第8章 過去三都市の繋がり
クリスタリアを離れて3日目の夜。
アリアは森の中で野営をしていた。
焚火が、暗闇を照らしている。パチパチと薪が爆ぜる音が、静寂の中に響いた。
炎を見つめながら、アリアは花図譜を膝の上に置いていた。革の表紙が、火の光を反射している。
「疲れた?」
リリィが肩から飛び立ち、焚火の向こう側に止まった。
「少しだけ。でも……大丈夫です」
アリアは微笑んだ。
「むしろ、充実しています」
リリィの羽が、炎の光を受けて輝いた。
「三つの街を巡ったわね」
「ええ」
アリアは花図譜を開いた。
最初のページ。フロリアのページが現れた。
桜のスケッチ。その下に刻まれた、春風のワルツの楽譜。
「エリオさんとセレスさん……」
アリアは楽譜を指でなぞった。
「父と息子。10年ぶりの再会。そして、失われた音楽が戻ってきた」
ページをめくる。
サンフィーノのページ。
ひまわりのスケッチと、大漁行進曲の楽譜。
「タオさんとマリナさん。戦争で失われた仲間たち。でも、記憶は残っていて……祭りが蘇った」
さらにページをめくる。
アンバーレイのページ。
秋桜のスケッチと、収穫の讃歌の楽譜。
「リーゼさんとエマさん。10年も口をきかなかった姉妹。二人が歌うことで、和解できた」
アリアは三つのページを並べて見た。
炎の光が、楽譜を照らしている。
「三つの街、三つの音楽……」
リリィが焚火の周りを一周した。
「何か、気づいた?」
アリアは楽譜を見つめた。
春風のワルツ。軽やかな三拍子。ピアノの旋律が、人々を包み込む。
大漁行進曲。力強い太鼓と笛。歌声が重なり合う。
収穫の讃歌。二部合唱。高音と低音が調和する。
「違う曲です。リズムも、テンポも、楽器も……」
アリアは一つ一つの楽譜を見比べた。
「でも……」
言葉を探す。
「何かが……同じような気がします」
リリィが近づいてきた。
「それは何?」
アリアは考えた。
春風のワルツは、花時計亭で奏でられた。父と息子が、音楽を通じて繋がった。そして、街の人々が集まり、一緒に聴いた。
大漁行進曲は、港で演奏された。若い漁師たちが、タオから学んだ。村中が参加して、一緒に歌った。
収穫の讃歌は、広場で歌われた。姉妹が声を合わせた。村人たちが輪になって、共に祝った。
「人……」
アリアが呟いた。
「人と人を……繋いでいる」
リリィの羽が輝いた。
「そう! それよ!」
「三つの音楽は、すべて……」
アリアは立ち上がった。
「人と人を繋ぐ歌でした」
花図譜を両手で持つ。
「春風のワルツは、父と息子を繋いだ。離れ離れだった二人を、もう一度一つにした」
ページをめくる。
「大漁行進曲は、世代を繋いだ。タオさんの記憶が、若い漁師たちに受け継がれた。そして、村全体が一つになった」
さらにページをめくる。
「収穫の讃歌は、姉妹を繋いだ。10年の沈黙を破って、二人を和解させた」
アリアは焚火を見た。
炎が揺れている。
「失われた音楽には……共通点がある」
リリィが頷いた。
「それは……?」
「孤独を癒すこと。離れた心を、もう一度近づけること」
アリアの声が、確信に満ちていく。
「人は、音楽を通じて繋がる。一緒に演奏して、一緒に歌って、一緒に聴いて……そうすることで、心が通い合う」
リリィはアリアの肩に舞い降りた。
「あなた、理解し始めているわね」
「花守りの役目……」
アリアは花図譜を胸に抱いた。
「記憶を取り戻すだけじゃない。音楽を蘇らせるだけじゃない」
「そう」
リリィが囁いた。
「人々の絆を、取り戻すこと」
アリアは頷いた。
炎の温もりが、体を包んでいる。
「戦争が奪ったもの……それは、命や建物だけじゃなかった」
「ええ」
「人と人との繋がりも、奪われた。家族が離れ離れになり、友が失われ、街が孤独になった」
アリアは空を見上げた。
星が瞬いている。
「でも、音楽は……それを取り戻せる」
リリィの羽が、優しく光った。
「そうよ。音楽は、心を繋ぐ力を持っている」
