メイストームーデーは犬も喰わない
一人、紅蓮の中で泣き叫ぶ女がいた。
あぁ、あの男を選んだ自分が憎らしい、恨めしい。
一人、自然の中で安堵している男がいた。
あぁ、あの世界に行こうと思った自分が恨めしい、馬鹿らしい。
あるのは大きな岩。
一方は呪詛を言い放ち、一方はそれに立ち向かう術を言い放った。
ただ一つ、心に残るのは……。
互いに違う世界に居ながら、二人は同じ決心をした。
どれだけ時間をかけようと、いつか必ず……。
とある五月十三日の麗らかな午後。金曜日でなくてよかったと思いながら、姉特性のおやつを食べる。親の実家から大量に送ってきた林檎を使ったデザート。冷蔵庫に眠っているのはコンポ―ト。お酒を使ってるからあなたは食べちゃだめかもね、と笑う姉だが、ちゃんと食べさせてくれることを彼は知っていた。今晩の食後が楽しみだ。……さすがにサングリアのほうは飲ませてもらえないかもしれないが。酒好きの血が流れている身としては拷問だ。
「皓、紅茶のお変わりは?」
「うん、いる。ありがとうお姉」
課題もなく、のんびりとした一日。双方、現役大学生。レポートの提出があろうものなら一気に修羅場と化す日常も、今日ばかりはなりを潜めている。両親も仕事で、家には姉弟と猫だけ。たまにはこんな風に姉弟でのんびりすごすのもいい。
姉が台所に立ち、お湯の用意をしていると、そうだ、ゲームしようよと声がかかった。夕乃と皓は、見た目だけでなく、嗜好も似かよっていた。食べ物、服の傾向、そしてゲームのジャンル。
「いいよ。何やる?アクション?RPG?」
「この前買ったガンアクションのゲームあったでしょ。あれは?」
「分かった、コントローラとってくる」
二階の自室にあるコントローラを取り、リビングに戻る。親友に言わせれば、この歳でここまで仲がいいことが不思議で仕方がないらしい。うちなんか年中喧嘩だぜ、と言ってた友人の顔を浮かべながら思う。そりゃだって、男兄弟と姉弟じゃ訳が違うだろ……。
皓は物心ついたときから、女に手を上げるのは最低なことだぞと教えられてきた。状況と場合によるんじゃないかなと思いつつそれでもその言うことを素直に聞いて育った皓は、とてもじゃないが姉に手をあげるなんて出来ない。
「まあ、うちは姉弟喧嘩なんてしないから関係ないけどね」
仮に喧嘩したとしても自分が負ける気がして仕方がない。数日前、姉と恋人との喧嘩を偶然耳にしてしまったからだろう。電話越しの喧嘩だったが、とても恐ろしかった。相手が何か言うたび、冷静に切り返す姉。
「へえ、そうなの。じゃあ私は一日百回、あんたをぶちのめしてやるわ」
どんな会話だよと突っ込みつつ、その場を離れようとした直後、姉が吼えた。
「疑うことしかしねえなら、恋人なんかやめちまえ!!」
――いやはや、女の人を敵に回してはいけない。女の人と言うべきか、我が姉と言うべきか。その後、仲直りしたのかは分からないが、こうして休日に弟と戯れているということは、まあ、そういうことなのだろう。
ゲームのセットをして、姉と紅茶を待つ。
「お待たせ」
「ありがとう」
それに喧嘩はしないが、ゲーマーとして勝負に手加減はしない。今度友人に今の状況を見てほしい。きっと、顔つきの違いに驚くだろう。いや、ゲームセンターに置いてあるアーケードゲームをクリアする場面を録画してもいい。今度夕乃に持ちかけてみようと思いながら、さあ、ゲームをやろうと意気込んだ。そのときだった。
「そこの二人!!我らが離縁の証人となれ!!」
空中から現れた人影。驚いて声も出ない皓に対し、不法侵入よ、と言い放つ夕乃。
やはり喧嘩になったら自分は勝てないだろうなと漠然と思った。
メイストームデーは犬も喰わない
「あなた達、誰?」
夕乃は眉間にしわを寄せて目の間にいる二人を睨みつけた。そう、どこの誰だか分からない二人を。とりあえず座らせたはいいが、怪しい人物という認識は変わらない。恰好も現代のもとはかけ離れていた。
「申し遅れた。私はイザナミ」
「余はイザナギ。突然の無礼、お詫びいたす」
皓は目を丸くした。だって、その名前は。有名な神話の神の名前だ。
