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返事のかわりに

作者: みなみ
掲載日:2026/10/29

いつかの夏の話

その朝、僕は母さんに怒った。


「分かってるって。もう中二なんだから」


 台所で水筒に氷を詰めていた母さんは、はいはい、と少し笑った。


「足りなくなったら、ちゃんと買ってね。小銭、外のポケットに入れたから」

「分かってる」

「お昼も、試合の合間に食べるのよ」

「だから、分かってるって」


 玄関で靴のかかとを踏みながら、背中で聞いていた。


 母さんは、いつも同じことを言う。


 水を飲め。ご飯を食べろ。気をつけて帰ってこい。


 毎日言わなくたって、そんなことは知っていた。


「夕飯、何がいい?」


 ドアを開けたところで聞かれた。


「何でも」


 そう答えて、僕は家を出た。


     *


 練習試合の会場は、隣の学区の市立中学校だった。


 四つの学校が集まっていた。入口には脱いだ靴が何列にも並び、体育館の隅には、それぞれの学校の鞄が山になっていた。


 暑かった。


 開け放した扉から風が入ると、床に貼られたテープの端がかすかに震えた。扉のそばに座っていた一年生が、ああ涼しい、と言った。


 けれど、その風はコートの真ん中までは来なかった。


 ボールの弾む音。

 靴底の鳴る音。

 誰かが叫ぶ、一本、という声。


 いつもの夏休みだった。


「今日、三点一本決めたらジュースな」


 同じ二年の健太が、僕の肩を小突いた。


「お前が買うの?」

「外したら、お前が買う」

「何だよ、それ」


 笑いながら、水筒のふたを閉めた。


 氷はまだ残っていた。


 二試合目の途中だった。


 右側から切り込んできた健太に、僕は手を上げた。


 パスが来た。


 受け取ったときの、ボールのざらざらした感触は覚えている。


 相手の腕。白いユニフォーム。ゴールの下で場所を取ろうとする先輩。


 僕は一度、床にボールをついた。


 その次のことは、覚えていない。


     *


 僕が倒れたとき、健太は最初、足を滑らせたのだと思ったらしい。


「おい、何してんだよ」


 そう言いながら、取り返すつもりでボールを追いかけた。


 笛が鳴った。


 監督がコートに入ってきて、僕の名前を呼んだ。


 一度。


 もう一度。


 コーチが僕のそばに膝をついた。


 誰かが救急車を、と叫んだ。


 僕は返事をしなかった。


 目も開けなかった。


 息をしていなかった。


 心臓も、止まっていた。


 コーチは僕の胸の真ん中を、何度も、何度も押した。


 さっきまで走っていた僕の身体は、そのたびに少し揺れた。


 先日、取り付けられたばかりのAEDは保健室に設置されていた。


 保健室は、休日なので閉まっていた。


 会場の先生が鍵を取りに走った。


 廊下を走る足音が、何度も往復した。


 体育館では、コーチが僕の胸を押し続けていた。


 誰も、もう試合の話をしていなかった。


     *


 母さんの声がした。


「お母さん、ここにいるよ」


 それがいつだったのか、僕には分からない。


 目を開けることはできなかった。


 暗いのか、明るいのかも分からなかった。


 夢の中で、誰かが遠くのテレビをつけているようだった。声のする方へ行こうとしても、自分の身体がどこにあるのかさえ、分からなかった。


「聞こえる?」


 母さんが尋ねた。


 聞こえるよ。


 そう答えようとした。


 でも、唇も舌も、何一つ動かせなかった。


 もう一度、強く思った。


 聞こえてる。


 母さん、聞こえてるよ。


 ピッ、ピッ、ピッ。


 近くで鳴っていた機械の音が、少しだけ速くなった。


 母さんが息をのんだ。


 僕につながれた機械の画面で、波形が幾度か大きく跳ねた。


「……今」


 椅子の動く音がした。


「今、分かったの?」


 僕は、もう一度返事をしようとした。


 うん。


 ここにいるよ。


 波形が、また跳ねた。


 母さんの手が、僕の手を包んだ。


 よく知っている手だった。


 小さい頃、駐車場でつないだ手。


 熱を出した夜に、額に触れた手。


 最近は、触られると少し恥ずかしくて、さりげなく避けるようになっていた手。


 その手が、うれしかった。


 目を開けられなくても、母さんがそばにいると分かった。


 ピッ、ピッ。


「お母さん、分かる?」


 分かるよ。


 分かるに決まってるじゃん。


 画面の線が跳ねるたび、母さんの指に力がこもった。


 僕は握り返そうとした。


 でも、そちらは、どうしても動かなかった。


     *


 父さんは、話す前に必ず一度、喉を鳴らした。


「学校には連絡したから」


 少し間があった。


「宿題のことは、気にしなくていい」


 夏休みの宿題は、ほとんど残っていた。


 読書感想文も、数学の問題集も。


 気にしなくていいと言われたのは、初めてだった。


「部活もな。先生が、待ってるって」


 父さんはそこで黙った。


 家では、僕の顔を見ると姿勢だの風呂だの、何かしら注意する人だった。食事中に肘をつくな。ゲームばかりするな。脱いだ靴はそろえろ。


