第4章 花図譜の秘密
街道を歩いて2時間ほど経った頃、荷馬車が追いついてきた。
「おや、旅の方かね? 乗っていくかい?」
御者は中年の男性で、親切そうな笑顔を浮かべていた。
「ありがとうございます!」
アリアは荷台に乗せてもらった。積まれた荷物の間に座ると、馬車はゆっくりと動き出した。
「どこまで行くんだい?」
「夏の都市、サンフィーノまで」
「サンフィーノか。あと半日ほどの道のりだな」
馬車の揺れが心地よかった。アリアは鞄から花図譜を取り出した。
革の表紙を撫でる。重厚で、長い年月を経た風格がある。
ページを開くと、最初に現れるのは12都市の地図だった。
円形に配置された都市。それぞれに名前が記されている。
春の都市:フロリア、ヴェルナ、プリマヴェーラ。
夏の都市:サンフィーノ、エスティヴァ、カニクラ。
秋の都市:アンバーレイ、オータム、ハーヴェスト。
冬の都市:クリスタリア、ヒエマ、ニヴェウス。
そして中央に、すべての季節が交わる場所――エデンヴェール。
「12の街……」
アリアは地図を指でなぞった。
次のページをめくる。
フロリアのページが現れた。
桜のスケッチが描かれている。繊細な線で、一枝一枝が丁寧に描き込まれていた。
その下には、五線譜。
今はもう、空白ではなかった。
昨夜、演奏会が終わった後、アリアはこのページに記録していた。
春風のワルツの楽譜。セレスが取り戻した旋律が、音符となって刻まれている。
「これが……一つ目」
リリィが肩に止まった。
「そうよ。あと11の街」
アリアはさらにページをめくっていく。
サンフィーノのページ。
ひまわりのスケッチがあった。大きく咲き誇る花が、太陽に向かって伸びている。
でも五線譜は空白のまま。
エスティヴァ、カニクラも同じ。それぞれ夏の花のスケッチと、空白の五線譜。
秋の都市も、冬の都市も、すべて同じだった。
美しいスケッチと、音符を待つ五線譜。
「先代の花守りは……ここまで準備していたんですね」
「ええ。でも、完成させることはできなかった」
リリィが静かに言った。
「戦争が始まって、すべてが止まってしまった」
アリアは手帳を閉じた。
「でも、今度は完成させます。必ず」
「ところで、アリア」
リリィが首を傾げた。
「疑問に思わない? なぜ、記憶と音楽を集めるのか」
「それは……失われたものを取り戻すため、ですよね?」
「それもあるわ。でも、もっと大きな理由があるの」
リリィの羽が、淡く光った。
「12の音楽をすべて集めた時……何かが起こる」
「何かって……?」
「それは、まだわからない。でも、先代の花守りは知っていたはず。だから、こうして12の都市を巡ろうとしていた」
アリアは花図譜を見つめた。
「秘密が……隠されているんですね」
「ええ。それを知るには、旅を続けるしかないわ」
馬車は街道を進み続けていた。
やがて、景色が変わり始めた。
桜の木が少なくなり、代わりに緑の濃い木々が増えてくる。
空気が、少しずつ暖かくなっていく。
「もうすぐ、季節の境界線よ」
リリィが言った。
「境界線……?」
「春と夏の境目。ここを越えると、季節が変わるの」
前方に、不思議な光景が見えてきた。
空気が揺らいでいる。まるで、透明なカーテンのように。
光が屈折して、虹色に輝いている。
馬車がその揺らぎに近づいていく。
「綺麗……」
アリアは息を呑んだ。
そして――
馬車が、境界線を越えた。
一瞬、世界が光に包まれた。
視界が真っ白になり、何も見えなくなる。
でも、すぐに光は引いていった。
目を開けると、景色が一変していた。
桜はもうない。
代わりに、青々とした木々が並んでいる。
空は、さらに青く澄んでいた。
そして、気温が明らかに高くなっている。
「夏……」
アリアはコートを脱いだ。
「ようこそ、夏の季節へ」
リリィが笑った。
馬車は夏の街道を進んでいく。
道の両脇には、色とりどりの夏の花が咲いていた。ひまわり、朝顔、百日紅。
風が吹くと、潮の香りが混じっていた。
「海が近い……」
「ええ。サンフィーノは海辺の街よ」
やがて、前方に青い輝きが見えてきた。
海だ。
広大な、どこまでも続く青い海。
太陽の光が水面に反射して、きらきらと輝いている。
「わあ……」
アリアは立ち上がった。
海岸線に沿って、白い建物が並んでいる。街だ。
「サンフィーノよ」
港町だった。
漁船が何隻も停泊し、網が干してある。
でも、どこか活気がない。人の姿もまばらだった。
馬車が街の入口で止まった。
「ここまでだよ」
「ありがとうございました」
アリアは馬車を降りた。
海風が髪を揺らす。潮の香りが強くなった。
リリィが飛び回った。
「さあ、二つ目の街よ。ここにも、失われた音楽があるはず」
アリアは花図譜を鞄にしまった。
サンフィーノの街を見渡す。
白い壁の建物。青い屋根。石畳の道。
そして、港の向こうに広がる、ひまわり畑。
でも、ひまわりは元気がないように見えた。
「何が失われているんでしょう……」
「それを見つけるのが、あなたの役目よ」
アリアは歩き始めた。
石畳の道を、海の方へ。
どこかに、カフェがあるはずだ。
そして、そこに記憶が眠っているはずだ。
夏の太陽が、背中を照らしている。