アリアは再び花図譜を開いた。
三つのページを並べる。
そして――
不思議なことが起きた。
三つの楽譜が、かすかに光り始めた。
淡い、柔らかな光。
まるで呼応しているかのように。
「これは……」
アリアは息を呑んだ。
光が音符から音符へと流れていく。
春風のワルツの最初の音符が光る。
その光が、大漁行進曲の太鼓のリズムに伝わる。
さらに、収穫の讃歌の和音へと繋がる。
三つの音楽が、目に見えない糸で結ばれているかのようだった。
「共鳴してる……」
リリィが囁いた。
「三つの音楽が、互いに響き合ってる」
光は徐々に強くなった。
そして――
かすかに、音が聞こえてきた。
ピアノの音色。太鼓の響き。歌声。
三つが重なり合い、一つの調和を作り出す。
美しかった。
複雑で、でも完璧に調和している。
まるで、三つの音楽が一つの大きな曲の一部であるかのように。
アリアは聴き入った。
音楽は短く、すぐに消えていった。
光も引いていく。
花図譜は、再び静かになった。
「今の……」
アリアは戸惑った様子だった。
「何だったんですか?」
リリィは考え込んだ。
「わからない。でも……」
羽を閉じる。
「きっと、これが答えなのよ」
「答え……?」
「12の音楽を集める理由」
リリィはアリアを見た。
「三つでも、あんなに美しく共鳴した。じゃあ、12全部集まったら……」
「何が起こるんですか?」
リリィは首を振った。
「それは、まだわからない。でも……」
焚火が、一段と明るく燃え上がった。
「きっと、素晴らしいことが起こる。この世界を変えるような、何かが」
アリアは花図譜を見つめた。
残り9つの空白のページ。
クリスタリア、そして未踏の8つの街。
すべてに、失われた音楽がある。
すべてに、繋がりを待つ人々がいる。
「行かなきゃ」
アリアが呟いた。
「次の街へ。そして、次の音楽を」
リリィが微笑んだ。
「そうね。まだ旅は続く」
アリアは花図譜を閉じ、鞄にしまった。
焚火を見つめる。
炎が、静かに燃えている。
「フロリアで、セレスさんが言いました」
アリアが静かに語り始めた。
「『次の街でも、誰かの記憶を取り戻してあげて』って」
「ええ」
「サンフィーノで、タオさんが言いました。『次の街でも頼んだぞ』って」
リリィが頷く。
「アンバーレイで、リーゼさんとエマさんが言いました。『次の街でも、頑張ってください』って」
アリアは空を見上げた。
「みんな、信じてくれています。私が、次の街でも音楽を取り戻すことを」
「あなたなら、できるわ」
リリィが力強く言った。
「だって、もう三つもやり遂げたじゃない」
アリアは微笑んだ。
「ありがとう、リリィ」
「何を」
「いつも、一緒にいてくれて」
リリィの羽が、嬉しそうに揺れた。
「当たり前よ。私たちは相棒でしょう?」
「ええ」
二人は笑い合った。
焚火が、温かく二人を照らしている。
夜は深まっていく。
でも、心は温かかった。
三つの街で得たもの。
それは、ただの記憶や音楽ではなかった。
人々の笑顔。和解の涙。希望の歌声。
すべてが、アリアの中に残っている。
「明日、また歩き出しましょう」
アリアが言った。
「次の街へ。次の音楽へ」
リリィが頷いた。
「ええ。そして、また誰かを笑顔にしましょう」
アリアは毛布を体に巻きつけた。
焚火の前で、目を閉じる。
炎のパチパチという音。
森の静けさ。
そして、心の中で響く、三つの音楽。
春風のワルツ。大漁行進曲。収穫の讃歌。
三つが重なり合い、共鳴している。
まだ見ぬ9つの音楽が、アリアを待っている。
人と人を繋ぐ歌。
孤独を癒す旋律。
それを取り戻すために。
アリアは、旅を続ける。
どこまでも。
焚火の炎が、少しずつ小さくなっていく。
でも、消えることはない。
アリアの心の中で、希望の炎が燃え続けている。
それが消えない限り、旅は終わらない。
星空の下、小さな焚火が揺れていた。
花守りと妖精が、寄り添って眠る。