 その父さんが、何も言わずに僕のそばにいた。


 椅子のきしむ音だけがした。


 やがて、ごく小さな声で、


「起きろよ」


 と言った。


 それは命令のようには聞こえなかった。


 起きたいよ。


 父さん、僕だって起きたい。


 言いたくて、何度も、何度も、同じ言葉を胸の中で繰り返した。


 ピッ、ピッ、ピッ。


 波形が跳ねた。


 父さんが椅子から身体を起こした気配がした。


「……そうか」


 しばらくして、僕の頭に手が置かれた。


「そうか。聞いてるんだな」


 大きな手だった。


 もう何年も、こんなふうに撫でてもらったことはなかった。


 僕は少し恥ずかしくて、でも、うれしかった。


 画面の線が、また大きく跳ねた。


 父さんの手は、そのまま動かなくなった。


     *


 妹は、病室に入っても、しばらく何も言わなかった。


 まだ小学四年生で、僕の部屋に勝手に入っては漫画を持っていく。


 最後に話したときも、返せ、返さない、で喧嘩をした。


「お兄ちゃん」


 ベッドの足元の方から、声がした。


「漫画、戻したよ」


 返事を待つ間があった。


「ちゃんと、順番どおりに」


 いつもなら、僕は確かめに行ったと思う。


 七巻と八巻が逆だとか、帯を折るなとか、どうでもいいことを言ったと思う。


「だから、怒らなくていいよ」


 妹の声が小さくなった。


「もう、勝手に持っていかないから」


 怒ってないよ。


 もう怒ってない。


 貸してやるから。


 好きなだけ、読んでいいから。


 ピッ、ピッ。


 機械が鳴った。


 母さんが妹を呼んだ。


「こっちにおいで」


 小さな手が、おそるおそる僕の指に触れた。


「お兄ちゃん?」


 うん。


「……聞こえてる?」


 聞こえてるよ。


 波形が跳ねた。


 妹は何も言わなくなった。


 ただ、僕の指先をつかんだ。


 帰る時間になっても、その指は、なかなか離れなかった。


     *


 チームのみんなが来た日には、病室の空気が少し変わった。


 慣れない場所で、声の大きさを決められずにいるのが分かった。


「失礼します」


 監督の声だった。


 靴が床をこする音がした。


 何人もいるのに、体育館よりずっと静かだった。


「おい」


 健太が言った。


「寝すぎ」


 少しだけ、誰かが笑った。


 僕も笑おうとした。


 来たんだ。


 みんな、来てくれたんだ。


 うれしかった。


 ピッ、ピッ、ピッ。


「あ」


 母さんが小さく声を上げた。


 画面の線が跳ねていた。


「今、みんなが来たの、分かったのかしら」


 ベッドを囲む気配が近くなった。


「おい。聞こえてんの?」


 健太の声も近づいた。


「次の練習試合、お前いないと、二年の控え俺一人になるんだけど」


 いつもの調子だった。


 そうしようとしているのが、分かった。


「あとさ、先輩が新しいフォーメーション覚えろって。お前の分もプリント持ってきた」


 紙を置く音がした。


「だから、早く元気になってさ」


 そこで、健太は息を吸った。


「またバスケしようぜ」


 僕は返事をしたかった。


 うん、と。


 たったそれだけでよかった。


 またやろう。


 次は、ちゃんとシュートも決めるから。


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。


 波形が、さっきより大きく跳ねた。


「動いた」


 誰かが言った。


「今、すごく動いた」


 母さんの手が、強く僕の手を握った。


「聞こえてるのね」


 頬に何かが触れた。


 母さんの指だった。


「みんな、来てくれたよ。よかったね」


 声が濡れていた。


 うん。


 よかった。


 うれしいよ。


 僕がそう思うたび、機械が音を立て、画面の線が跳ねた。


 母さんが泣きながら笑った。


「ちゃんと、お返事してる」


 そうだよ。


 返事してるんだよ。


 今度こそ手も握り返そうとした。


 指一本でいい。


 親指でも、小指でも。


 それなのに、母さんの手の中で、僕の手は何も返さなかった。


     *


 監督は、帰る前に母さんと話していた。


 声を落としていたけれど、ときどき聞こえた。


 申し訳ありません。


 鍵が。


 私が、もっと。


 母さんは、何度も、はい、と言っていた。


 許すとも、許さないとも言わなかった。


 監督が帰ってから、母さんは長い間、黙っていた。


 廊下の向こうで、台車が通った。


 どこかの部屋で、テレビの笑い声がした。


「お母さんね」


 母さんが言った。


「まだ、あの水筒、洗えてないの」


 僕の指を一本ずつ、撫でていた。


「鞄も、そのまま」


 あの朝、僕が肩にかけていた鞄。


 汗を拭いたタオル。


 使いかけの制汗剤。


 母さんが入れた、小銭。


「洗ってあげなきゃって思うんだけど」


 息が震えた。


「帰ってきたら、自分で出しなさいって、また言いたくて」


 分かってる。


 僕は言いたかった。


 今度は、自分で出すよ。


