第6章 秋の都市アンバーレイ編
サンフィーノを出て3日。
アリアは季節の境界線を越えた。
夏の青空が、徐々に高く澄んでいく。風が涼しくなり、空気に乾いた香りが混じってきた。
そして、木々の色が変わり始めた。
緑から黄色へ。黄色から橙へ。橙から赤へ。
秋だ。
道の両脇に広がる森が、燃えるような紅葉に染まっている。
「綺麗……」
アリアは立ち止まり、森を見上げた。
赤、橙、黄、まだ残る緑。すべてが混ざり合って、まるで絵画のように美しい。
「秋の都市、アンバーレイよ」
リリィが飛び回る。
「ここは紅葉と栗の街。収穫の季節ね」
道を進むと、森が開けた。
広大な農村地帯が広がっていた。
畑、果樹園、牧草地。丘陵に沿って、田園風景が続いている。
遠くには、小さな村が見えた。
石造りの家々が集まり、教会の尖塔が空に伸びている。
「あれがアンバーレイの中心部ね」
アリアは村へ向かって歩き始めた。
畑の脇を通ると、栗の木が並んでいた。
大きな栗が、イガに包まれてたわわに実っている。
収穫期だ。
でも――
畑で働く人の姿が、ほとんど見えない。
一人、二人。まばらに作業をしている人がいるだけだった。
「おかしいわね」
リリィが囁いた。
「収穫期なのに、人が少なすぎる」
アリアも違和感を覚えた。
畑には、まだ収穫されていない野菜や果物が残っている。熟しすぎて傷み始めているものもあった。
村に入ると、通りも静かだった。
店は開いているが、客の姿はまばら。人々はどこか疲れた表情で、挨拶を交わすこともなく歩いていた。
広場に出た。
中央には古い井戸があり、その周りにベンチが並んでいる。
広場に面して、一軒のカフェがあった。
石造りの二階建て。壁には蔦が這い、窓辺には秋の花が植えられている。
テラス席が広場に面していて、黄色いパラソルが並んでいた。
看板には「黄金テラス」と書かれている。
「ここね」
アリアはカフェに近づいた。
テラス席には、数組の客が座っていた。
扉を開けると、鈴が鳴った。
店内は温かみのある内装だった。木のテーブルと椅子、暖炉、壁には秋の風景画。
カウンターの向こうに、一人の女性が立っていた。
35歳くらいだろうか。栗色の髪を後ろで結び、エプロンをつけている。整った顔立ちだが、どこか厳しい表情だった。
「いらっしゃいませ」
礼儀正しいが、冷たい声だった。
「お一人様ですか?」
「はい」
「店内とテラス、どちらがよろしいですか?」
「店内で」
「こちらへどうぞ」
女性は窓際の席に案内した。
「メニューです」
渡されたメニューを見ると、秋の食材を使った料理が並んでいた。
栗のスープ、キノコのリゾット、リンゴのタルト。
そして、一番上に大きく書かれていた。
「栗のタルト――当店自慢の一品」
「これを、お願いします」
「かしこまりました。お飲み物は?」
「コーヒーを」
女性はメモを取り、カウンターに戻った。
アリアは店内を見回した。
客は数組いるが、誰も会話をしていない。黙々と食事をし、すぐに帰っていく。
店の雰囲気が、どこか重かった。
やがて、栗のタルトとコーヒーが運ばれてきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
タルトは美しかった。
サクサクのタルト生地に、栗のクリームがたっぷり。上には艶やかな栗の甘露煮が飾られている。
一口食べると、濃厚な栗の味が口に広がった。
甘すぎず、香ばしく、舌触りも滑らか。
「美味しい……」
アリアは思わず声を上げた。
女性が振り返った。
「お口に合いましたか?」
「はい! とても」
女性の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「ありがとうございます。私が作りました」
「素晴らしいです。このタルト、有名なんですか?」
「……昔は、そうでした」
女性は目を伏せた。
「母が始めたレシピで、この村の名物だったんです。でも、今は……」
「今は……?」
女性は首を振った。
「何でもありません。ごゆっくりどうぞ」
そう言って、カウンターに戻った。