明日への力を、蓄えながら。
次の物語が、待っている。
焚火の炎が小さくなった頃、リリィが口を開いた。
「アリア、まだ起きてる?」
「ええ」
アリアは目を開けた。
炎の向こうに、リリィの小さな姿が見える。いつもより、真剣な表情をしていた。
「話したいことがあるの」
「何ですか?」
リリィは焚火の周りをゆっくりと飛んだ。
「花守りの歌、って聞いたことある?」
「花守りの……歌?」
アリアは体を起こした。
「いいえ。初めて聞きます」
リリィは、少し迷うような素振りを見せた。
でも、やがて語り始めた。
「それは……伝説なの」
静かな声だった。
「昔々、この世界には、一つの歌があった」
「一つの歌……」
「ええ。花守りの歌、と呼ばれていた」
リリィは焚火の前に止まった。
炎が、その小さな体を照らしている。
「その歌は、12の都市すべてを包み込む、壮大な旋律だったの。春の優しさ、夏の力強さ、秋の豊かさ、冬の静けさ……すべての季節が、一つの音楽の中にあった」
アリアは黙って聞いていた。
「その歌を奏でることができたのは、花守りだけ」
リリィの声が、遠くなる。
「花守りは、12の都市を巡り、それぞれの土地の音楽を集めた。そして、すべてが揃った時……花守りの歌を完成させた」
「完成させて……どうなったんですか?」
「世界が、一つになったの」
リリィは空を見上げた。
星が瞬いている。
「12の都市は、それぞれ独立していた。春の都市は春だけを、夏の都市は夏だけを愛していた。秋も、冬も同じ。互いに交わることは少なく、時には対立することもあった」
「でも……」
「でも、花守りの歌が奏でられた時、人々は気づいたの。すべての季節が、互いに必要だということを。春がなければ夏は来ない。秋がなければ冬の意味がない。12の都市は、一つの大きな世界の一部なんだって」
リリィの羽が、淡く光った。
「その歌は、人々の心を一つにした。都市の境界を越えて、みんなが手を繋いだ。争いは消え、平和が訪れた」
「素晴らしい……」
アリアは息を呑んだ。
「でも……」
リリィの声が沈んだ。
「それは、遠い昔の話」
「遠い昔……」
「そう。花守りの歌は、代々受け継がれてきたの。何代もの花守りが、この世界に平和をもたらしてきた」
リリィは少し間を置いた。
「でも、30年前……大戦が起きた」
アリアは息を呑んだ。
「30年前……」
「理由は……もう、誰も覚えていない。小さな争いが大きくなって、やがて12の都市すべてを巻き込む戦いになった」
炎が揺れる。
「その時の花守りは、戦争を止めようとした。もう一度、花守りの歌を奏でて、人々の心を一つにしようとした」
「でも……」
「間に合わなかった」
リリィの声が震えた。
「戦火は激しく、多くの命が失われた。そして……花守りも、姿を消した」
アリアは胸が痛くなった。
「その方が……先代の花守り……」
「ええ」
リリィは頷いた。
「あなたの前に、この世界で最後に花守りだった人」
「花守りの歌も……」
「失われた」
リリィは頷いた。
「12の都市の音楽は、戦争でバラバラになった。人々は記憶を失い、絆を失い、音楽を失った」
リリィはアリアの方を向いた。
「でもね、音楽は完全には消えなかった」
「え……?」
「花守りの歌は、12の断片に分かれて、それぞれの都市に残ったの」
リリィの目が、真剣に輝いた。
「春風のワルツ。大漁行進曲。収穫の讃歌。そして、残りの9つの音楽」
アリアは息を呑んだ。
「まさか……」
「そう。あなたが集めている12の音楽は……かつての花守りの歌の断片なのよ」
焚火が、一段と明るく燃え上がった。
アリアは立ち上がった。
「じゃあ……全部集めたら……花守りの歌が、もう一度完成する」
リリィも飛び上がった。
「そして……何かが起こる」
「何が……」
アリアは胸が高鳴った。
「何が起こるんですか?」
リリィは少し黙った。
やがて、静かに答えた。
「それは……わからない」
