくれんかね。今までずっと慌しい人生だったんじゃから……。
健児、進、富子。お前たちは兄弟じゃ。ちゃんと協力して生きていかんと駄目だぞ。麗子、いろいろと世話になったな。そして武史……例のもの、頼んだぞ。
アキ……来てくれたんかね。おうおう、今行くとも。寂しい思いをさせたな。これからはずっとお前と一緒だよ……」
武史が握っていた手から、フッと力が失せた。
「おじいちゃん……おじいちゃん!」
「お父さん!」
「父さん!」
「親父!」
「セイちゃん!」
電子音がリズムを刻まなくなった。看護婦がスイッチを切る。
「死亡時刻5時24分。ご臨終です」
しばらく病室は静寂が支配していた。不意に健児が声を出す。
「そうだ……遺書」
「そうだよ。親父は遺書書いて逝ったんだろうな」
険悪な表情で武史が一同へ振り向いた。そして懐からそっと封書を取り出した。
「弁護士さん、サインを」
「あ、ああ」
武史の雰囲気に飲まれ、田中は遺書の証人としてサインをその封書にしたためた。
「おじいちゃんの意向でいますぐこれを開封します。弁護士さんのサインも入っているし、法律的には問題ありません。みんなこの遺書に従ってください。いいですね?」
みな無言のまま固唾を飲んだ。武史はゆっくりと全員の顔を見渡したあと封を切って中身を取り出した。
「遺書
わしが死んだらアキの遺骨と一緒に埋めてくれ。ただし場所を変えてほしい。伊豆のマクシミリアン教会だ。全て滞りなく執行するように。以上
4月29日 村田誠三郎
代筆 村田武史 」
「そ、それだけ?」
「はい」
ぴらっと裏返してみなに書面を見せる。武史の繊細な字で書かれたそれは、たったそれだけのことしか記されていなかった。
「どうなるんだ……遺産は」
健児が弁護士に振りかえる。
「これだけしか書かれていないとなれば、民法にのっとった分配をするしか……」
「そんな……」
健児はがっくりと膝をつく。
「あたしはもう用は済んだわ。それじゃあみなさん、ごきげんよう」
「おい待てよ! お前のせいで!」
「なによ、あたしは関係ないじゃない!」
ガヤガヤ騒ぎ立てながら、進と麗子は部屋を出ていった。
「マクシミリアン教会? これって、お父さんとお母さんが結婚式を挙げた教会じゃない」
※ ※
粛々と儀式は済んでいった。会社も順当に後継者が決定され、遺産の分配も税金の納付も全て片付いた。そしてゆっくりと、元の生活へと戻っていく。
武史はおじいちゃんとおばあちゃんが好きだった花束を抱え、ひとり伊豆へとやってきた。丘の上の白い教会。広い海を一望できるその場所に真新しい十字架が立っていた。
武史はそっと花束をそえて手を合わせる。
春の暖かな日差しが、丘の上に降り注いでいた。
おわり
みなさんのお言葉が、私を勇気付けます。