アリアはタルトを食べ終え、コーヒーを飲んだ。
代金を払おうとカウンターに向かうと、女性が丁寧に受け取った。
「ありがとうございました」
「あの……お名前を伺ってもいいですか?」
女性は少し驚いた様子だったが、答えた。
「リーゼです」
「私はアリア。旅をしていて、この村に立ち寄りました」
「そうですか」
リーゼは興味がなさそうだった。
「この村、収穫期なのに人が少ないように見えましたが……」
「……ええ。人手不足なんです」
リーゼは窓の外を見た。
「若い人たちは街に出て行き、残っているのは年寄りばかり。畑仕事をする人が減って、収穫も思うようにいかない」
「そうなんですか……」
「それに……」
リーゼは言葉を切った。
「いえ、旅の方には関係のないことです」
アリアは店を出ようとした時、広場の向こうに別のカフェがあることに気づいた。
「モダンテラス」という看板。
新しい建物で、ガラス張りの明るい外観。テラス席には若い客が何人か座っていた。
「あれも、カフェなんですか?」
リーゼの表情が強張った。
「……ええ」
「同じ村に、二つもカフェが」
「元々は、一つでした」
リーゼの声が冷たくなった。
「でも、10年前に……分かれたんです」
「分かれた……?」
リーゼは何も答えず、カウンターの奥へと消えていった。
アリアは広場を横切り、モダンテラスに近づいた。
ガラス越しに中を覗くと、若い女性が接客をしていた。
28歳くらいだろうか。明るい茶色の髪を肩まで伸ばし、カジュアルな服装。笑顔で客と話している。
リーゼと、どこか似ていた。
アリアは店に入った。
「いらっしゃいませ!」
明るい声だった。
「お一人様ですか? どうぞ、お好きな席へ!」
アリアは窓際の席に座った。
女性がメニューを持ってきた。
「初めてですよね? おすすめは栗のモンブランです!」
「それを、お願いします」
「はーい! コーヒーもつけますね!」
女性は軽やかにカウンターに戻った。
店内は黄金テラスとは対照的だった。
明るく、開放的で、音楽が流れている。客も笑顔で会話していた。
やがて、栗のモンブランとコーヒーが運ばれてきた。
「どうぞ!」
モンブランも美しかった。
栗のクリームが山のように盛られ、上には金箔が飾られている。
一口食べると、軽やかで繊細な味わい。
「美味しいです」
「でしょう? 私のオリジナルレシピなんです!」
女性は嬉しそうに笑った。
「私、エマって言います。このお店のオーナーです」
「アリアです。旅をしていて」
「旅! いいなあ。どこから来たんですか?」
エマは隣の椅子に座った。
「フロリア、サンフィーノを経由して」
「へえ! いろんな街を回ってるんだ。この村、どうですか?」
「とても綺麗です。紅葉が素晴らしくて」
「でしょう? 秋が一番綺麗な時期なんです」
エマは窓の外を見た。
「でも……最近は、あんまり元気ないんですよね、この村」
「人が少ないように見えました」
「ええ。みんな出て行っちゃって。私も一度は街に出たんですけど、やっぱりここが好きで戻ってきました」
エマは笑顔を作った。
でも、その笑顔はどこか寂しげだった。
「あの……向かいの黄金テラスも、行ってきました」
エマの表情が変わった。
「……そうですか」
「リーゼさんという方が……」
「姉です」
エマは俯いた。
「姉さんとは……もう10年も、口をきいていないんです」
「10年も……」
「ええ。元々は一つのカフェだったんです。母が始めた『黄金テラス』。でも、母が亡くなって……姉さんと、やり方で意見が合わなくて」
エマは拳を握りしめた。
「姉さんは伝統を守りたいって言って。私は新しいことをやりたいって言って。喧嘩して……私が店を出たんです」
「それで、このお店を……」
「はい。自分のやり方で、カフェを始めました。でも……」
エマは目を伏せた。
「姉さんとは、それから一度も話していません。同じ広場にいるのに」
アリアは黄金テラスの方を見た。
リーゼが窓越しに、こちらを見ていた。
二人の視線が交わった瞬間、リーゼは目を逸らした。
「姉さんも……寂しいと思うんです」
