返事のかわりに
いつかの夏の話
その朝、僕は母さんに怒った。
「分かってるって。もう中二なんだから」
台所で水筒に氷を詰めていた母さんは、はいはい、と少し笑った。
「足りなくなったら、ちゃんと買ってね。小銭、外のポケットに入れたから」
「分かってる」
「お昼も、試合の合間に食べるのよ」
「だから、分かってるって」
玄関で靴のかかとを踏みながら、背中で聞いていた。
母さんは、いつも同じことを言う。
水を飲め。ご飯を食べろ。気をつけて帰ってこい。
毎日言わなくたって、そんなことは知っていた。
「夕飯、何がいい?」
ドアを開けたところで聞かれた。
「何でも」
そう答えて、僕は家を出た。
*
練習試合の会場は、隣の学区の市立中学校だった。
四つの学校が集まっていた。入口には脱いだ靴が何列にも並び、体育館の隅には、それぞれの学校の鞄が山になっていた。
暑かった。
開け放した扉から風が入ると、床に貼られたテープの端がかすかに震えた。扉のそばに座っていた一年生が、ああ涼しい、と言った。
けれど、その風はコートの真ん中までは来なかった。
ボールの弾む音。
靴底の鳴る音。
誰かが叫ぶ、一本、という声。
いつもの夏休みだった。
「今日、三点一本決めたらジュースな」
同じ二年の健太が、僕の肩を小突いた。
「お前が買うの?」
「外したら、お前が買う」
「何だよ、それ」
笑いながら、水筒のふたを閉めた。
氷はまだ残っていた。
二試合目の途中だった。
右側から切り込んできた健太に、僕は手を上げた。
パスが来た。
受け取ったときの、ボールのざらざらした感触は覚えている。
相手の腕。白いユニフォーム。ゴールの下で場所を取ろうとする先輩。
僕は一度、床にボールをついた。
その次のことは、覚えていない。
*
僕が倒れたとき、健太は最初、足を滑らせたのだと思ったらしい。
「おい、何してんだよ」
そう言いながら、取り返すつもりでボールを追いかけた。
笛が鳴った。
監督がコートに入ってきて、僕の名前を呼んだ。
一度。
もう一度。
コーチが僕のそばに膝をついた。
誰かが救急車を、と叫んだ。
僕は返事をしなかった。
目も開けなかった。
息をしていなかった。
心臓も、止まっていた。
コーチは僕の胸の真ん中を、何度も、何度も押した。
さっきまで走っていた僕の身体は、そのたびに少し揺れた。
先日、取り付けられたばかりのAEDは保健室に設置されていた。
保健室は、休日なので閉まっていた。
会場の先生が鍵を取りに走った。
廊下を走る足音が、何度も往復した。
体育館では、コーチが僕の胸を押し続けていた。
誰も、もう試合の話をしていなかった。
*
母さんの声がした。
「お母さん、ここにいるよ」
それがいつだったのか、僕には分からない。
目を開けることはできなかった。
暗いのか、明るいのかも分からなかった。
夢の中で、誰かが遠くのテレビをつけているようだった。声のする方へ行こうとしても、自分の身体がどこにあるのかさえ、分からなかった。
「聞こえる?」
母さんが尋ねた。
聞こえるよ。
そう答えようとした。
でも、唇も舌も、何一つ動かせなかった。
もう一度、強く思った。
聞こえてる。
母さん、聞こえてるよ。
ピッ、ピッ、ピッ。
近くで鳴っていた機械の音が、少しだけ速くなった。
母さんが息をのんだ。
僕につながれた機械の画面で、波形が幾度か大きく跳ねた。
「……今」
椅子の動く音がした。
「今、分かったの?」
僕は、もう一度返事をしようとした。
うん。
ここにいるよ。
波形が、また跳ねた。
母さんの手が、僕の手を包んだ。
よく知っている手だった。
小さい頃、駐車場でつないだ手。
熱を出した夜に、額に触れた手。
最近は、触られると少し恥ずかしくて、さりげなく避けるようになっていた手。
その手が、うれしかった。
目を開けられなくても、母さんがそばにいると分かった。
ピッ、ピッ。
「お母さん、分かる?」
分かるよ。
分かるに決まってるじゃん。
画面の線が跳ねるたび、母さんの指に力がこもった。
僕は握り返そうとした。
でも、そちらは、どうしても動かなかった。
*
父さんは、話す前に必ず一度、喉を鳴らした。
「学校には連絡したから」
少し間があった。
「宿題のことは、気にしなくていい」
夏休みの宿題は、ほとんど残っていた。
読書感想文も、数学の問題集も。
気にしなくていいと言われたのは、初めてだった。
「部活もな。先生が、待ってるって」
父さんはそこで黙った。
家では、僕の顔を見ると姿勢だの風呂だの、何かしら注意する人だった。食事中に肘をつくな。ゲームばかりするな。脱いだ靴はそろえろ。
