第3話 自由を望む
「の……乗れるの!? 本当に!?」
私は、手にしていた鉛筆を危うく投げ出すところだった。
ロウの言葉が鼓膜を震わせた瞬間、脳内のキャンバスにまだ見ぬ巨大な船の輪郭が、刃物のような鮮烈さで立ち上がった。
「私、船って一度も乗ったことがなくて! あの計算され尽くした技術の塊、緻密なロープワーク、海風に耐えるための幾何学的な曲線……! 近くで見て、描いて、その構造を理解してみたかったんだ!」
身を乗り出してまくしたてる私に、ロウは少しだけ気圧されたように、ふさふさとした耳を後ろに倒した。翡翠色の瞳が、驚きと、それから場違いなほど純粋な感興に細められる。
「待て待て待て、エディ! 落ち着きなさい!」
熱狂にブレーキをかけたのは、カウンターの向こうで青い顔をしている店主だった。
この酒場は、私の「飼い主」が資金援助をしている場所だ。「飼い主」が店主を信頼しているが故、私は彼の許可を取らずともこの店になら足を運ぶことを許されている。
つまるところ、店主の熊獣人はこの場における「エディの飼い主代理」としての責任がある。
「船長さん、冗談が過ぎるぜ! この子はただの世間知らずな人間なんだ。あんたたちの殺伐とした船なんかに、行かせられるか。……もしあの御方に知られたら、俺の首が飛ぶ!」
「……私のわがままなんだから、おじさんの首は飛ばないよ。それに海賊船なんて、夢があるじゃん」
「人間は黙ってろ! あの御方に保護されている立場を弁えろ! この下等生物が!」
店主の低い唸り声が、威圧感を持って迫る。
だが、私は引かなかった。
「うるさいな、勝手に人間を飼い殺してんのは獣人族だろ! 自由を望んで何が悪い!」
止められるほど、胸の内の火が強く燃える。首に巻かれたレザーの首輪が、一瞬、呼吸を止めるほどきつく感じた。
私は店主の声を肩越しに振り切り、すでに席を立っていたロウの背を追った。
ロウは、店主や呆れ顔の部下たちを片手で追い払うような仕草をして、不敵に牙を覗かせた。
「安心しな、店主。俺の目の届く範囲で、この画家の好奇心を満足させてやるだけだ。……夜明け前にはちゃんと帰すさ」
止める声を背中で聞き流し、私たちは夜の街へと踏み出した。
◇
酒場の喧騒を抜けると、そこには銀色の月光が支配する静寂があった。
石畳の路地はひんやりと冷たく、昼間の熱をすっかり失っている。獣人たちの夜目に合わせたこの街の夜は、人間にとってはあまりに暗く、足元が覚束ない。
私はロウの少し後ろを、弾むような足取りでついていった。
けれど、男の歩幅は、想像以上に大きかった。獣人特有の強靭な脚力は、ただ歩くだけでも、人間の全力疾走に近い速度を生む。
(……早すぎる。この人、私の存在を忘れてない?)
三歩歩いて、ようやく彼の一歩分。カツ、カツ、と一定のリズムで遠ざかっていくロウの大きな背中を追い、私は必死に小走りで距離を詰める。息が上がり始め、肺が冷たい夜気を吸い込んだその時。
前を行く大きな影が、不意に止まった。振り返ったロウが、追いつこうと必死な私の姿を捉え、露骨に顔を顰める。
「……チッ、遅ぇんだよ、チビ助」
「走り、っ……走ってるだろ! あんたの身体能力が、規格外すぎるだけだ!」
文句を言おうとした瞬間だった。視界がぐらりと揺れ、身体が宙に浮く。
「え、ちょっと……っ!?」
抗議の言葉は、彼の太い腕の中に飲み込まれた。ロウは何の躊躇もなく、私の身体をひょいと抱え上げたのだ。まるで、拾い上げた子猫でも運ぶような無造作な抱き方。
「お、降ろして! 歩けるってば!」
「嘘をつけ。そのままじゃ夜が明ける。黙って運ばれてろ。……お前、羽毛みたいに軽いな。ちゃんと食ってんのか?」
「食べてるよ! この…筋肉ダルマ! 老け顔! ……っ、離してよ!」
「うるせぇ。舌を噛んでも知らねぇぞ」
暴れる私を、彼は岩のような腕でがっちりと固定する。密着した胸板から、ドク、ドクと一定の、力強い鼓動が伝わってくる。潮の香りと、焦げた煙草。
そして、人間より少し高い、獣人特有の熱い体温。
さっきまでの威勢が、急に自分の喉に引っかかった。耳の裏が、じわりと熱くなる。私は結局、言葉を引っ込めて黙るしかなかった。
◇
港の最深部。他の船を寄せ付けない圧倒的なオーラを放つ一画で、ロウは足を止めた。
「着いたぞ。……これが俺たちの船だ」
ゆっくりと地面に降ろされる。
足裏が石畳を確かめる前に、私はその光景に呼吸を奪われた。
夜空を反射させた黒い海に浮かぶ、武骨な鋼鉄の巨獣。
月の光を浴びて鈍く光る船体は、飼い主の王宮から眺めてきた、装飾過多な観賞用の船とはまるで違う。
見せるためじゃない。飾るためじゃない。
戦うため。奪うため。そして――獣人たちが支配するこの残酷な世界で、自由を貫き通すためだけに研ぎ澄まされた、圧倒的な機能美。
「……綺麗」
唇から、勝手に吐息がこぼれた。
胸の奥が、ぐっと引かれる。これは今まで描いてきたどんな風景よりも凛々しくて――そして、金の鳥籠の中にいた私の心を、一番乱暴に揺さぶる形をしていた。
自由という名の、牙の形。