エマの声が震えた。
「私も、謝れなくて……」
アリアは花図譜のことを思い出した。
アンバーレイのページには、秋桜のスケッチと、空白の五線譜があった。
そして、その音楽のタイトルは――
「収穫の讃歌」
二部合唱の曲だと、リリィが言っていた。
姉妹が一緒に歌っていた曲。
「エマさん、この村には音楽の伝統がありますか?」
エマは顔を上げた。
「音楽……ああ、収穫祭のことですか?」
「収穫祭……?」
「昔は毎年やっていたんです。収穫が終わると、村中が集まって歌を歌う。『収穫の讃歌』っていう、伝統的な歌があって……」
エマは遠い目をした。
「姉さんと私が、一緒に歌っていました。子供の頃」
アリアの胸が高鳴った。
「その歌、今は……」
「もう、誰も歌いません」
エマは首を振った。
「姉さんと私が喧嘩してから、収穫祭もなくなりました。二人で歌わないと、完成しない曲だから」
アリアは立ち上がった。
「エマさん、その歌を……もう一度、歌いませんか?」
「え……?」
「お姉さんと一緒に」
エマは目を見開いた。
「無理です……姉さんは、私と話すことすら……」
「でも、試してみませんか?」
アリアは右手を掲げた。花の紋章が淡く光る。
「私は花守りです。失われた記憶と音楽を取り戻す旅をしています」
エマは紋章を見つめた。
「花守り……って……」
「お姉さんと、仲直りしたいですよね?」
エマの目から、涙が溢れた。
「……したいです。ずっと、ずっと……」
アリアは微笑んだ。
「なら、一緒に取り戻しましょう。あなたたちの音楽を」
窓の外で、紅葉が風に揺れていた。
黄金色の葉が、広場に舞い降りる。
姉妹の物語が、動き始めようとしていた。
エマは窓辺に立ち、黄金テラスを見つめていた。
「話します。全部」
アリアは静かに待った。
「父と母が始めたカフェでした。黄金テラス」
エマは遠い目をした。
「二人とも、この村で生まれ育って。農園も経営していて、自分たちで育てた栗や野菜を使った料理を出していました」
「素敵ですね」
「ええ。幸せでした。姉さんと私は、両親の背中を見て育ちました」
エマは椅子に座った。
「姉さんは真面目で、几帳面で、父の言うことをよく聞く子でした。料理も、父のレシピを完璧に再現できました」
「リーゼさんは……」
「私は……その逆でした」
エマは苦笑した。
「落ち着きがなくて、新しいことばかりやりたがって。母のレシピを勝手にアレンジして、よく父に叱られました」
「でも、二人は仲が良かったんですよね?」
「ええ。子供の頃は」
エマの表情が曇った。
「15年前、父が病気で亡くなりました。姉さんが20歳、私が13歳の時」
「……」
「母は、一人でカフェと農園を続けようとしました。姉さんも手伝って。私も、学校が終わると手伝いました」
エマは窓の外を見た。
「でも、5年後……母も倒れました」
「お母様も……」
「ええ。姉さんが25歳、私が18歳の時。母は病床で、私たちに言いました。『二人で、このカフェを続けてほしい』って」
エマの声が震えた。
「母は、姉さんに店を託しました。『リーゼ、お前がしっかりしているから、店を頼む』って。そして私には、『エマ、お前の自由な発想で、新しいことに挑戦してほしい』って」
「お母様は……二人に、それぞれの役割を……」
「でも、それが間違いだったんです」
エマは拳を握りしめた。
「母が亡くなって、姉さんが店を継ぎました。農園も、カフェも、すべて姉さんの名義になりました」
「あなたは……」
「私は、手伝いという立場でした。でも、それでもよかったんです。姉さんと一緒に、母の店を守れるなら」
エマは立ち上がった。
「最初の2年は、うまくいっていました。姉さんは父のレシピを守り、私は新しいメニューを提案する。お互いに尊重し合っていました」
「何が……変わったんですか?」
「私が、変えようとしたんです」
エマは自分を責めるように言った。
「店の内装を変えたいって言いました。もっと明るく、若い人にも来やすいように。メニューも増やして、カフェだけじゃなくて、ランチやディナーもやりたいって」
