第5章 夏の都市サンフィーノ完結編
小屋の中は、簡素だった。
小さな暖炉、粗末な寝台、古い机と椅子。壁には漁の道具が掛けられ、隅には太鼓のバチが立てかけてあった。
タオは窓辺の椅子に座った。
背筋は曲がり、白髭は伸び放題。しかし、その目だけは鋭く、まだ力を失っていなかった。
「座れ」
アリアは机の前の椅子に座った。
タオはじっとアリアを見つめている。
「花守り……そんな者が、まだ存在していたとはな」
「ご存知なんですか?」
「儂が若い頃、一度だけ会ったことがある。花に触れて記憶を見る、不思議な力を持つ人だった」
タオは窓の外を見た。海が広がっている。
「あの方も、この街に音楽を取り戻そうとしていた。でも、戦争が始まって……それきりだ」
「30年前……」
「ああ。あの戦争で、すべてが変わった」
タオの声が沈んだ。
「で、お前さんは何が聞きたい? 祭りのことか?」
「はい。大漁行進曲を、もう一度この街に――」
「無理だ」
タオは即座に言った。
「祭りは二度と戻らん」
「でも……」
「儂も歌えん。太鼓も叩けん。もう、あの音楽は終わったんだ」
タオは立ち上がり、暖炉に薪を放り込んだ。
「帰ってくれ。お前さんに話すことは何もない」
アリアは立ち上がらなかった。
「タオさん。記憶が、消えかけています」
「消えればいい」
「でも――」
「消えた方が、楽なんだ!」
タオが振り返った。その目には、涙が浮かんでいた。
「思い出したくない。あの祭りも、あの音楽も、あの笑顔も……すべて、思い出したくないんだ」
アリアは黙った。
タオは再び椅子に座り、俯いた。
「戦争が来た時、儂は仲間たちと一緒に戦った。この街を守るために。でも……」
声が震えた。
「守れなかった。仲間は次々と倒れていった。儂だけが生き残った。なぜだ……なぜ、儂だけが……」
肩が震えている。
「祭りで一緒に太鼓を叩いた者たち。笛を吹いた者たち。歌った者たち。みんな、死んだ。儂の目の前で」
タオは顔を覆った。
「儂には、もう祭りをする資格がない。音楽を奏でる資格がない。一人だけ生き残った臆病者には……」
アリアは鞄からハンカチを取り出し、そっとタオに差し出した。
タオは受け取り、目を拭った。
「すまん……見苦しいところを……」
「いえ……」
沈黙が流れた。
暖炉の火が、パチパチと音を立てている。
アリアは鞄の中を探った。
「あの……これ、波音亭で買ってきたんです」
小さな包みを取り出す。
「海藻茶です。マリナさんが、『タオ親方の好物だった』と教えてくれて」
タオは包みを見た。
「マリナの……」
「一緒に、飲みませんか?」
タオは少し迷った後、頷いた。
「……火を使え。やかんはそこにある」
アリアは暖炉の火を使って湯を沸かした。海藻茶を淹れると、潮の香りが部屋に広がった。
二つのカップを机に置き、一つをタオに渡す。
「どうぞ」
タオはカップを受け取り、一口飲んだ。
「……懐かしい味だ」
「美味しいですね」
「ああ。この茶は、マリナの父親……儂の親友が好きだった」
タオは遠い目をした。
「あいつも、戦争で死んだ。儂の代わりに」
「代わりに……」
「儂を庇って、銃弾を受けた。『タオ、お前は生きろ。祭りを続けろ』と言い残して……」
タオはカップを両手で包んだ。
「でも、儂は続けられなかった。あいつの遺言を、守れなかった」
アリアも茶を飲んだ。
「タオさんは、何も悪くありません」
「そうだろうか……」
「戦争が悪いんです。あなたを責めるものは、何もない」
タオは首を振った。
「お前さんは優しいな。でも、儂は自分を許せない」
窓の外が、オレンジ色に染まり始めていた。
夕陽が沈もうとしている。
タオは立ち上がり、窓辺に立った。
海に沈む太陽を見つめる。
アリアも隣に立った。
