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第2話 お前の世界を

 視界が、射抜かれた。


 固まった指先から鉛筆が転がり落ちそうになるのを、かろうじて堪える。紙に置いたままの手が、まるで他人のものみたいに言うことをきかない。私はゆっくり、震える視線をスケッチブックから持ち上げた。


 真っ先に目に飛び込んできたのは、酒場の淀んだ琥珀色を、いっそ乱暴に塗り潰してしまうほど鮮烈な、エメラルドグリーン。


 南方の深い海が、そのまま宝石に姿を変えたみたいな翡翠色だった。獣人特有の鋭い縦長の瞳孔が、私の動揺をなぞるように細く、鋭く収縮する。


 覗き込んだ瞬間、私はその色彩の暴力に押し倒されるように口走っていた。


「……おじさん、綺麗な目の色だね」


 言葉が、静まり返っていた酒場に波紋みたいに広がった。


 次の瞬間、張りつめていた糸がぷつんと切れるように、背後の荒くれ者たちが爆発したような笑い声を上げた。店内のあちこちで、興奮した獣人たちの尻尾がバタバタと椅子や床を叩く、重い音が響く。


「ぶふっ! おい聞いたか! 船長、おじさんだってよ!」

「確かに老け顔だけどよぉ!!」

「エディ! そういう時は『お兄さん』って言ってやるのが婦女子の嗜みだぞ!」


 ドッと湧き上がる笑い声に、私の隣に座った狼の獣人の男はいかにも面倒そうに、耳を伏せて長い溜息をついた。


 男は、潮風に当てられてパサついた長い髪を無造作に掻き上げる。その隙間から覗く、三角形の耳がいら立ちを隠そうともせずにピクリと動いた。


「……誰がおじさんだ。この、クソガキ」


「ひゃいっ……!?」


 不意に伸びてきた大きな手が、私の頬をごにっと不躾に抓りあげる。獣人特有の、硬くざらついた指の腹。


 痛い、と身構えたが、予想に反してその力は驚くほどに繊細だった。鋭い爪の先が肌をかすめ、壊さないように配慮された絶妙な加減。指先から伝わる体温は、人間よりもずっと高く、熱いくらいに肌を焼いた。


「お兄さんって言え。復唱しろ」


「おいいひゃん……」


「よし」


 満足そうに指を離すと、彼はカウンターに置かれた重たいジョッキ樽を、その大きな掌で軽々と掴んだ。私が大事に啜っている薄い果実酒とは対照的に、山盛りの泡を纏ったビールを、喉を鳴らして豪快に流し込んでいく。


「ガキが酒なんか飲んでんじゃねぇ。そんなジュースみたいなもん飲んで、いつまで起きてるつもりだ」


「ガキじゃない。これでもちゃんと成人してる。……っていうか、お兄さんこそ、その貫録で何歳なのよ。三十? 四十?」


「嬢ちゃん、そいつその顔でまだ二十代だぞ!」


 野次馬の言葉に、私は思わず男を二度見した。

 確かに近くで見れば肌に張りはあるが、纏っている空気の密度が違いすぎる。座っていても分かる岩のような体躯、服の隙間から覗く強靭な首筋。


「……二十代? 嘘だろ、絶対サバ読んでる」


「おい。今すぐその減らず口を、俺の爪で縫い合わせてやろうか」


「事実を言ったまでだ。私は正直なのが取り柄なんだ。ちなみに私も二十代。お兄さんと同じだね」


「はっ、笑わせるな。その背丈でか?」


 彼は鼻を鳴らし、私の首元――白虎の紋章が刻まれたレザーの首輪を隠すこともせず、じろりと舐めるように見下ろした。


 狼特有の鋭い嗅覚が、私の体温や、恐怖混じりの拍動を読み取っているのがわかる。視線が触れたところだけ、皮膚がぞわりとする。私はむっとして、守りたいものを抱きしめるみたいに、手元のスケッチブックを抱え込んだ。


「これでもこの国一番の画家なんだけど!」


「へェ。画家、ねぇ……」


 翡翠の瞳が、ふと私の手元――広げられたままのスケッチに落ちた。


 そこには、昨日の夕暮れに描いた波のうねりがある。今にも牙を剥きそうで、それでもまだ夕陽の優しさが縁に残っている――あの境目。


 ふいに、彼から発せられていた荒々しいプレッシャーが霧散した。


「……海、好きなのか」


 その声から、先ほどまでのふざけた色が消えていた。胸の奥で低く響くような、狼の唸り声に近い、静かな問いかけ。


「海も好きだよ。綺麗なものが好きなの、私。この世界の綺麗なもの全部を、私のキャンバスに閉じ込めてやりたい」


「綺麗、ねぇ。こんな鉄錆と腐った魚の臭いがする場所がか?」


「そうだよ。お兄さんのその綺麗な目もいつか描いてもいい?その綺麗な瞳の色を、完璧に再現してみせる」


 勢いで言った言葉に、一瞬だけ沈黙が流れた。

 酒場の笑いも、グラスの擦れる音も、遠くなる。


 目の前の男は意外そうに目をしばたたかせた後、喉の奥をゴロゴロと鳴らして笑った。獲物を見つけた狼の、獰猛で、けれど不思議と惹きつけられる不敵な笑み。


「大層な自信だ。気に入った」


 男は空になったジョッキをどんと置き、真っ直ぐに私を見据えた。


「お前、名前は?」


「エディ。お兄さんは?」


「エディな。俺はロウだ。……おい、エディ。お前、狭い酒場の隅っこで、飼い主に媚びてチマチマ描いてるだけで満足か?」


 彼はわざとらしく、私の首輪に視線を落として挑発的に囁いた。


「――俺の船、乗ってみろ。お前の世界をひっくり返してやる」


 運命が、音を立てて加速した。

 私の小さなキャンバスには到底収まりきらない嵐が、目の前で牙を剥き、不敵に笑っていた。

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