「それは……」
「姉さんは反対しました。『父と母が築いたものを、勝手に変えるな』って。『伝統を守るのが、私たちの役目だ』って」
エマの目に涙が浮かんだ。
「私は言い返しました。『伝統だけじゃ、時代に取り残される』『母は私に、新しいことに挑戦しろって言った』って」
「二人とも……間違っていなかったのに……」
「でも、譲れなかったんです。姉さんも、私も」
エマは涙を拭った。
「喧嘩は、どんどんエスカレートしていきました。毎日のように言い争って。お客様の前でも、喧嘩してしまうことがありました」
「それは……」
「そして、ある日……」
エマの声が途切れた。
深呼吸をして、続ける。
「姉さんが言ったんです。『もう、あなたとは一緒にやれない。出て行って』って」
「リーゼさんが……」
「私も言い返しました。『望むところよ。私は私のやり方で、カフェを開く』って」
エマは顔を覆った。
「その夜、私は家を出ました。荷物をまとめて、友人の家に泊めてもらって。それから、必死で働いて、お金を貯めて……3年後、このモダンテラスを開きました」
「それが……7年前……」
「ええ。店を開いた日、姉さんが来ました」
エマは窓の外のリーゼの店を見た。
「でも、何も言わずに帰っていきました。それから、一度も話していません」
沈黙が流れた。
「後悔しています」
エマが呟いた。
「あの時、もっと冷静に話し合えばよかった。姉さんの気持ちも、わかっていたのに。父と母を失って、一人で店を守ろうとしていた姉さんの……」
「エマさん……」
「でも、もう遅いんです。10年も経って……今さら、何を……」
アリアは静かに言った。
「村に、秋桜が咲いていましたね」
「ええ。広場の端に、少しだけ」
「そこに行きましょう。あなたとお姉さんの、幸せだった頃の記憶を見せます」
エマは戸惑った様子だった。
「でも、それを見て……何が変わるんですか……」
「わかりません。でも、記憶は嘘をつきません」
アリアは立ち上がった。
「過去を思い出すことが、未来を変える第一歩になるかもしれません」
エマは迷った後、頷いた。
――――
広場の端、教会の裏手に小さな花壇があった。
秋桜が、風に揺れていた。
ピンク、白、赤。可憐な花が、秋の空の下で咲いている。
アリアは花の前にしゃがんだ。
「この花に、記憶があるはずです」
右手を掲げる。花の紋章が光り始めた。
そして、花びらに触れた。
光が広がった。
映像が浮かび上がる。
――――
同じ花壇。
でも、もっと広く、もっとたくさんの秋桜が咲いていた。
二人の少女が、花の前に座っていた。
10歳くらいと、3歳くらい。
「リーゼお姉ちゃん、この花綺麗ね」
幼いエマが言った。
「ええ。お母さんが育てているのよ」
若いリーゼが答えた。
「秋桜っていうの。秋に咲く、特別な花」
「特別なの?」
「ええ。収穫祭の時に、みんなでこの花を飾るのよ」
リーゼは花を一輪摘んだ。
「エマにあげる」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
エマは嬉しそうに花を受け取った。
二人は笑い合った。
映像が変わる。
少し年上になった姉妹。
リーゼは15歳、エマは8歳くらい。
カフェの厨房で、二人が並んで料理をしていた。
「エマ、栗の皮はこうやって剥くのよ」
「難しいよ、お姉ちゃん」
「大丈夫。ゆっくりやれば」
リーゼが優しく教える。
エマが懸命に栗を剥いている。
「できた!」
「上手ね。じゃあ、次はこれをクリームにするのよ」
二人で協力して、栗のタルトを作っていく。
完成したタルトを、父と母に見せる。
「素晴らしい!」
父が褒める。
「二人とも、本当に上手になったわね」
母が微笑む。
姉妹は誇らしげに笑い合った。
映像がまた変わる。
収穫祭の夜。
広場に人々が集まっている。
松明が灯り、テーブルには料理が並んでいる。
そして、中央に立つ姉妹。
リーゼは20歳、エマは13歳。
二人は秋桜の花輪を頭に乗せていた。
父と母も、すぐ横にいる。笑顔で娘たちを見守っている。
村人たちが輪になって、二人を囲んでいる。