二人は黙って、夕陽を見ていた。
波の音だけが、静かに響いている。
やがて、タオが口を開いた。
「本当は……」
小さな声だった。
「本当は、もう一度歌いたかった」
アリアはタオを見た。
「もう一度、太鼓を叩きたかった。仲間たちと一緒に、あの曲を奏でたかった」
タオの目から、涙が一筋流れた。
「祭りの夜、松明の灯りの中で、みんなで音楽を作っていたあの時間……あれが、儂の人生で一番幸せだった」
「タオさん……」
「でも、もう無理だ。仲間はいない。若い者たちは祭りを知らない。そして儂は……もう、声も出ない」
タオは喉に手を当てた。
「戦争の時、叫びすぎて声を壊した。今では、まともに歌うこともできん」
アリアは静かに聞いていた。
「それに、音楽を思い出そうとすると……仲間の顔が浮かぶ。死んでいく仲間の顔が。それが怖くて、思い出せないんだ」
夕陽が、水平線に沈みかけていた。
空が赤く染まり、海が金色に輝いている。
「でも……」
タオは空を見上げた。
「儂が死んだら、祭りの記憶も完全に消える。それだけは……それだけは、避けたい」
アリアは右手を掲げた。花の紋章が淡く光る。
「タオさん。記憶を、見せてください」
「記憶……?」
「あなたの中にある、祭りの記憶を。そうすれば、音楽を取り戻せます」
タオはアリアを見た。
「それで……祭りが戻るのか?」
「はい。必ず」
タオは長い間黙っていた。
夕陽が、ついに水平線に沈んだ。
空が紫色に変わり、最初の星が瞬き始める。
「……わかった」
タオは椅子に座った。
「何をすればいい?」
「ただ、思い出してください。一番幸せだった祭りの夜のことを」
アリアはタオの前にしゃがんだ。
「怖くても、悲しくても、大丈夫です。私が一緒にいます」
タオは目を閉じた。
深呼吸を何度か繰り返す。
そして――
「あれは……儂が50の時だったか……」
語り始めた。
「戦争の5年前。最後の、大きな祭りだった」
タオの声が、記憶の中へと沈んでいく。
「その年は大漁でな。港は魚で溢れていた。みんな、喜んでいた。祭りの準備も、いつも以上に盛大にやった」
「太鼓は……」
「ああ。儂が中心の太鼓を叩いた。左右に二人、仲間が控えていた。笛は10人。歌い手は20人以上いた」
タオの表情が、少しずつ穏やかになっていく。
「夜になって、松明に火を灯した。広場に人が集まってきた。子供たちが、わくわくした顔で見ていた」
「曲は……どんな曲でしたか?」
「力強く、明るく、でも少し哀愁がある……海の男たちの曲だ」
タオは目を開けた。
その目には、もう涙はなかった。
代わりに、遠い記憶の光が宿っていた。
「思い出してきた……あの曲を……」
アリアは微笑んだ。
「ゆっくりでいいです。一緒に、取り戻しましょう」
タオは頷いた。
窓の外では、星が増え始めていた。
小屋の中、二つの影が寄り添っている。
失われた音楽を取り戻すための、長い夜が始まろうとしていた。
「まず、曲の始まりから教えてください」
アリアは花図譜を開き、サンフィーノのページに辿り着いた。空白の五線譜が、音符を待っている。
タオは目を閉じた。
「最初は……静かに始まる。太鼓が一つ、ゆっくりと……ドン……ドン……」
タオが膝を叩く。低い音を真似るように。
「間隔は……これくらいだったか……」
アリアは耳を澄ました。リズムを覚える。
「次に、左右の太鼓が加わる。ドンドン……ドドン……」
リズムが複雑になっていく。
「そして笛が……」
タオは口笛を吹こうとしたが、かすれた音しか出なかった。
「すまん……声と同じで、口笛も吹けなくなった……」
「大丈夫です。音の高さだけ教えてください」
「高い音から入る……そして下がっていく……こう……」
タオが手で高さを示す。
アリアは頭の中で音を組み立てていく。