「わからない……?」
「ええ。私も、伝説でしか知らないの」
リリィは正直に言った。
「先代の花守りも、完成させることができなかった。だから、誰も知らない。12の音楽が揃った時、本当に何が起こるのか」
アリアは花図譜を取り出した。
三つの音楽が記録されたページ。
そして、9つの空白のページ。
「でも……」
アリアが呟いた。
「きっと、素晴らしいことですよね」
「そうね」
リリィが微笑んだ。
「さっき、三つの音楽が共鳴したでしょう? あんなに美しく」
「ええ」
「12全部揃ったら……もっと素晴らしいことが起こるはずよ」
アリアは花図譜を見つめた。
「世界が、もう一度一つになる……とか?」
「かもしれない」
リリィが囁いた。
「争いが消える、とか」
「かもしれない」
「みんなが、幸せになる、とか」
「かもしれない」
リリィはアリアの肩に止まった。
「でもね、一つだけ確かなことがあるの」
「何ですか?」
「それは……あなた次第だということ」
アリアは顔を上げた。
「私……次第?」
「ええ」
リリィの声が、優しくなった。
「花守りの歌は、ただ音楽を集めればいいってものじゃないの。どんな想いで集めるか、どんな願いを込めるか……それが、歌に宿るの」
リリィはアリアの頭に触れた。
「先代の花守りは、戦争を止めたいという想いで集めていた。でも、完成する前に……時間切れになってしまった」
「じゃあ、私は……」
「あなたは、あなたの想いで集めればいい」
リリィが微笑んだ。
「今までの三つの街で、あなたは何を願って音楽を取り戻した?」
アリアは考えた。
フロリアで、セレスとエリオを再会させたいと願った。
サンフィーノで、タオに希望を取り戻してほしいと願った。
アンバーレイで、リーゼとエマに和解してほしいと願った。
「人々の……幸せ」
アリアが答えた。
「人と人が、繋がること。孤独が癒されること。笑顔が戻ること」
「そう」
リリィが頷いた。
「それが、あなたの想い。その想いが、花守りの歌に宿っていく」
アリアは花図譜を胸に抱いた。
「だから、12の音楽が揃った時……」
「あなたの想いが、形になる」
リリィの羽が輝いた。
「世界を一つにする歌になるのか、平和をもたらす歌になるのか、それとも……まったく別の何かになるのか」
「それは……」
「あなたが決めるの」
リリィは力強く言った。
「花守りとは、ただ記憶を集める者じゃない。新しい未来を創る者なのよ」
アリアは、その言葉の重みを感じた。
責任。
でも同時に、希望。
「怖くない?」
リリィが優しく聞いた。
「少し……」
アリアは正直に答えた。
「でも、それ以上に……やりたいです」
「やりたい?」
「ええ。人々を繋ぎたい。幸せにしたい。笑顔にしたい」
アリアは空を見上げた。
「フロリアで、サンフィーノで、アンバーレイで……私、たくさんの笑顔を見ました。音楽が人を幸せにする瞬間を、何度も見ました」
星が、キラキラと輝いている。
「それを、もっと多くの人に届けたい。残りの街でも、そして……」
アリアは花図譜を見た。
「12の音楽が揃った時、この世界全体に届けたい」
リリィは、しばらくアリアを見つめていた。
やがて、満足そうに微笑んだ。
「いい答えね」
「本当に……それでいいんですか?」
「ええ」
リリィは頷いた。
「花守りに必要なのは、特別な才能じゃない。人を想う心よ。あなたには、それがある」
アリアは、温かな気持ちになった。
「ありがとう、リリィ」
リリィはくるりと一回転した。
「さあ、もう寝ましょう。明日も長い道のりよ」
「そうですね」
アリアは再び毛布に包まった。
でも、すぐには眠れなかった。
頭の中で、リリィの言葉が繰り返される。
花守りの歌。
12の断片。
そして、それを完成させた時に起こる、何か。
「全部集めたら、何が起こるんだろう……」
アリアは呟いた。
リリィが、半分眠りながら答えた。
「それは……あなた次第よ……」
