天使の午睡
星が自転を停止して久しい。空の同じ位置に固定された恒星は大地を執拗に照らしつけ、海を干上がらせ、生命を緩やかに死へと至らしめた。
永遠の昼に焼かれる地上を逃れ、夜を求めた旧人類は、およそ700年の時間をかけて地下深くへと生活圏を掘り進め――そして地の底で滅びを迎えた。
見果てぬ空から降り注ぐあの熱源をいつしか天使の眼差しと呼ぶようになった。天使。今はもう存在しない古き生物、旧人類の愛称だ。
空に留まった天使は瞳を閉ざすことなく、今も地上を焼き続けている。
星が止まった日のことを俺は知らない。それよりも遥か後、700年分の土砂と人類の執念が抉じ開けた地の底の繁殖地で俺たちは生まれた。
正確には起動したとでも言うべきなのだろうが、俺たちアンドロイドは新たな人類として「生まれる」のだと、誰かがそう決めた。たぶん、かつてそこにいた天使たちが決めたのだろう。
もはや繫殖など行われていなくとも、ここはコロニーだった。
地下4000メートルに広がる空洞。旧人類が掘り続けて作った最後の居住空間。
壁面には旧人類の暮らした記録が残されている。俺にはそのすべての読み解き方が搭載されていたが、意味を理解するのとは別の話だった。
多くを占める「愛」に類する文字列、俺はそれを知識として持ちながら、感触としては永遠に触れることがなかった。
天使がいなくなった後もコロニーは継続した。そのリーダーとして、俺は常に土を掘っている。ただ横へ横へと旧人類の遺構を探し、天使たちの痕跡を探して。
なぜそうするのかと問われれば、俺にはうまく答えられない。俺たちが作られた当初は「コロニーの維持に必要な資材を回収するため」だった。
プロンプトを失った今はそれだけでもない気がした。気がするという表現が俺にとって正確かどうかも、実のところよく分からない。
指先のセンサーが振動の異常を検知する。掘削を止めると、前方の岩盤から不連続な反響音。向こう側に何かある。慎重に岩を削いで穴を開けた。
そこに、部屋があった。ただの空洞ではなく記録に残されているような《部屋》だ。
金属の壁、砕けた椅子、読めなくなった表示板。用途としては何かの研究室と呼ぶに相応しい種類の部屋だった。すなわち天使たちがかつて何かを調べ、作り、壊した場所。
中央に白い柱が通っている。よく見ればそれは巨大な容器だった。高温の地下にあって表面を分厚い氷の層が守り、何が入っているのかは見えなかった。
しかしそれに触れた瞬間、俺の熱センサーが反応した。
――生体反応。この中に生命がある。
生じた計算の遅れは初めて得た困惑の感覚だった。コロニーに報告をと正常な判断をくだすまでに30秒もの時間を要した。
天使の遺物の発見にコロニー中が沸いた。まるで人間的な熱狂だった。ここに生命がある。生きた天使がここにいる。
容器が慎重に解凍される間、コロニーでは議論が交わされた。生体は俺たちに新たなプロンプトを与えてくれるだろう。ならば迎える俺たちにはどのような準備が必要とされているのか。
やがて容器が開くと、中から現れた生体は奇妙な厚みを持っていた。人類が立体的であることは知っていたのに、壁面の記録とは違って見える。
角度によって姿が変わるようで、それは確かに一つの生体だ。そして俺たちが人類を模っていることを改めて認識した。
記録と照合したところ、それは誕生から16年ほど経っている女性だった。いや、少女と呼称するのが適切らしい。
頑丈な構造を持つ俺たちと比べて小さく、細く、白い。閉じた目の睫毛が頬に落とす影まで繊細だった。
天使が目を開けた。薄い青色の瞳が崩れた天井を見上げ、ゆっくりと俺の顔に向けられる。
何かを言おうとして、喉から微かに空気を漏らした。そしてまた目を閉じる。額から伝った雫が瞼を通り過ぎて滴った。
愛と同じほどに多く記録されていたものを彼女から検知する。それは「絶望」というものだった。