死んだイザナミを忘れられずにあの世とやらに迎えに行ったイザナギ。ともに帰ろうとするも、イザナミの返事ははっきりしない。しばらく別室でイザナミを待つイザナギだが、あまりの遅さについ部屋をのぞいてしまう。そこにいたのは朽ちたイザナミの姿だった――。
と、大学の講義では習った。だが、今目の前にいる彼女は……。
失礼を承知で、じろじろ二人を見てしまった。イザナギはともかく、イザナミは……。話に聞いた限りでは腐敗した姿であったとされているのに、今の彼女はそんなことない。腰まである黒髪は綺麗で、目元にある泣きぼくろがまたセクシーな、大人の女性。
動揺している皓に対し、夕乃のほうは冷静だった。ただ一言、
「ふぅん」
声の冷たさが尋常じゃない。どうか、手は出ませんようにと祈ることしかできない。まてよ。祈るって誰に?神様?……なら目の前になるじゃないか。それじゃあだめだ、あてにならない。皓は目の前にある紅茶を一気に飲み干した。渋くてまずい。
「だいたい、イザナギとイザナミってあれでしょう。神話の」
「いかにも」
「まあ、いいわ。で、要件って何」
イザナギとイザナミは待ってました!とばかりに身を乗り出して言った。
「離縁の証人となれ!」
よほど強い望みなのだろう。力強く握ったこぶしつきだ。けれど、そんな必死な願いも、彼女にすれば一刀両断。
「ちょっと、人に物を頼む態度がそれなわけ?なってくださいでしょ」
二人はまさか目の前の少女がそのような口を利くとは思わず、少し面食らったように口を噤んだが、すぐに言い返す。
「なんて物のいいよう。我らは神だぞ!」
「そうじゃ、生意気な人間の娘」
「待って、それ以上言うと……」
お姉が怒るから!と言おうとしたが、時すでに遅し。
「あのねえ。こっちは優雅な午後を過ごしていたはずなのよ。可愛い弟と楽しくゲームをしながら!それが何よ、いきなり出てきての命令口調!生意気なのはどっち!?」
夕乃の怒号が響く中、皓は静かに席を立った。お怒りモードになった姉はそれを吐き出すまで落ち着かない。あまりの剣幕に怯えた表情の神二人がこちらを見るが、助けてはやれない。自分で撒いた種だ。自分で後始末をどうぞと一度合掌し、その場をあとにした。あとに響いたのは悲鳴だけ。俺は何も見てない聞いていない。ただ、ご近所さんから苦情が来ないことだけを祈る。……これは神様ではなく、ご近所の人そのものに願った。
「先ほどはすまなかった」
「い、いえ……」
暫くして夕乃が呼びに来た。リビングに戻ったとき、謝ったのはイザナギだけ。イザナミは顔を覆ってしくしくと泣いていた。
「この方たち、別れたいそうよ」
何があったか分からない皓に、夕乃が簡潔に説明した。だが、簡潔すぎて分からない。どういうことなのかと首をかしげていると、イザナギが説明してくれた。
「世間一般でどういわれているのかは知らないが、余たちは夫婦のままなのだ」
「……離婚、してなかったんすか」
「いかにも」
イザナギの話はこうだ。確かに、イザナミを迎えにあの世にまで行った。しかし、姿を見て恐怖に煽られたのも事実で、命からがら逃げたはいいが、肝心の離婚手続きが終わらぬまま、岩で道はとざされてしまったと。
「だいたい、お前が悪いんじゃ!あの世まで私を迎えに来ておいて、姿を見た途端、はいさよなら!何考えておるんじゃ、この能無し!!」
「誰だってあの姿を見れば驚くわ!」
「死者が生前の姿を保っていられると思っているから能無しなのじゃ!バーカ、バーカ!!」
「まあ、確かにそうよね」
夕乃が静かに同意した。イザナギには申し訳ないが、皓もイザナミの意見を支持する。
「それで、なんで今まで離婚しなかったんですか?」
二人は国生みや神産みを行った、いわば創設者となった人物だ。それから考えても、もうずいぶんと長いときがたっている。いくらでも機会はあっただろうに。そうのべると、少し落ち着いたらしいイザナギが答えた。
「今も昔も、離縁は面倒な手続きが必要なのだ」
あのときはそんな時間がなかったというイザナギをイザナミは睨みつける。気のせいか、まわりに黒いオーラが見えるような気がしてならない。いや気のせいだ。気のせいでなくては。それにしてもまた、なんて大物の離婚証人に選ばれてしまったのか。