でも、断片的だ。タオの記憶だけでは、曲の全体像が見えない。
「タオさん、ひまわりの記憶をもう一度見てみます」
「花の記憶を……?」
アリアは右手を掲げた。花の紋章が光り始める。
「タオさんの記憶と、花の記憶を重ね合わせれば……」
光が部屋に満ちた。
そして、映像が浮かび上がる。
先ほど見た、途切れ途切れの記憶。
祭りの夜、松明、太鼓、笛。
「これは……」
タオは目を見開いた。
「儂の記憶じゃない……これは……」
映像の中の太鼓を叩く老人は、タオではなかった。
もう少し若い、50代くらいの男性。
「この人は……」
「ああ……ゲンゾウだ……」
タオの声が震えた。
「儂の親友……マリナの父親だ……」
映像の中のゲンゾウが、力強く太鼓を叩いている。
「そうか……これは、ゲンゾウの記憶なのか……」
アリアは頷いた。
「花は、たくさんの人の記憶を宿しています。あなただけじゃない。ゲンゾウさんの記憶も、他の人の記憶も」
映像が進む。
ゲンゾウの左右に、二人の若い漁師が太鼓を叩いている。
「あの二人は……」
タオが指差した。
「ジロウとサブロウ……今、港で網を繕っている若い漁師たちの祖父だ……」
映像の中の二人は、まだ20代だろうか。力強く、リズムを刻んでいる。
「笛は……」
映像が横に流れる。
笛を持った人々が並んでいる。
「あの女性は……タエ……今は亡くなったが、波音亭の先代の店主だ……」
タオが一人一人の名前を呼ぶ。
「ケンジ……ヨシオ……ハナ……」
声が詰まる。
「みんな……みんな、いなくなってしまった……」
アリアはタオの手を握った。
「でも、記憶は残っています。そして今、その記憶を繋ぎ合わせれば……」
映像から、音楽が流れ始めた。
太鼓の音。笛の音。
でも、やはり途切れ途切れだ。
「タオさん、あなたの記憶を教えてください。この部分、どんな音でしたか?」
アリアが映像の一箇所を指差す。
ノイズが走っている部分だ。
タオは集中した。
「ここは……笛が高く上がる……そして、太鼓が一斉に鳴る……」
タオが膝を叩く。
「ドドドドン! と……」
アリアは花の紋章に力を込めた。
タオの記憶と、花の記憶が重なる。
映像のノイズが消え、音楽が繋がった。
「できました……!」
リリィが飛び回る。
「その調子よ! どんどん繋げていって!」
アリアとタオは、記憶を辿り続けた。
映像を見ては止め、タオが思い出し、アリアが繋ぐ。
一音、また一音。
少しずつ、大漁行進曲の全容が明らかになっていく。
「ここは……歌が入るんだ」
タオが言った。
「海の男の歌……力強く、誇らしげに……」
「どんな歌詞でしたか?」
タオは少し考えた。
「『波を越えて、風を受けて、我らは行く、果てしなき海へ』……」
かすれた声で、タオが歌い始めた。
「『網を引けば、銀の魚、家族の笑顔、待つ港へ』……」
映像の中で、人々が同じ歌を歌っている。
声が重なり、調和していく。
「『感謝を込めて、海に祈る、豊かな恵み、永遠に』……」
タオの目から、涙が流れた。
でも、歌い続ける。
アリアも、そっと口ずさむ。
二人の声が、小屋の中に響いた。
映像の中の歌と、現実の歌が重なる。
時間を超えて、記憶が繋がっていく。
曲が中盤に差し掛かる。
リズムが速くなり、太鼓の音が激しくなる。
「ここが、行進のクライマックスだ」
タオが立ち上がった。
「人々が松明を掲げて、港を一周する。太鼓も笛も、全力で鳴らす」
タオが両手を動かし、太鼓を叩く仕草をする。
映像の中のゲンゾウも、同じように叩いている。
二人の動きが重なった。
まるで、時を超えて一緒に演奏しているかのように。
「ドドン! ドドン! ドドドドン!」
タオが声を上げる。
アリアは映像を見ながら、五線譜に音符を書き込んでいく。
ペンが走る。音符が並んでいく。