エマが笛を吹き始めた。
優しい旋律が、夜空に響く。
そして、二人が歌い始めた。
リーゼの高い声。
「実りの秋に、感謝を込めて」
エマの低い声が重なる。
「大地の恵み、我らに」
二部合唱だった。
二つの声が絡み合い、調和していく。
「汗を流した、この手で」
「収穫の喜び、分かち合おう」
父と母も歌い始めた。
村人たちも声を合わせる。
子供たちが手拍子を始めた。
広場全体が、一つの歌声になっていく。
姉妹は笑顔で歌い続ける。
息もぴったり。
目を合わせて、微笑み合って。
「感謝の心、忘れずに」
「来る年も、豊かであれ」
最後の音が響き渡る。
拍手が起こった。
姉妹は抱き合った。
幸せそうに。
父と母も、二人を抱きしめた。
村人たちが祝福の声を上げる。
温かな夜。幸せな時間。
――――
映像が消えた。
光が引いていき、現実に戻る。
エマは泣いていた。
「お姉ちゃん……」
膝をついて、顔を覆う。
「私たち……あんなに仲が良かったのに……あんなに幸せだったのに……」
肩が激しく震える。
「お父さん……お母さん……ごめんなさい……」
アリアは何も言わず、そばにいた。
リリィが静かに舞い降りる。
エマは顔を上げた。涙で濡れた顔で、秋桜を見つめる。
「この歌……収穫の讃歌……」
「二部合唱なんですね」
「ええ……姉さんと私、二人で歌わないと……完成しない曲……」
エマは立ち上がった。
「お姉さんにも……この記憶を、見せてあげてください」
「いいんですか?」
「はい。もしかしたら……」
「もしかしたら、姉さんも……」
エマは黄金テラスを見た。
「同じように、後悔しているかもしれない」
アリアは頷いた。
「わかりました。リーゼさんにも会いに行きましょう」
二人は秋桜の前を離れた。
花は静かに揺れている。
姉妹の物語は、まだ終わっていない。
これから、本当の和解が始まろうとしていた。
アリアとエマは黄金テラスの前に立った。
「入れますか?」
「……はい」
エマは深呼吸をした。
扉を開けると、鈴が鳴った。
店内には、数組の客がいた。みんな、エマが入ってきたことに気づき、視線を向けた。
リーゼがカウンターから顔を上げた。
妹を見て、体が硬直する。
「……何の用?」
冷たい声だった。
「お姉ちゃん……話が……」
「話すことなんて、何もないわ」
リーゼは目を逸らした。
「帰って」
エマは唇を噛んだ。
アリアが前に出た。
「リーゼさん、私はアリアと申します。お話を聞いていただけませんか?」
「あなたは……」
「花守りです。失われた記憶と音楽を取り戻す旅をしています」
リーゼは戸惑った様子だった。
「花守り……?」
「はい。この村にも、失われた音楽があると聞いて」
「収穫の讃歌のこと……?」
リーゼの表情が変わった。
「でも、あの歌は……もう、歌えません」
「なぜですか?」
リーゼはエマを見た。
「……二人で歌わないと、完成しない曲だから」
エマが一歩前に出た。
「お姉ちゃん、私……」
「出て行って」
リーゼは背を向けた。
「お客様の迷惑になるわ」
エマは俯いた。
アリアはリーゼに近づいた。
「記憶を、見せたいんです」
「記憶……?」
「あなたとエマさんが、一緒に幸せだった頃の記憶を」
リーゼは首を振った。
「そんなもの、見たくない。過去は過去よ」
「でも……」
「帰ってください」
リーゼの声は震えていた。
アリアはエマを見た。エマは涙を堪えている。
「わかりました。では、また後で」
二人は店を出た。
扉が閉まる。
エマは広場のベンチに座り込んだ。
「やっぱり……無理なんです……」
「いえ」
アリアは隣に座った。
「リーゼさんも、辛そうでした」
「でも……」
「今は時間が必要です。少し待ちましょう」
――――
夕方になった。
店が閉まる時間だ。
アリアは一人で黄金テラスに戻った。
リーゼが店の掃除をしていた。
「……また来たの」
「はい。お話ししたくて」
リーゼは掃除の手を止めた。
「何を話すの?」
「あなたの気持ちを、聞かせてください」
リーゼは椅子に座った。
「……エマのことを聞きたいんでしょう?」