その父さんが、何も言わずに僕のそばにいた。
椅子のきしむ音だけがした。
やがて、ごく小さな声で、
「起きろよ」
と言った。
それは命令のようには聞こえなかった。
起きたいよ。
父さん、僕だって起きたい。
言いたくて、何度も、何度も、同じ言葉を胸の中で繰り返した。
ピッ、ピッ、ピッ。
波形が跳ねた。
父さんが椅子から身体を起こした気配がした。
「……そうか」
しばらくして、僕の頭に手が置かれた。
「そうか。聞いてるんだな」
大きな手だった。
もう何年も、こんなふうに撫でてもらったことはなかった。
僕は少し恥ずかしくて、でも、うれしかった。
画面の線が、また大きく跳ねた。
父さんの手は、そのまま動かなくなった。
*
妹は、病室に入っても、しばらく何も言わなかった。
まだ小学四年生で、僕の部屋に勝手に入っては漫画を持っていく。
最後に話したときも、返せ、返さない、で喧嘩をした。
「お兄ちゃん」
ベッドの足元の方から、声がした。
「漫画、戻したよ」
返事を待つ間があった。
「ちゃんと、順番どおりに」
いつもなら、僕は確かめに行ったと思う。
七巻と八巻が逆だとか、帯を折るなとか、どうでもいいことを言ったと思う。
「だから、怒らなくていいよ」
妹の声が小さくなった。
「もう、勝手に持っていかないから」
怒ってないよ。
もう怒ってない。
貸してやるから。
好きなだけ、読んでいいから。
ピッ、ピッ。
機械が鳴った。
母さんが妹を呼んだ。
「こっちにおいで」
小さな手が、おそるおそる僕の指に触れた。
「お兄ちゃん?」
うん。
「……聞こえてる?」
聞こえてるよ。
波形が跳ねた。
妹は何も言わなくなった。
ただ、僕の指先をつかんだ。
帰る時間になっても、その指は、なかなか離れなかった。
*
チームのみんなが来た日には、病室の空気が少し変わった。
慣れない場所で、声の大きさを決められずにいるのが分かった。
「失礼します」
監督の声だった。
靴が床をこする音がした。
何人もいるのに、体育館よりずっと静かだった。
「おい」
健太が言った。
「寝すぎ」
少しだけ、誰かが笑った。
僕も笑おうとした。
来たんだ。
みんな、来てくれたんだ。
うれしかった。
ピッ、ピッ、ピッ。
「あ」
母さんが小さく声を上げた。
画面の線が跳ねていた。
「今、みんなが来たの、分かったのかしら」
ベッドを囲む気配が近くなった。
「おい。聞こえてんの?」
健太の声も近づいた。
「次の練習試合、お前いないと、二年の控え俺一人になるんだけど」
いつもの調子だった。
そうしようとしているのが、分かった。
「あとさ、先輩が新しいフォーメーション覚えろって。お前の分もプリント持ってきた」
紙を置く音がした。
「だから、早く元気になってさ」
そこで、健太は息を吸った。
「またバスケしようぜ」
僕は返事をしたかった。
うん、と。
たったそれだけでよかった。
またやろう。
次は、ちゃんとシュートも決めるから。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
波形が、さっきより大きく跳ねた。
「動いた」
誰かが言った。
「今、すごく動いた」
母さんの手が、強く僕の手を握った。
「聞こえてるのね」
頬に何かが触れた。
母さんの指だった。
「みんな、来てくれたよ。よかったね」
声が濡れていた。
うん。
よかった。
うれしいよ。
僕がそう思うたび、機械が音を立て、画面の線が跳ねた。
母さんが泣きながら笑った。
「ちゃんと、お返事してる」
そうだよ。
返事してるんだよ。
今度こそ手も握り返そうとした。
指一本でいい。
親指でも、小指でも。
それなのに、母さんの手の中で、僕の手は何も返さなかった。
*
監督は、帰る前に母さんと話していた。
声を落としていたけれど、ときどき聞こえた。
申し訳ありません。
鍵が。
私が、もっと。
母さんは、何度も、はい、と言っていた。
許すとも、許さないとも言わなかった。
監督が帰ってから、母さんは長い間、黙っていた。
廊下の向こうで、台車が通った。
どこかの部屋で、テレビの笑い声がした。
「お母さんね」
母さんが言った。
「まだ、あの水筒、洗えてないの」
僕の指を一本ずつ、撫でていた。
「鞄も、そのまま」
あの朝、僕が肩にかけていた鞄。
汗を拭いたタオル。
使いかけの制汗剤。
母さんが入れた、小銭。
「洗ってあげなきゃって思うんだけど」
息が震えた。
「帰ってきたら、自分で出しなさいって、また言いたくて」
分かってる。