太鼓のリズム、笛の旋律、歌の言葉。
すべてが、紙の上に刻まれていく。
「そして、最後……」
タオが静かになった。
「静かに、終わる……」
映像の中で、行進が終わる。
ゲンゾウがバチを掲げる。
人々が歓声を上げる。
松明の灯りが、夜空を照らしている。
幸せな顔、笑顔、笑顔。
「これが……大漁行進曲……」
タオは椅子に座り込んだ。
「みんなで作った……この街の宝物……」
映像が消えた。
光が引いていき、小屋の中に戻る。
アリアは花図譜を見た。
五線譜が、音符で埋まっていた。
大漁行進曲の楽譜が、完成していた。
「できました……」
アリアはタオに楽譜を見せた。
タオは楽譜を見つめた。
震える手で、紙に触れる。
「これが……儂たちの音楽……」
声が詰まった。
「30年……30年ぶりに、形になった……」
タオは顔を覆った。
肩が激しく震える。
アリアは何も言わず、そばにいた。
どれくらい経っただろう。
タオは顔を上げた。
涙で濡れた顔で、でも穏やかな笑みを浮かべていた。
「ありがとう……本当に、ありがとう……」
「いえ……」
「これで、儂も仲間たちに顔向けができる……」
タオは窓の外を見た。
星空が広がっている。
「ゲンゾウ……ジロウ……サブロウ……みんな……」
タオは星に向かって呟いた。
「儂たちの音楽は、消えなかったぞ……」
アリアは花図譜を閉じた。
「タオさん、もう一度祭りをやりませんか?」
タオは振り返った。
「祭りを……?」
「はい。この楽譜を使って、若い人たちに教えて。そして、もう一度この街に音楽を取り戻しましょう」
タオは楽譜を見つめた。
「でも……儂はもう、声も出ないし……」
「大丈夫です。教えることはできます。そして……」
アリアは微笑んだ。
「みんなが演奏すれば、あなたの声も、仲間たちの声も、その中に生き続けます」
タオは長い間黙っていた。
やがて、頷いた。
「……やってみよう」
小さな声だった。
でも、そこには決意があった。
「明日、港へ行く。若い者たちを集めて……この音楽を、伝える」
アリアは立ち上がった。
「私も手伝います」
「ああ……頼む」
タオも立ち上がった。
背筋が、少しだけ伸びていた。
窓の外で、波の音が響いている。
明日から、新しい物語が始まる。
失われた音楽が、この街に戻ってくる。
アリアは花図譜を胸に抱いた。
二つ目の街でも、役目を果たせそうだ。
そう、確信していた。
翌朝、タオは30年ぶりに港へ降りてきた。
漁師たちは驚いた顔で、老人を迎えた。
「親方……!」
「久しぶりだな」
タオは背筋を伸ばして立っていた。
「集まってくれ。話がある」
広場に、20人ほどの漁師が集まった。若い者も、年配の者もいる。
タオは楽譜を掲げた。
「これを見ろ。大漁行進曲の楽譜だ」
ざわめきが起こった。
「30年前に失われた、この街の祭りの音楽だ。それが、この花守りの方のおかげで、蘇った」
アリアが前に出た。
「私はアリア。失われた記憶と音楽を取り戻す旅をしています」
漁師たちが、興味深そうにアリアを見る。
「祭りを、もう一度やりたい」
タオが言った。
「この街に、音楽を取り戻したい。そして、海に感謝を捧げたい」
「でも、親方……」
若い漁師の一人が言った。
「俺たち、太鼓も笛も、やったことないですよ」
「教える。儂が、一から教える」
タオの声には力があった。
「儂にはもう時間がない。だが、お前たちに伝えることはできる。この街の宝を、次の世代に」
漁師たちは顔を見合わせた。
やがて、一人が手を挙げた。
「やります! 親方!」
「俺も!」
「俺も手伝います!」
次々と声が上がった。
タオは頷いた。
「よし。今日から、特訓だ」
――――
その日から、港は変わった。
毎日、太鼓の音が響くようになった。