「ええ」
リーゼは窓の外を見た。モダンテラスの灯りが見える。
「憎んでいるわけじゃないのよ」
静かな声だった。
「ただ……許せないの。自分が」
「自分を……?」
「私が、追い出したのよ。妹を。たった一人の家族を」
リーゼの目に涙が浮かんだ。
「あの時、もっと冷静になれば……話し合えば……でも、私は……」
「リーゼさん……」
「母が死んで、店を任されて……私、必死だったの。父のレシピを守らなきゃ、母の想いを継がなきゃって。でも、エマは変えたがって……」
リーゼは顔を覆った。
「怖かったのよ。変化が。父も母もいない中で、何かを変えてしまったら……二人の想いまで消えてしまうような気がして」
「リーゼさんは……」
「エマは自由だったわ。新しいことに挑戦できて。でも、私は……伝統に縛られて、身動きが取れなくて」
リーゼは顔を上げた。
「羨ましかったのかもしれない。妹が。だから……拒んだのかも」
アリアは静かに聞いていた。
「でも、今は……」
「今は……?」
「今は、謝りたい。でも、10年も経って……どの顔で……」
リーゼは涙を拭った。
「エマのモダンテラス、見ていたわ。成功して、お客様が喜んでいて……」
「あなたも、成功していますよ」
「いいえ。客足は減る一方。若い人は来ない。このままじゃ……」
リーゼは店内を見回した。
「父と母が築いたものを、私は守れなかった」
アリアは立ち上がった。
「記憶を見てください」
「記憶……」
「あなたとエマさんが、一緒に歌っていた頃の記憶を」
アリアは右手を掲げた。花の紋章が光り始める。
「これは……」
「秋桜に宿っていた記憶です」
光が店内に満ちた。
そして、映像が浮かび上がった。
――――
幼い姉妹が、秋桜の前で笑い合っている。
「リーゼお姉ちゃん、この花綺麗ね」
「ええ。秋桜っていうの」
リーゼが花を摘んで、妹に渡す。
「エマにあげる」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
リーゼは息を呑んだ。
「これは……」
映像が変わる。
厨房で並んで料理をする姉妹。
「エマ、栗の皮はこうやって剥くのよ」
「難しいよ、お姉ちゃん」
「大丈夫。ゆっくりやれば」
優しく教える、若い自分。
リーゼの目から、涙が溢れた。
映像がまた変わる。
収穫祭の夜。
広場に人々が集まっている。
父と母が、娘たちを見守っている。
そして、姉妹が歌い始める。
「実りの秋に、感謝を込めて」
リーゼの高い声。
「大地の恵み、我らに」
エマの低い声が重なる。
二部合唱が、広場に響き渡る。
「汗を流した、この手で」
「収穫の喜び、分かち合おう」
父と母も歌う。
村人たちも声を合わせる。
一つの歌声になっていく。
「感謝の心、忘れずに」
「来る年も、豊かであれ」
姉妹は笑顔で歌っている。
息がぴったり。
目を合わせて、微笑み合って。
最後に、二人は抱き合った。
父と母も、娘たちを抱きしめた。
温かな夜。幸せな時間。
――――
映像が消えた。
リーゼは椅子から崩れ落ちた。
床に膝をつき、声を上げて泣いた。
「エマ……ごめんなさい……」
肩が激しく震える。
「私……あなたを……」
アリアは何も言わず、そばにいた。
どれくらい経っただろう。
リーゼは顔を上げた。
涙で濡れた顔で、しかし何かが変わった目で、アリアを見た。
「エマに……会えるかしら……」
「会いたいですか?」
「……ええ。謝りたい。10年遅いけど……でも、謝りたい」
アリアは微笑んだ。
「エマさんも、同じことを言っていました」
リーゼは目を見開いた。
「本当……?」
「本当です。二人とも、ずっと後悔していたんです」
リーゼは立ち上がった。
「今から……行ってもいいかしら……」
「その前に」
アリアは花図譜を取り出した。
「この曲のこと、もっと教えてください。収穫の讃歌」
リーゼは窓の外を見た。
「二部合唱なの。高音と低音が絡み合う、美しい曲」
「あなたが高音を……」
「ええ。エマが低音を歌う。二人の声が重なって、初めて完成する」
リーゼは目を閉じた。
