第1話 うみねこの止まり木
その場所は、海の色が何層にも塗り重ねられた、この町で一番生きた色がする場所だった。
港外れの酒場『うみねこの止まり木』。
煤けたランプの琥珀色が、煮詰めた蜂蜜みたいに濃く、ざらついた笑い声や乱暴な冗談を、あたたかい布で包むように呑み込んでいる。
私はカウンターの端という、世界から少しだけはみ出したような特等席にいた。誰の肘もぶつからない。誰の視線も、深く刺さらない。ここだけが、私の呼吸を許してくれるような、そんな特等席。
「……光はここで跳ねて、影はグラスの底に沈む」
口に出した言葉は、酒場のざわめきに溶けて消える。
指先に残った鉛筆の熱を、カサついた紙の上へと滑らせた。使い古されたスケッチブックに刻まれていくのは、出来の悪い肖像画じゃない。
濁ったエールの泡、笑い飛ばされた今日の不運、安酒の底で揺れている誰かの寂しさ。点と線が、感情の形を借りて増えていく。
「至宝の画家エディ」この国の誰もが私をそう呼ぶ。
キャンバスを抱いて、この腐った世界を愛でる。
それが、この土地で私が拾い上げた唯一にして最大の贅沢であり、この土地に囚われる最大の要因だ。
「はいよ、エディ。お前さんの『命の水』だ」
店主が、事も無げに木製のカップを置いた。
中身は、果実酒を水でこれでもかと薄めた代物。この酒場でおそらく最も安く、そして私にとっては、どんなに値の張るワインよりも、自由の味がする飲み物だ。
「ありがとう、おじさん。……なあ、今日はなんだか騒がしくない?」
私が問いかけると、熊の耳を持つ大柄な獣人の店主は拭いていたグラスの手を止め、眉間に深い溝を刻んだ。
「……今日、港に同盟国の『私掠船』が着いた。政府公認の、牙を抜かれていない狼共さ。略奪を法で許された傭兵集団だよ」
「私掠船……」
「さしずめ荒くれ者の海賊共さ」
その言葉が耳に触れた瞬間、胸の奥で小さな火花が散った。
この国では、私たち人間には権利などない。獣人たちの「慈悲」という名の管理下で、ペットか、あるいは稀少な蒐集品として生きるのがルールだ。
故にだろうか、「海賊」なんて自由の塊の権化に胸が勝手に高鳴る。
「おいおい、エディ! 海賊に会おうなんて考えるなよ! お前みたいな人間、簡単に攫われちまう! そうしたら自慢の風景画も描けなくなるぞ!」
「バカヤロウ! そんなの高貴な『あの御方』が許すわけねぇだろ! あの御方が見出した『至宝』に傷つけたら、この町ごと消し飛ぶぜ」
隣の席の常連客たちが、茶化すように笑う。
あの御方……この国王族にして大投資家の白虎の獣人。
無名の私を泥の中から拾い上げ、パトロンとして、そして「唯一の理解者」として私をこの町に据え置いた男。
彼のおかげで私は安全だ。だが、その安全は「彼の所有物」という首輪がついているからこそのものだった。
「……大丈夫さ、会いに行かないよ。そもそも、そんな鉄錆と血の匂いがしそうな男たちと会う機会なんて、そうそうないだろ」
軽口を叩いて、私は薄まった酒を一気に煽る。
首筋に触れるレザーの首輪のせいか、はたまたこの薄まった酒のせいか、思わず眉を顰めてしまった。
こんな他愛もない日常が、永遠に続く夢みたいに思えた。琥珀色の、甘い夢。
――けれど、その夢は唐突に破られる。
ギィッと、悲鳴みたいな音を立てて、酒場の重い木扉が押し開かれた。
夜の風が流れ込んだ瞬間、凪いでいた空気が一気に荒れた。ランプの火が激しく踊り、さっきまで柔らかかった笑い声が、魔法にかかったみたいに固まって落ちる。
カツ、カツ。
石畳を叩くような硬い足音が、静寂を切り裂いていく。誰もが呼吸を忘れ、入り口の影を見つめていた。
そこに立っていたのは、夜そのものを纏ったような長身の男。
潮風に晒されて色褪せた重厚なコートにその隙間から覗く、使い込まれた革のホルスター。
男が歩くたび、酒場特有の喧騒が足元から死んでいく。
心臓が、喉のすぐ裏側で跳ねた。
男は、あろうことか私のすぐ隣――空いていた椅子に腰を下ろしたのだ。
漂ってきたのは、焦がした煙草と、どこまでも深い海の匂い。
男は長く伸びた前髪をかき上げることもせず、ただ気だるげに、けれど獲物の喉元を見定めるような鋭い視線を私へと流した。
「お隣失礼すンぜ、おじょーさん」
低く、地響きのように身体を震わせる声。
その響きには、酒場の安酒を極上の美酒に変えてしまうような、暴力的なまでの色気が宿っていた。
甘いのに、どこか棘がある。
近づけば傷つきそうなのに、目を逸らせない。
それが、私の静かなキャンバスに、最も鮮烈で危険な色が混じり合った瞬間だった。