タオが中心となり、若い漁師たちに教えていく。
「リズムはこうだ。ドン、ドン、ドドン……」
タオがバチで叩く。
若い漁師たちが真似る。
最初はバラバラだった音が、少しずつ揃っていく。
笛の練習も始まった。
「息を深く吸って……そして、真っ直ぐ吹け」
タオが指導する。
かすれた音しか出なかった笛が、徐々に澄んだ音色になっていく。
3日目には、歌の練習も始まった。
「声を張れ! 海の男の歌だぞ!」
「波を越えて、風を受けて、我らは行く、果てしなき海へ!」
男たちの声が、港に響き渡る。
女性たちも加わった。
マリナも波音亭から駆けつけ、練習に参加した。
「父が歌っていた歌……私も歌いたい」
涙を流しながら、声を合わせる。
子供たちも集まってきた。
「僕も!」
「私も!」
街全体が、祭りの準備に動き始めた。
一方、アリアはひまわり畑にいた。
枯れかけていたひまわりの前で、花の紋章を光らせる。
「記憶の力を……花に」
光がひまわりを包んだ。
蘇った記憶が、花に流れ込んでいく。
幸せだった祭りの記憶。人々の笑顔。音楽。
ひまわりが、徐々に元気を取り戻し始めた。
萎れていた花びらが、ピンと伸びる。
葉の黄色が、緑に戻る。
茎が太くなり、しっかりと立ち上がる。
一輪、また一輪。
ひまわり畑全体が、生き返っていった。
「すごい……」
リリィが驚いた声を上げた。
「花が、笑ってるみたい」
本当に、ひまわりは太陽に向かって笑っているように見えた。
――――
7日後、祭りの日が来た。
夕方、港の広場に人々が集まり始めた。
漁師たち、その家族、商店の人々、子供たち。
久しぶりに、街が賑やかだった。
広場の中央には、3つの大きな太鼓が置かれていた。
その周りに、笛を持った人々が並ぶ。
松明が立てられ、火が灯された。
オレンジ色の光が、広場を照らす。
タオが前に出た。
「皆、よく集まってくれた」
老人の声が、静かに響く。
「30年前、この街から音楽が消えた。仲間を失い、希望を失い、儂たちは祭りをやめた」
タオは空を見上げた。
「だが、今日……音楽が戻ってくる。失われた記憶が、蘇る」
タオは太鼓の前に立った。
「この音楽は、儂たち一人一人の宝物だ。そして、海への感謝だ。さあ、始めよう」
タオがバチを掲げた。
深呼吸。
そして――
ドン。
最初の一音が、夜空に響いた。
深く、力強い音。
ドン、ドン、ドン……
リズムが刻まれていく。
左右の太鼓が加わった。
若い漁師たちが、懸命に叩く。
ドンドン、ドドン……
笛が加わった。
高い音色が、太鼓の低音に重なる。
そして、歌が始まった。
「波を越えて、風を受けて、我らは行く、果てしなき海へ!」
男たちの力強い声。
「網を引けば、銀の魚、家族の笑顔、待つ港へ!」
女たちの明るい声が重なる。
「感謝を込めて、海に祈る、豊かな恵み、永遠に!」
子供たちも歌い始めた。
音楽が、広場を満たしていく。
大漁行進曲が、30年ぶりに蘇った。
人々が動き始めた。
列を作り、松明を掲げ、行進を始める。
太鼓と笛が先導し、人々がその後に続く。
広場を出て、港沿いの道を進む。
アリアは行列の横で、花の紋章を光らせた。
すると――
不思議なことが起きた。
ひまわりの花びらが、光となって舞い上がった。
黄色い光の粒子が、行列を包み込む。
「わあ……!」
子供たちが歓声を上げた。
花びらが、音楽に合わせて踊っている。
太鼓のリズムで跳ね、笛の音色で旋回する。
まるで、本物の花吹雪のように。
行列は港を一周した。
船の周りを巡り、海に向かって歌う。
「豊かな恵み、永遠に!」
タオは太鼓を叩きながら、涙を流していた。
マリナも、笛を吹きながら泣いていた。
でも、誰も演奏を止めない。
音楽は続く。
広場に戻ると、人々は輪になって踊り始めた。