「父が作った曲なの。母が歌詞を書いた。そして、私たちに教えてくれた」
「両親の……」
「ええ。家族の歌。そして、村の歌」
リーゼは振り返った。
「収穫祭の時、村中が集まって、この歌を歌ったわ。みんなで輪になって、手を繋いで」
「素敵ですね」
「でも、私たちが喧嘩してから……祭りもなくなった。誰も歌わなくなった」
リーゼは花図譜を見た。
「もう一度……歌えるかしら……エマと一緒に……」
「歌えます」
アリアは力強く言った。
「必ず」
リーゼは頷いた。
そして、エプロンを外した。
「行きましょう。エマのところへ」
二人は店を出た。
広場を横切り、モダンテラスへ向かう。
リーゼの足取りは、震えていた。
でも、止まらなかった。
10年ぶりに、姉が妹に会いに行く。
和解への、最初の一歩だった。
モダンテラスの扉を開けると、エマがカウンターで片付けをしていた。
顔を上げて――動きが止まった。
「お姉ちゃん……」
エマの目が見開かれた。
リーゼも立ち尽くした。
10年ぶりの、本当の対面。
沈黙が流れた。
エマの目から、涙が溢れ始めた。
「どうして……ここに……」
声が震えている。
「話が……あるの」
リーゼも震えていた。
「さっきは……冷たくしてごめんなさい。でも、あなたの言葉を聞いて……考えたの」
エマは唇を噛んだ。
「お姉ちゃん……本当に……」
「ええ」
リーゼは一歩、近づいた。
「ごめんなさい、エマ」
リーゼは顔を上げた。涙で濡れた顔で。
「あの時、あんなことを言うべきじゃなかった。あなたは間違っていなかった。私が……私が、臆病だっただけ」
エマは言葉を失った。
「変化が怖かったの。父も母もいなくなって、残されたものを守るので精一杯で……あなたの提案を、受け入れる余裕がなかった」
リーゼは一歩、近づいた。
「でも、本当は……あなたと一緒に、やりたかった。新しいことも、伝統も、両方大切にして」
エマは首を振った。
「私こそ……ごめんなさい」
涙が頬を伝った。
「お姉ちゃんの気持ち、わかっていたのに。一人で店を守ろうとしていたのに……私、自分のことばかり……」
「エマ……」
「お姉ちゃんを、一人にしてごめんなさい」
エマも一歩、近づいた。
二人は向かい合った。
「私も……寂しかった」
リーゼが呟いた。
「毎日、あなたの店を見ていたわ。賑わっているのを見て……嬉しくて、でも、悲しくて」
「私も……」
エマも呟いた。
「お姉ちゃんの店、見ていた。お姉ちゃんが一人で頑張っているのを見て……手伝いたかった。でも、謝れなくて……」
二人の距離が、さらに縮まった。
「もう一度……」
リーゼが手を伸ばした。
「一緒に、やり直せないかしら……」
エマは迷った。
でも、やがて――
姉の手を取った。
「……やり直したい」
二人は抱き合った。
10年分の涙が、溢れ出した。
「ごめんね、ごめんね」
「私こそ、ごめんなさい」
姉妹は泣きながら、抱き合い続けた。
アリアは静かに微笑んだ。
リリィが囁く。
「よかったわね」
「ええ……本当に」
――――
その夜、姉妹は話し合った。
二つの店を、一つにすること。
伝統と革新を、両方大切にすること。
父と母の想いを、一緒に継いでいくこと。
「名前は……黄金テラスのままでいい?」
エマが聞いた。
「ええ。でも、内装は一部変えましょう。あなたのアイデアを取り入れて」
リーゼが答えた。
「メニューも、お姉ちゃんのタルトと、私のモンブラン、両方出そう」
「それに、新しいメニューも作りましょう。二人で」
姉妹は笑い合った。
そして、アリアが言った。
「収穫祭を、やりませんか?」
二人は顔を見合わせた。
「収穫祭……」
「ええ。もう一度、村中が集まって。そして、収穫の讃歌を歌いましょう。二人で」
リーゼとエマは、少し迷った。
でも、やがて頷いた。
「……やりましょう」
――――
1週間後、収穫祭の夜が来た。
広場には、村中の人々が集まっていた。
久しぶりの祭りに、みんな笑顔だった。
テーブルには、姉妹が作った料理が並んでいる。
栗のタルト、栗のモンブラン、栗のスープ、キノコのリゾット。
そして、新作の「紅葉のラテアート」。