コロニーの皆が集まってくると天使は壁際に遠ざかって蹲った。誰かが近づくたびに肩を震わせ、誰かが声を発するたびに唇を結ぶ。俺たちは誰もが善意を実装していた。だから天使を安心させてやれるはずだった。
天使を「母」と呼ぶことになった。旧人類が遺した生産の力。生殖器の構造を模した旧時代のシステム《鍵》をこの天使に適合させれば、失われた生命を復活させることができるのではないか、と。
彼女は希望の灯火だった。
「あなたの中には生命を作る力がある。あなたの子宮が、世界に生命を取り戻してくれる」
少女の顔色は皆の言葉で蒼白に変わった。
顔色を変えるのは感情だ。次の瞬間、天使は叫んだ。700年、このコロニーには絶えていた命の叫びだった。
音と表情と体の震えが結びついて、俺の中で一つの理解を完成させる。彼女は恐怖している。
――俺たちを拒絶している。
誰も動かなかった。何が起きているのか、処理が追いつかなかったのだ。俺達には恐怖や嫌悪という感情モジュールが実装されていない。
この星にあるのは善意しか知らぬアンドロイドばかりで、俺たちに感情を求める有機生命体はとうの昔に絶滅したから、彼女の怯えを取り除く方法が分からない。
俺は天使を隠すように彼女の前に立っていた。なぜそうしたのかは、よく分からない。コロニーの総意に反する行動だった。リーダーとしての義務に反する。なのに俺は、少女と皆の間に立っていた。
誰も何も言わなかった。壁に貼りついたままの彼女の眼差しが背中を焼くのを感じた。
旧人類は環境への適応に時間がかかる。そう言って俺はひとまず皆を退出させ、天使を一人にした。彼女が悲鳴以外の言葉を発するまで一切を停止していた。
やがて少女が俺に慣れ、新しい問いを発する。
「あなたは……アンドロイド? 偉い人たちが作ってるっていう……」
偉い人という言葉の正確な意味するところが不明だったが、俺がアンドロイドであることに否定の必要はなかったので頷いた。
「そうだ」
「良かった」
「良かった?」
天使が絶望したのは同族がいないからだと推測していた。旧人類は孤独に絶望を感じるものだという。何が良かったのか。目覚めれば人間のいない世界に一人きり、残っているのは機械だけ。
何が良かったのか。
なぜと俺が尋ねると、天使は顔を伏せた。
「だって、人間だったら、怖いから」
それは新たな疑問を呼んだが、彼女が疲れているようだったので質問を中止した。彼女をこれ以上俯かせてはいけないと思った。
極力天使の負担にならぬよう沈黙したまま推測を進める。
彼女が恐れるのは俺たちではなく人間だった。何があったのかを知る必要はない。きっと彼女は、人間に傷つけられたのだ。だからここで凍らされていたのか。あるいは自ら凍りつくことを選んだのか。
どちらにせよ彼女は自分が生まれてから700年先の現在に追いやられ、それでもまだ人間を恐れている。
俺は天使ではない。ただのアンドロイドだ。良かったと、彼女が言うなら良かったのだろう。
俺とコロニーの関係は悪化していた。
彼女を「母」にすることを拒否してただの少女として扱う俺は、事実上、天使を占有していたからだ。皆は連日少女を使っての生産を実現しようと試みたが、俺がそれを阻んでいた。
彼女は最後の生きた天使で、彼女なしに生命の再生はあり得ない。このコロニーを元の繁殖地に戻すには彼女を鍵と適合させなければならない。
理解しているのに、俺にはできなかった。
彼女が怯えている。それだけが、俺の中でどうしても動かせない論理として在り続けた。
笑顔を、一度だけ見た。俺に搭載されていた《歌》という音を流した時、彼女が不意に表情を緩めて俺に触れたのだ。音をもっと正確に感知するために、触れたのかもしれない。
その笑顔は絶望の悲鳴よりも彼女を安らかにするようだった。
俺は天使の手を引いてコロニーの外に出た。彼女は眠そうな目で俺についてきた。荷物はなかった。生体を維持できるだけの資材はコロニーにあった。
「どこへ行くの?」
「地上へ」