街中が、音楽と笑顔に溢れていた。
タオは太鼓を叩き終え、バチを掲げた。
最後の一音が響き渡る。
そして、静寂。
一瞬の後――
爆発的な歓声が上がった。
「素晴らしかった!」
「また祭りができた!」
人々が抱き合い、涙を流し、笑い合う。
タオは太鼓の前で、膝をついた。
「ゲンゾウ……みんな……見てくれたか……」
老人は空を見上げた。
星が、いつもより明るく輝いているように見えた。
アリアはタオの隣にしゃがんだ。
「お疲れ様でした」
「ああ……ありがとう……」
タオはアリアの手を握った。
「お前さんのおかげだ。本当に……」
マリナが駆け寄ってきた。
「親方! アリアさん! ありがとうございます!」
マリナは二人を抱きしめた。
「父が……父がきっと、喜んでいます……」
三人は、しばらくそうしていた。
祭りの余韻が、まだ空気に残っていた。
――――
翌朝。
漁師たちが海に出た。
いつもと同じように網を下ろす。
でも、今日は何かが違った。
網を引き上げると――
「うわあ!」
網が、魚で溢れていた。
銀色に輝く魚が、跳ねている。
「大漁だ! 大漁だぞ!」
漁師たちの歓声が、海に響いた。
一隻、また一隻。
どの船も、記録的な漁獲だった。
港に戻ると、魚で溢れかえっていた。
「こんなの、30年ぶりだ!」
「奇跡だ!」
タオは港を見渡した。
活気が戻っていた。
笑顔が戻っていた。
マリナが波音亭から飛び出してきた。
「親方! アリアさん! 見てください!」
彼女は涙を流しながら、魚を掲げた。
「父が……父が贈ってくれたんだわ……」
アリアは微笑んだ。
ひまわり畑を見ると、花々が太陽に向かって咲き誇っていた。
元気に、力強く、黄色い花びらを広げて。
リリィが囁いた。
「成功ね」
「ええ……」
アリアは花図譜を開いた。
サンフィーノのページ。
ひまわりのスケッチの下に、大漁行進曲の楽譜が刻まれている。
二つ目の音楽が、記録された。
「次へ行きましょう」
「ええ。でも、その前に……」
アリアは波音亭を見た。
「お別れの挨拶を」
港は、活気に満ちていた。
失われた音楽が、街に命を吹き込んでいた。
アリアは、この光景を胸に刻んだ。
また一つ、幸せな記憶が生まれた。
そして、旅は続く。
次の街へ。次の音楽へ。
祭りの翌日、マリナはアリアを波音亭に招いた。
「今日は特別なメニューを用意しました」
テラス席に案内されると、テーブルには豪華な料理が並んでいた。
焼き魚、海鮮のスープ、貝のマリネ、イカのフライ。
すべて、昨日獲れたばかりの新鮮な魚介類だ。
「わあ……」
アリアは目を輝かせた。
「こんなにたくさん……」
「これは父のレシピです」
マリナが微笑んだ。
「父がまだ生きていた頃、大漁の日にはいつもこの料理を作っていました。でも、もう何年も作る機会がなくて……」
マリナは椅子に座った。
「昨日、本当にありがとうございました。あなたのおかげで、この街に音楽が戻ってきました」
「いえ、私は……」
「いいえ」
マリナは首を振った。
「あなたがいなければ、タオ親方も動かなかった。祭りも戻らなかった。魚も獲れなかった」
マリナの目が潤んだ。
「父が最後に言ったんです。『いつか、きっと祭りが戻ってくる。その時は、この料理を作ってやってくれ』って」
「お父様……」
「父の願いが、叶いました」
マリナは涙を拭った。
「さあ、召し上がってください。冷めないうちに」
アリアは焼き魚を一口食べた。
身がふっくらとしていて、塩加減が絶妙だった。
「美味しい……」
「でしょう? 父の自慢の味付けなんです」
マリナも一緒に食べ始めた。
二人は海を見ながら、ゆっくりと食事を楽しんだ。
波の音が、心地よく響いている。
「アリアさんは、これからどこへ?」
「次の街へ。まだ、10の街が待っています」