エスプレッソの上に、紅葉の葉を模様にした、美しいラテ。
「綺麗……」
「美味しそう……」
人々が次々と料理を取っていく。
広場の中央には、秋桜が飾られていた。
リーゼとエマが、その前に立った。
二人とも、秋桜の花輪を頭に乗せている。
「皆さん」
リーゼが声をかけた。
「10年ぶりに、収穫祭を開くことができました」
拍手が起こった。
「私たち姉妹は……長い間、離れ離れでした」
エマが続けた。
「でも、この方のおかげで……」
二人はアリアを見た。
「もう一度、一緒にやっていくことができます」
リーゼが微笑んだ。
「そして、今夜……久しぶりに、あの歌を歌います」
エマが笛を取り出した。
「収穫の讃歌を」
笛を吹き始める。
優しい旋律が、夜空に響いた。
そして、姉妹が歌い始めた。
リーゼの高い声。
「実りの秋に、感謝を込めて」
エマの低い声が重なる。
「大地の恵み、我らに」
二つの声が絡み合い、調和していく。
10年ぶりの、二部合唱。
「汗を流した、この手で」
「収穫の喜び、分かち合おう」
人々が聴き入っている。
やがて、一人、また一人と、歌い始めた。
村人たちが声を合わせる。
子供たちも歌い始める。
広場全体が、一つの歌声になっていく。
「感謝の心、忘れずに」
「来る年も、豊かであれ」
アリアは花の紋章を光らせた。
すると――
秋桜の花びらが、光となって舞い上がった。
ピンク、白、赤の光の粒子が、広場を包み込む。
「わあ……」
子供たちが歓声を上げた。
花びらが、音楽に合わせて踊っている。
姉妹の周りを舞い、人々の間を流れていく。
まるで、祝福するかのように。
最後の音が響き渡った。
静寂。
そして――
爆発的な拍手。
「素晴らしかった!」
「また聴けて、嬉しい!」
人々が姉妹に駆け寄る。
リーゼとエマは、再び抱き合った。
笑顔で、涙を流しながら。
アリアは静かに見守っていた。
リリィが囁く。
「成功ね」
「ええ」
――――
翌日、統合された新「黄金テラス」がオープンした。
店は以前より広くなり、内装も明るくなっていた。
伝統的な木の温もりと、モダンなガラスの明るさが融合している。
メニューも豊富になった。
リーゼの栗のタルト、エマの栗のモンブラン、そして二人で作った新作の数々。
特に人気なのは、「紅葉のラテアート」だった。
テラス席は満席だった。
若い人も、年配の人も、みんな笑顔で食事を楽しんでいる。
厨房では、姉妹が並んで料理をしていた。
「エマ、クリーム取って」
「はい、お姉ちゃん」
息がぴったり。
まるで、昔に戻ったかのように。
いや、昔よりもっと良い関係になっていた。
アリアは花図譜を開いた。
アンバーレイのページ。
秋桜のスケッチの下に、収穫の讃歌の楽譜を書き込む。
二部合唱の旋律が、紙の上に刻まれていく。
「三つ目の音楽……」
リリィが肩に止まった。
「あと9つね」
「ええ」
姉妹がテーブルに料理を運んできた。
「アリアさん、これ、お礼です」
栗のタルトと、栗のモンブラン、そして紅葉のラテアート。
「ありがとうございます」
「いいえ。私たちこそ、感謝しています」
リーゼが微笑んだ。
「あなたのおかげで、もう一度……姉妹でいられます」
エマも頷いた。
「本当に、ありがとうございました」
アリアは料理を味わった。
タルトは伝統の味。丁寧に、完璧に作られている。
モンブランは革新の味。軽やかで、新しい。
そして、ラテアートは二人の融合。美しく、調和している。
「美味しいです。本当に」
姉妹は嬉しそうに笑った。
「次の街でも、頑張ってください」
「はい」
アリアは立ち上がった。
「お元気で」
「アリアさんも」
店を出ると、広場には秋桜が咲いていた。
花々が風に揺れている。
幸せな記憶が、ここに残った。
アリアは花図譜を鞄にしまった。
「次へ行きましょう」
「ええ。冬の都市、クリスタリアが待ってるわ」
リリィが先を飛んでいく。
アリアは歩き始めた。
紅葉が、道を彩っている。
秋の風が、背中を押してくれている。
次の物語が、もうすぐ始まる。
そう、確信しながら。