焚火の炎が、小さく揺れている。
アリアは目を閉じた。
心の中で、三つの音楽が鳴り響いている。
春風のワルツ。大漁行進曲。収穫の讃歌。
そして、まだ見ぬ9つの音楽。
すべてが集まった時。
世界は、どう変わるのだろう。
自分は、どんな未来を創るのだろう。
わからない。
でも、怖くはなかった。
一つずつ、丁寧に。
人々と出会い、話を聞き、音楽を取り戻す。
その先に、答えがある。
アリアは、そう信じていた。
焚火が、静かに燃え続けている。
森の夜は深まっていく。
でも、アリアの心には、希望の光が灯っていた。
花守りの歌。
その完成に向けて。
旅は、まだ続く。
翌朝、アリアは早くに目を覚ました。
焚火の残り火が、まだ温かく燃えている。
空が白み始めていた。
「リリィ」
アリアが呼びかけると、妖精が目を覚ました。
「もう朝?」
「ええ。決めました」
「何を?」
アリアは立ち上がった。
「クリスタリアに戻ります」
リリィは驚いた様子だった。
「戻るって……でも、氷は溶けなかったわ。記憶も読み取れなかった」
「わかっています」
アリアは荷物をまとめ始めた。
「でも、セラフィナさんが一人で頑張っています。私も、一緒にいたい」
「一緒に……」
「ええ。声を取り戻すまで、傍にいます」
アリアは花図譜を鞄にしまった。
「他の街は、数日で音楽を取り戻せました。でも、クリスタリアは違う。もっと時間がかかる」
「それは……そうね」
「だからこそ、急いで次の街に行くんじゃなくて……クリスタリアに、もう一度向き合いたいんです」
アリアは焚火を消し始めた。
「昨夜、リリィが言いましたよね。花守りの想いが、歌に宿るって」
「ええ」
「なら、私は逃げたくない。難しいからって、諦めたくない」
アリアは真っ直ぐにリリィを見た。
「セラフィナさんは、30年間も声を失ったまま、一人で生きてきた。その痛みを、少しでも癒したい」
リリィは、しばらくアリアを見つめていた。
やがて、微笑んだ。
「わかったわ。戻りましょう、クリスタリアへ」
――――
3日かけて、クリスタリアに戻ってきた。
街は相変わらず、雪に覆われていた。
静寂。
人の気配は、ほとんどない。
アリアは広場を横切り、塔へと向かった。
扉をノックする。
「セラフィナさん、アリアです」
しばらくして、扉が開いた。
セラフィナが立っていた。
驚いた表情で、アリアを見つめている。
紙に書き始めた。
『戻ってきてくれたんですか?』
「はい」
アリアは微笑んだ。
「一緒に、氷を溶かしたいんです」
セラフィナの目から、涙が溢れた。
『ありがとうございます』
彼女はアリアを抱きしめた。
細い体が、小刻みに震えている。
アリアも、そっと抱き返した。
「一緒に、頑張りましょう」
――――
その日から、二人の日々が始まった。
毎朝、アリアとセラフィナは氷晶カフェを訪れた。
裏の窓から入り、凍りついた店内で氷花の世話をする。
「おはようございます」
アリアが氷花に語りかける。
セラフィナも隣に座り、声なき歌を歌う。
二人で、少しずつ氷を溶かしていく。
最初の日は、ほんの一滴の水が落ちただけだった。
二日目は、二滴。
三日目は、三滴。
少しずつ、確実に、氷は薄くなっていった。
「頑張ってますね」
アリアが氷花に微笑みかける。
セラフィナが紙に書いた。
『花も、頑張っているみたいです』
氷の中の花びらが、わずかに色を取り戻しているように見えた。
――――
午後は、セラフィナの塔で過ごした。
暖炉の前で、二人はお茶を飲みながら話をする。
セラフィナは筆談で、アリアは声で。
『旅のこと、もっと聞かせてください』
「いいですよ」
アリアはフロリアのことを話した。
エリオとセレス。10年ぶりの再会。春風のワルツ。
セラフィナは目を輝かせて聞いていた。
サンフィーノのことも話した。
タオと漁師たち。大漁行進曲。蘇った祭り。
セラフィナは嬉しそうに頷いた。
アンバーレイのことも話した。