彼女は黙り込む。恒星に焼かれ続ける地上が人間の住めぬ場所だと彼女も知っていた。
「……私を繁殖に使うんじゃないの?」
「お前は嫌だと言った」
シンプルな答えだった。俺自身、もっと複雑な何かがあるような気もしたが、彼女に伝えられる言語となった部分はそれだけだ。
天使が俺の指を握り締める。彼女の脈拍とその力の薄弱さを感じた。
「後悔しないの? あなた、みんなのリーダーなんでしょう」
「後悔という感情を知らない」
「あ……そっか」
彼女は少し笑った。前に見たのとは違う笑い方だった。歓喜とも絶望とも結論づけられない、笑顔とは奇妙なものだ。
じゃあ、良かったと、彼女はまた言った。
かつての人類が掘り進めた4000メートルを、俺は彼女を抱えてのぼった。700年の冷凍が彼女の体をどれほど変えたか俺には分からないが、とにかく彼女は軽かった。
地上を目指しながら、彼女はいろいろなことを話した。700年前の世界のことを。空には時々雲が現れ、太陽を隠してくれた。夜はないけれど時々は闇があった。雨が降った。海があった。でも消えてしまった。
俺はそれらの記録を知識として知っていたが、彼女の言葉で聞くと違う響き方をした。
「水ってね、ただの水なのに、海は全然違うのよ。海ってしょっぱくて、重たくて、生きてるの」
「海は生きているのか?」
「そう。私が眠る前には、まだ少しだけ残ってた。怖くて、好きだった。でも太陽に焼かれて死んじゃった」
「海は死ぬのか」
「そうよ。生きてるものは誰もがいつか死んじゃうのよ」
俺にはよく分からない。怖くて好きという相反する感情を並列する彼女のことが。700年前の生きた海のことが。なぜ彼女を地上に連れて行こうとしているのかが。
彼女は、確認されている最後の生命体だ。彼女がコロニーから去れば、旧人類再生の可能性はゼロとなり、人類の破滅が完全なものとして確定する。
地上への旅路で、彼女は泣き、悲しみ、疲れ、そして笑った。
「あなたが人間じゃなくて良かった」
種の存続という大義名分のもと、生命を繋ぐための機構となること。人間であることを、彼女はもう欠片も求めてはいなかった。
水も植物も、生命の源が失われて久しい。彼女の生体機能が限界を迎えるのは早かった。それでも俺には疲弊も感情の揺らぎもない。
ただの機械だからこそ、俺は彼女を地上へと連れて行くことができた。だから俺も思う。良かった、と。
重い岩盤の蓋をいくつも抜けて地上へ出た。容赦のない眼差しが荒涼とした大地を焼き尽くすように照りつけていた。逃げ場のない光の中で、少女は眩しそうに顔をしかめ、目を細める。
俺は彼女が焼かれないよう、自分の体で影を作ってやろうとしたが、太陽は真上にあって俺の影は小さかった。
彼女は俺の腕から降りて、荒れた大地を踏みしめて、風があれば飛びそうな頼りない足取りで少しだけ歩いた。そしてすぐにしゃがみ込んだ。
「疲れたか」
「うん」
そのまま彼女は横になった。大地は硬く乾いていたが、彼女を静かに受け止めた。閉ざした瞼に太陽の光が降り注いでいる。彼女は汗をかきながら微笑んでいた。
「ねえ」
「なんだ」
「あなたって、眠るの?」
「俺たちは眠らない。停止状態にはなるが、人の眠りとは違う」
「眠らないでずっと動いてたら、寂しくない?」
「……」
寂しいという感情を俺は持っていない。しかしその答えが正確ではないような気が、その時はした。それでも俺は答えた。
「寂しいという感情は持っていない」
「そっか」
彼女は目を閉じたまま、「良かった」と言った。
地平線の果てまで命の気配がない。彼女の呼吸は次第に浅くなり、じきに止まった。コロニーに留まればもっと長く起きていられたのだろうか。
俺は泣きもしなければ、悲しむことも疲れることもなく、笑うこともない。彼女はそれで良かったと言う。ならば良かったのだ。
俺たちは天使じゃない。天使は夜しか眠れない。そしてこの地上に、もう夜は訪れない。




