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声に押され、雪乃はぎゅっと指先に力を込めた。次の瞬間、龍は畳を蹴る。天窓から夜空へ跳ね上がり、迷いもなく舞い上がっていく。川面に映った月光が一瞬、キラリと光った。
風が耳を裂くように吹きつける。雪乃は怖くて目をぎゅっと閉じた。どれほど時間が経ったのか、自分でもわからない。
「着いたぞ」
その声に、雪乃はぱちりと目を開いた。
「ここが私の住まいだ。そういえば、名はなんという?」
「雪乃です」
「では、雪乃。茜に早速、部屋へ案内させよう」
「今日から雪乃様のお世話をさせていただきます」
茜と呼ばれた女性は、雪乃にペコリと頭を下げた。小柄でニコニコしている茜は、雪乃を部屋へと案内する。
雪乃に与えられた部屋は、主であった梨花の部屋よりも、はるかに立派だった。畳は新しく、欄間や柱には優美な彫りが入り、障子の紙は透かし模様で淡く光を含んでいた。
(わ、私……下女なのに、こんな立派なお部屋をいただいていいのかしら……)
本来なら下働きのはずの雪乃が、この部屋の主になり側仕えを持つなど、下界にいた頃ではあり得ない。続きの間は龍神夫婦の寝所になっており、その向こうは龍神の部屋へと続いていた。どの部屋も庭に面しており、下界は冬だというのに、ここでは桜が咲き乱れ、春のように暖かだった。
部屋で寛いでいると、茜がお茶と茶菓子を運んできた。
「竜王様の背に乗って来られたのなら、お疲れでしょう。肩を揉ませてくださいませ。夕食前には湯浴みのご用意もいたしますから……」
茜に肩や足を揉まれ、生まれて初めて味わう心地よさに、雪乃は思わず小さく声を漏らした。
「ずいぶん凝っておいでですね。これからは毎日、私が揉んで差し上げますよ」
(ふぁぁ……なんて贅沢なの。まるで天国みたい)
湯浴みなど、下界ではたまにできればいい方だったのに、ここでは当たり前のように温かい湯が用意される。湯浴み後、小花模様の小袖に着替えた雪乃は、龍神と共に用意された夕餉の席についた。温かい湯気が立ちのぼる椀や、彩りの良い野菜の煮物が並ぶ。雪乃が恐る恐る箸をつけると、どれも驚くほど上品な味だった。龍神は静かに食を進め、言葉少なげに雪乃の皿に焼き魚を取り分けたりした。
食後、布団が敷かれた寝所へと向かう。雪乃は龍神と並んで横になった。互いの肩が触れるか触れないかという距離で、なんとも言えない沈黙が落ちる。
(ど、どうしたら……いいんだろ……)
視線の置き場に困ってもじもじしていると、龍神がそっと手を伸ばした。雪乃の腕をやさしく引き寄せ、抱きしめるように胸元に収める。
その途端、龍神の呼吸がふっと深くなり、幼子のようにすやすやと寝息を立て始めた。
(……えっ、寝た? 今?)
拍子抜けして雪乃は瞬きを繰り返す。顔を覗くと、麗しい銀髪の龍神は安心しきったように微笑みすら浮かべて眠っていた。
実際、龍神は何百年も人間界の負の気配や感情に晒され、まともに眠れなかった。けれど雪乃に触れた今、雑音が一切なくなり、うっかり深く眠ってしまったというのが真相だった。こうして、初夜とは名ばかりで、雪乃はただ龍神の胸に抱かれながら、静かな寝息を聞いていた。
朝になると、龍神は目をぱちりと開け、驚いたように声を上げる。
「こんなにすっきりした目覚めは何百年ぶりだろう? ……なぁ、雪乃、私は眠っていたのだろうか?」
妙なことを聞くものだと雪乃は思う。龍神が数百年もの間、寝不足だったことを雪乃は知らない。