「10も……」
マリナは驚いた様子だった。
「大変ですね。でも……きっと、他の街の人たちも、あなたを待っています」
「そうだといいんですけど」
アリアは花図譜を取り出した。
「これに、記録していくんです」
ページを開き、サンフィーノのページを見せる。
ひまわりのスケッチと、大漁行進曲の楽譜。
「素敵……」
マリナは楽譜を見つめた。
「これが、父たちの音楽なんですね」
「ええ。これで、永遠に残ります」
アリアはペンを取り出した。
ひまわりのスケッチの横に、小さく文字を書き加える。
『サンフィーノの夏。人々の笑顔と共に』
「ありがとうございます」
マリナは微笑んだ。
食事が終わる頃、港からタオが歩いてきた。
「おお、アリアさん。ここにいたか」
「タオさん」
タオはテラスに上がってきた。
「今日も大漁だったぞ。若い者たちが喜んでいる」
「よかった……」
「これも、お前さんのおかげだ」
タオはアリアの隣に座った。
「儂は、もう長くない。でも、お前さんに会えて、祭りを取り戻せて……悔いはない」
「タオさん……」
「次の街でも、頼んだぞ」
タオはアリアの手を握った。
「失われた音楽を、取り戻してやってくれ。そして、人々に笑顔を」
「はい。約束します」
タオは頷き、立ち上がった。
「さて、儂は港に戻る。まだ、若い者たちに教えることがあるからな」
「お元気で」
「ああ。お前さんもな」
タオは手を振り、港へと戻っていった。
背中が、以前よりずっとしっかりしているように見えた。
マリナがコーヒーを淹れてくれた。
「これ、サービスです」
「ありがとうございます」
アリアは温かいコーヒーを飲みながら、海を眺めた。
港では、漁師たちが次の出航の準備をしている。
船に網を積み、燃料を補給し、声を掛け合っている。
活気があった。
「いい光景ですね」
「ええ。久しぶりに見ました、こんな港」
マリナは目を細めた。
「父が生きていたら、きっと喜んだでしょうね」
やがて、船が動き始めた。
一隻、また一隻。
船団が港を出て、海へと向かっていく。
漁師たちが手を振っている。
アリアとマリナも、テラスから手を振り返した。
「行ってらっしゃい!」
「大漁を!」
船は沖へと進んでいった。
白い航跡を残して、水平線へ。
リリィがアリアの肩に止まった。
「二つ目の記憶、集まったね」
「ええ」
アリアは花図譜を閉じた。
「あと10の街」
「長い旅になるわね」
「でも、一つずつ」
アリアは立ち上がった。
「マリナさん、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。また、いつでも来てくださいね」
マリナが抱きしめてくれた。
「あなたのことは、忘れません」
「私も」
二人は離れた。
アリアは波音亭を後にした。
港を歩き、街の中心部へと向かう。
振り返ると、マリナがまだテラスから手を振っていた。
アリアも手を振り返した。
ひまわり畑の前を通る。
花々が太陽に向かって咲いている。
元気に、力強く。
「ありがとう」
アリアは花に囁いた。
「あなたたちのおかげで、音楽が戻りました」
ひまわりが、風に揺れた。
まるで、応えるかのように。
アリアは街の門へと向かった。
次の季節へ。次の街へ。
秋の都市、アンバーレイが待っている。
リリィが先を飛んでいく。
「さあ、行きましょう!」
アリアは歩き始めた。
振り返ると、サンフィーノの街が朝日に輝いていた。
白い壁、青い屋根、そして港の活気。
幸せな記憶が、ここに残った。
「さよなら、サンフィーノ」
アリアは呟いた。
そして、前を向いた。
道は続いている。
花図譜の残りのページが、埋まるのを待っている。
アリアは、希望を胸に歩き続けた。
次の物語が、もうすぐ始まる。