「本当はすぐにでも離縁したかったのだがな。人間界では離縁したことになっているし、それでよいではないかという声もあり、放っておいたんだ。喧嘩両成敗ということで、世界の行き来も禁止されていたし」
「じゃあ、そのままでいいじゃないの」
「ならぬ!!」
イザナミの声が鋭く異議を申し立てた。
「私だって、新しく恋愛がしたい。再婚だって考えたが、こやつとの離縁は正式なものではないから、重婚となってしまう。だからわざわざこの日を待ってここにきたのじゃ」
「なんでこの日なんですか?」
「なんだ、お主、知らんのか。今日は別れを切り出していい日なのだぞ」
イザナギのその一言に、夕乃の目が輝いたのを皓は見逃さなかった。
「なにそれ。詳しく」
激しく嫌な予感がする。とりあえず姉とイザナギは放っておくことにして、皓はイザナミから理由を聞くことにした。
「あの、別れを切り出していい日って……」
「メイストームデーといってな。いや、実に便利でいい日じゃ。我らが世界では、この日に双方同意で別れるならば、各々証人が一人ずついればよいという!いい日であろう?」
そうですね、と返した皓に、ある人物の顔が思い浮かんだ。自然と顔に同情の色が浮かぶ。
「今はこちらにもネットがあるからな!情報が調べやすい世の中じゃ」
「……ネット、あるんですか」
「もちろんじゃ!最近はカラオケなるものも出来たし、おしゃれなカフェもオープンしている。とてもすごしやすいぞ」
よければ今度、案内してやろう!と言うイザナミに、機会があればと答えた。
「最近は神も忘れられ、存在意義をなくしてこちらに来るものも多いからな……。癒しや娯楽がないと、やっていけないのじゃ。なんとも悲しい話よ……」
イザナミが静かに呟く。その顔は悲哀の色を浮かべても、なんら色あせない美しさがあった。
「すまぬ。暗くなったな」
「いえ。……あの、イザナミさん、なんでそんなにお綺麗なんですか?」
話ついでにずっとひかっていたことを聞いたみる。すでに死後何百年もたっているはず。なのにどうして美しいままなのか。
「おぉ!嬉しいことを言ってくれる子じゃ。あやつが見た姿は、肉体が朽ちる過程でな。完全に朽ちてしまえば魂だけでの活動になり、体は魂の記憶による再現となる。だから今はこの姿と言うわけじゃ」
なるほど。と頷けばイザナミが「お主がこっちにくるときは私が自ら迎えに行ってやろう。なに、あの世というのもそう悪くない」
なんと言えばよいのか分からず、とりあえずありがとうございますとだけ言った。自分の死後は安定らしい。
その後、夕乃、皓両名立会いの下、正式な離婚手続きが行われた。本当に簡単なもので、書類に名前を書くだけ。こんなもののために、ひどく精神を消耗した気がする。
「では、両名には世話をかけたな」
「何かあれば、今度は私が助けになるぞ」
そういった後、イザナギとイザナはを互いの顔を見合った。
「…まあ、なんだ。あのときはすまなかった。今後も色々と相談に乗らせてほしい」
「その時はぜひ頼もう。……なんだかんだとあったが、楽しかった。幸せになるのじゃぞ」
すっきりした顔で、互いに握手をして。二人は笑顔で家を去った。
「つ、憑かれた……。違う、疲れた」
げっそりとする皓に対し、夕乃はなぜか嬉々とした顔。あぁ、嫌な予感が当たりそう。
「皓。お姉ちゃん、ちょっと電話てくるから先にゲームやってていいわよ」
「……もしよかったら、誰に電話か聞いても?」
「この日に最適な人へ」
にっこりと笑う夕乃は綺麗だった。それはもう、晴れ晴れとして。携帯を片手に二階へ上がった彼女が電話をする相手は、一人だけ。きっと電話の向こうからは絶叫が聞こえてくるのだろう。皓にも優しく、かわいがってくれた姉彼。なにも出来ないことが悔やまれる。
「……頑張って」
ぽつりとつぶやいたあと、先ほど帰って行った二人に祈った。
本日五月十三日、メイストームデー。
たまには盛大な喧嘩もいいでしょう。ですが、それはだれも被害を被らないところでどうぞ――。
メイストームデーは犬も喰わない 完
バレンタインデーを調べてこの日をしりました。いやはや、世の中にはいろんな面白いイベントがあるものですね(笑)