リーゼとエマ。姉妹の和解。収穫の讃歌。
セラフィナは涙を流しながら、紙に書いた。
『素敵な物語ばかりですね』
「ええ。どの街でも、音楽が人を繋いでいました」
『この街でもいつか』
セラフィナは窓の外を見た。
雪が降り続けている。
「必ず」
アリアは力強く言った。
「この街にも、音楽が戻ります」
――――
夜は、二人で夕食を作った。
セラフィナが料理を教えてくれる。
クリスタリアの伝統料理。根菜のスープ、雪花パン、氷茶。
「美味しいです」
アリアが笑顔で言うと、セラフィナも嬉しそうに微笑んだ。
食後は、暖炉の前で楽譜を見た。
雪解けの子守歌の楽譜。
セラフィナの母が書いたもの。
「美しい曲ですね」
アリアが楽譜をなぞる。
セラフィナは、母のことを紙に書いた。
『母は、とても優しい人でした。寒い夜も、この歌を歌ってくれました。そうすると、怖くなくなったんです』
「きっと、この街の人たちも……この歌を聴いたら、心が温かくなりますね」
セラフィナは頷いた。
『いつか、みんなに聴いてもらいたいです。私は歌えないけれど』
「大丈夫」
アリアはセラフィナの手を取った。
「あなたの想いは、ちゃんと伝わっています。氷花も、それを感じているはずです」
セラフィナは微笑んだ。
――――
一週間が過ぎた。
氷晶カフェの氷は、少しずつ薄くなっていた。
氷花の周りは、もう指が触れられるほどになった。
「もう少し……」
アリアが呟く。
セラフィナも、希望に満ちた目で花を見つめていた。
その時――
カフェの扉をノックする音が聞こえた。
二人は顔を見合わせた。
誰か来た。
アリアは窓から外を覗いた。
一人の老婆が立っていた。
以前、アリアに話をしてくれた老婆だ。
アリアは扉を開けた。
「こんにちは」
「やあ……あなた、まだこの街にいたのかい」
老婆は驚いた様子だった。
「はい。セラフィナさんと一緒に」
老婆はセラフィナを見た。
「セラフィナ……久しぶりだね」
セラフィナは少し戸惑った様子だったが、やがて微笑んで頭を下げた。
「何をしているんだい?」
「氷を溶かしています」
アリアは氷花を指差した。
「ここに、この街の記憶が眠っているんです」
老婆は氷花を見た。
目を細める。
「そうかい……」
しばらく黙っていたが、やがて言った。
「手伝おうか」
「え……?」
「私も、昔はこのカフェに通っていたんだ。セラフィナのお母さんの歌を、何度も聴いた」
老婆は氷花の前にしゃがんだ。
「思い出すよ。あの温かな歌声を」
老婆が目を閉じると――
氷花の周りの氷が、さらに薄くなった。
「記憶が……」
アリアは驚いた。
「覚えている人が増えると、氷が溶けやすくなるのね」
リリィが囁いた。
老婆は立ち上がった。
「また来るよ」
「ありがとうございます」
老婆は扉から出ていこうとして、振り返った。
「セラフィナ。お前、ずっと一人で塔に閉じこもっていたんだってね」
セラフィナは頷いた。
「もう、一人じゃないよ」
老婆は優しく微笑んだ。
「この子が来てくれた。そして、私たちもいる」
セラフィナの目から、涙が溢れた。
老婆は手を振って去っていった。
セラフィナは、しばらく扉を見つめていた。
やがて、アリアを見て微笑んだ。
紙に書く。
『温かい』
「ええ」
アリアも微笑んだ。
「少しずつ、この街も変わっていきますね」
セラフィナは頷いた。
二人は再び、氷花の前に座った。
まだ時間はかかる。
でも、希望は見えてきた。
雪は降り続けている。
でも、氷晶カフェの中は、少しずつ温かくなっていた。
アリアとセラフィナ、二人の想いが、この場所を包んでいる。
声を取り戻すまで。
音楽を取り戻すまで。
そして、この街に春が来るまで。
アリアは、ここにいる。
傍にいる。
それが、今の自分にできることだった。
窓の外で、雪が静かに降り続けていた。
でも、二人の心には、温かな希望が灯っていた。
暖かな日々が、始まっていた。