 タオルも、洗濯機に入れるから。


 ピッ、ピッ。


 波形が跳ねた。


 母さんは、もう驚かなかった。


「うん」


 と、小さく答えた。


「待ってるからね」


     *


 やがて、声が遠くなることが増えた。


 すぐそばにいるはずなのに、何枚も壁を挟んでいるようだった。


 手の温かさだけが、残っている気がした。


 あるとき、先生が父さんと母さんを呼んだ。


 難しい言葉が続いた。


 その間、母さんは一度も口を挟まなかった。


 父さんが、何か質問した。


 先生が答えた。


 長い沈黙があった。


「家族を、呼んでもいいですか」


 父さんが言った。


 その声を聞いて、僕は怖くなった。


 何が起こっているのか、ちゃんとは分からなかった。


 でも、父さんの声は、もう僕の宿題を気にしていなかった。


 次の試合も。


 二学期も。


 そこから先の話を、誰もしなくなっていた。


     *


 妹が来た。


 祖母も来た。


 父さんが、母さんとは反対側から僕の手を握った。


 こんなふうに両親に手を握られたことが、前にもあっただろうか。


 小さかった頃には、あったのかもしれない。


「みんないるからね」


 母さんが言った。


 分かるよ。


 父さんも。


 妹も。


 ばあちゃんも、来てくれたんだ。


 会えてうれしかった。


 声が聞こえて、うれしかった。


 ピッ、ピッ。


 波形が跳ねた。


 母さんが僕の手を握り直した。


「うん。分かるのね」


 僕は、もっと返事をしたかった。


 みんなが話すたびに。


 僕の名前を呼ぶたびに。


 うん。


 聞いてる。


 ここにいる。


 波形が、そのたびに跳ねた。


 けれど、音と音の間が、少しずつ長くなっていった。


 母さんが、顔を近づけた。


「お母さん、ここよ」


 分かってる。


 母さんの手は、温かかった。


 あの朝と同じだった。


 僕は、帰りたいと思った。


 家に帰って、靴を脱いで、腹減った、と言いたかった。


 母さんが台所から顔を出して、手を洗ってきなさいと言う。


 僕は、分かってる、と答える。


 でも、今度はそのあとに、ちゃんと言おうと思った。


 夕飯、カレーがいい。


 ピッ。


 線が跳ねた。


「何か、言いたいの?」


 母さんが聞いた。


 うん。


 言いたい。


 まだ、いっぱいある。


 ピッ。


 父さんが僕の名前を呼んだ。


 妹が、泣きながら呼んだ。


 聞こえるよ。


 聞こえてるから。


 返事をしようと、強く思った。


 さっきよりも、もっと。


 母さんの手を握り返すつもりで。


 みんなに届くように。


 ピッ。


 画面の線が、一度、大きく跳ねた。


 そのあと、まっすぐになった。


     *


 先生が何かを告げたあとも、母親は手を離さなかった。


 父親はベッドの脇に立ったまま、息子の額に触れていた。


 妹は母親の服をつかんでいた。誰かが椅子を勧めても、首を振った。


 母親は、動かなくなった画面を見つめた。


「さっきまで」


 誰にともなく言った。


「さっきまで、返事してたんです」


 先生は黙って聞いていた。


「呼んだら、ああやって」


 母親は息子の手を持ち上げた。


 自分の頬に当て、もう一度、名前を呼んだ。


 画面の線は、跳ねなかった。


 病室の隅には、チームメイトが置いていったプリントがあった。


 コートをかたどった四角の中に、五つの丸と、いくつもの矢印が描かれていた。


 その一つに、鉛筆で名前が書き足してあった。


 健太の字だった。


 母親は、まだ温かさの残る手を両手で包んだ。


「夕飯、何がいい?」


 あの朝と同じように尋ねた。


 少し待ってから、また名前を呼んだ。




母さん。


 あの朝、何度も「分かってる」って言って、ごめん。


 水筒に氷を入れる音も、玄関まで追いかけてくる声も、毎日同じで、少しうるさいと思ってた。


 明日も聞けると思ってたから。


 父さん。


 頭を撫でてくれたとき、うれしかったよ。

 恥ずかしくて、いつもなら手をどけていたと思う。

 でも、あのときは、もっと撫でていてほしかった。


 健太。


 またバスケしようって言ってくれて、ありがとう。

 うんって、何度も答えたんだ。

 次の試合も、その次も、お前と一緒に走るつもりだった。


 妹へ。


 漫画、貸してやるよ。

 だから、あんなふうに謝らなくていい。

 読み終わったら、どこが面白かったか教えてほしかった。僕が先に話すと怒るから、今度は最後まで聞こうと思ってた。



 みんなが来てくれると、うれしかった。


 声が聞こえるたびに、返事をした。

 手に触れてもらうたびに、握り返そうとした。


 母さんが「ちゃんと、お返事してる」って言ってくれたときは、分かってもらえたんだと思った。


 だから、最後も届くと思った。


 母さん、夕飯はカレーがいい。


 いつもの、じゃがいもが大きいやつ。


 家に帰ったら、そう言いたかった。

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