僕は言いたかった。
今度は、自分で出すよ。
タオルも、洗濯機に入れるから。
ピッ、ピッ。
波形が跳ねた。
母さんは、もう驚かなかった。
「うん」
と、小さく答えた。
「待ってるからね」
*
やがて、声が遠くなることが増えた。
すぐそばにいるはずなのに、何枚も壁を挟んでいるようだった。
手の温かさだけが、残っている気がした。
あるとき、先生が父さんと母さんを呼んだ。
難しい言葉が続いた。
その間、母さんは一度も口を挟まなかった。
父さんが、何か質問した。
先生が答えた。
長い沈黙があった。
「家族を、呼んでもいいですか」
父さんが言った。
その声を聞いて、僕は怖くなった。
何が起こっているのか、ちゃんとは分からなかった。
でも、父さんの声は、もう僕の宿題を気にしていなかった。
次の試合も。
二学期も。
そこから先の話を、誰もしなくなっていた。
*
妹が来た。
祖母も来た。
父さんが、母さんとは反対側から僕の手を握った。
こんなふうに両親に手を握られたことが、前にもあっただろうか。
小さかった頃には、あったのかもしれない。
「みんないるからね」
母さんが言った。
分かるよ。
父さんも。
妹も。
ばあちゃんも、来てくれたんだ。
会えてうれしかった。
声が聞こえて、うれしかった。
ピッ、ピッ。
波形が跳ねた。
母さんが僕の手を握り直した。
「うん。分かるのね」
僕は、もっと返事をしたかった。
みんなが話すたびに。
僕の名前を呼ぶたびに。
うん。
聞いてる。
ここにいる。
波形が、そのたびに跳ねた。
けれど、音と音の間が、少しずつ長くなっていった。
母さんが、顔を近づけた。
「お母さん、ここよ」
分かってる。
母さんの手は、温かかった。
あの朝と同じだった。
僕は、帰りたいと思った。
家に帰って、靴を脱いで、腹減った、と言いたかった。
母さんが台所から顔を出して、手を洗ってきなさいと言う。
僕は、分かってる、と答える。
でも、今度はそのあとに、ちゃんと言おうと思った。
夕飯、カレーがいい。
ピッ。
線が跳ねた。
「何か、言いたいの?」
母さんが聞いた。
うん。
言いたい。
まだ、いっぱいある。
ピッ。
父さんが僕の名前を呼んだ。
妹が、泣きながら呼んだ。
聞こえるよ。
聞こえてるから。
返事をしようと、強く思った。
さっきよりも、もっと。
母さんの手を握り返すつもりで。
みんなに届くように。
ピッ。
画面の線が、一度、大きく跳ねた。
そのあと、まっすぐになった。
*
先生が何かを告げたあとも、母親は手を離さなかった。
父親はベッドの脇に立ったまま、息子の額に触れていた。
妹は母親の服をつかんでいた。誰かが椅子を勧めても、首を振った。
母親は、動かなくなった画面を見つめた。
「さっきまで」
誰にともなく言った。
「さっきまで、返事してたんです」
先生は黙って聞いていた。
「呼んだら、ああやって」
母親は息子の手を持ち上げた。
自分の頬に当て、もう一度、名前を呼んだ。
画面の線は、跳ねなかった。
病室の隅には、チームメイトが置いていったプリントがあった。
コートをかたどった四角の中に、五つの丸と、いくつもの矢印が描かれていた。
その一つに、鉛筆で名前が書き足してあった。
健太の字だった。
母親は、まだ温かさの残る手を両手で包んだ。
「夕飯、何がいい?」
あの朝と同じように尋ねた。
少し待ってから、また名前を呼んだ。
母さん。
あの朝、何度も「分かってる」って言って、ごめん。
水筒に氷を入れる音も、玄関まで追いかけてくる声も、毎日同じで、少しうるさいと思ってた。
明日も聞けると思ってたから。
父さん。
頭を撫でてくれたとき、うれしかったよ。
恥ずかしくて、いつもなら手をどけていたと思う。
でも、あのときは、もっと撫でていてほしかった。
健太。
またバスケしようって言ってくれて、ありがとう。
うんって、何度も答えたんだ。
次の試合も、その次も、お前と一緒に走るつもりだった。
妹へ。
漫画、貸してやるよ。
だから、あんなふうに謝らなくていい。
読み終わったら、どこが面白かったか教えてほしかった。僕が先に話すと怒るから、今度は最後まで聞こうと思ってた。
みんなが来てくれると、うれしかった。
声が聞こえるたびに、返事をした。
手に触れてもらうたびに、握り返そうとした。
母さんが「ちゃんと、お返事してる」って言ってくれたときは、分かってもらえたんだと思った。
だから、最後も届くと思った。
母さん、夕飯はカレーがいい。
いつもの、じゃがいもが大きいやつ。
家に帰ったら、そう言いたかった。