新しい物語が、始まろうとしていた。
石畳の道を歩きながら、アリアは街の様子を観察した。
サンフィーノは、海辺の美しい街だった。
白い壁の建物が並び、青い屋根が太陽の光を反射している。窓辺には花が植えられ、壁には蔦が這っている。
でも、どこか寂しかった。
道を歩く人は少なく、すれ違っても挨拶を交わすこともない。みんな、疲れた表情で俯いて歩いていた。
港に出た。
漁船が何隻も停泊している。でも、動いている船はほとんどない。
網を繕う老漁師が一人、黙々と作業をしていた。
「すみません」
アリアが声をかけると、老漁師は顔を上げた。
「旅の方かね」
「はい。この街は……いつも、こんなに静かなんですか?」
老漁師は深いため息をついた。
「ああ。もう何年も、こうだ」
「何年も……」
「不漁が続いているんだ。網を下ろしても、魚がかからない。海に出ても、何も獲れない日が続く」
老漁師は海を見た。
「昔は違った。この港は活気に溢れていて、毎日大漁だった。夏祭りには、街中が賑わって……」
声が遠くなる。
「でも、今は……若い衆も希望を失って、街を出て行く者が増えた。残っているのは、わしみたいな年寄りばかりだ」
アリアは港を見渡した。
確かに、若い人の姿はほとんど見えない。
「祭りは……今もやっているんですか?」
「いや。もう10年以上、やっていない。祭りの音楽を知る者も、楽器を弾ける者も、みんないなくなってしまった」
音楽……
アリアの胸が高鳴った。
「ありがとうございました」
老漁師に礼を言って、アリアはさらに街を歩いた。
港沿いに、小さなカフェが見えてきた。
海に面したテラス席のある、こじんまりとした店。
看板には「波音亭」と書かれていた。
扉を開けると、鈴が鳴った。
店内は、誰もいなかった。
カウンターと数脚のテーブル。壁には漁師たちの写真が飾られている。昔の、賑やかだった頃の写真だろう。
「いらっしゃいませ」
奥から、女性が現れた。
40代だろうか。日焼けした肌、短めの黒髪、快活そうな目元。でも、その表情には疲れが滲んでいた。
「お一人様ですか?」
「はい。コーヒーを一つ、お願いします」
「かしこまりました。テラス席と店内、どちらがよろしいですか?」
「テラスで」
外に出ると、海風が心地よかった。
テーブルに座り、海を眺める。
波の音が、穏やかに響いていた。
やがて、女性がコーヒーを運んできた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
アリアは一口飲んだ。少し苦いが、深い味わいだった。
「美味しいです」
女性の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「ありがとうございます。私、この店の店主でマリナと申します」
「アリアです。旅をしていて、この街に立ち寄りました」
マリナはテラスの柵に寄りかかり、海を見た。
「旅、いいですね。私も若い頃は、いろんな街を見て回りたいと思っていました」
「今は……」
「今は、この店を守るので精一杯です」
マリナは苦笑した。
「お客様も、めっきり減ってしまって。昔は漁師たちで賑わっていたんですけどね」
「不漁だと、聞きました」
「ええ。もう10年以上、まともな漁獲がありません。漁師たちも疲弊して……希望を失っています」
マリナは空を見上げた。
「父も漁師でした。この店は、父が獲ってきた魚を使った料理を出すために、母が始めたんです」
「お父様は……」
「3年前に亡くなりました。最後まで、海に出続けていました。魚が獲れなくても、海を愛していた人でした」
マリナの目が潤んだ。
「父が生きていた頃は、まだ祭りもありました。夏の大漁祭り。漁師たちが太鼓と笛を鳴らして、街中を練り歩く。松明を灯して、夜通し踊る……」
「素敵ですね」
「ええ。でも、もう……」
マリナは首を振った。
「祭りの音楽を知る人も、楽器を演奏できる人も、ほとんどいなくなりました。若い世代は街を出て行き、残った年寄りたちも、祭りをやる気力を失ってしまって」
アリアはコーヒーを飲み干した。
「お店の周り、ひまわりが咲いていましたね」
「ああ、あれは父が植えたんです。『夏の花は元気をくれる』って言って。でも、今年は……」
マリナは港の方を指差した。
アリアは立ち上がり、柵から身を乗り出して見た。
港の近くに、小さなひまわり畑があった。
でも、ひまわりは元気がなかった。
花が下を向き、葉が黄色く枯れかけている。茎も細く、今にも倒れそうだった。
「水も肥料もやっているんですけど……なぜか、元気がないんです。まるで、この街と同じように」
アリアは花図譜のことを思い出した。
サンフィーノのページには、ひまわりのスケッチがあった。
大きく咲き誇る、太陽に向かって伸びるひまわり。
「あの……マリナさん」
「はい?」
「あのひまわり畑のこと、もっと教えていただけませんか?」
マリナは少し考えた。
「父が植えたのは50年ほど前です。祭りの時期に合わせて、毎年咲くように。でも、祭りがなくなってから、ひまわりも元気を失っていったような……」
「祭りと、ひまわりが……」
「ええ。不思議ですよね。まるで、この花が祭りの記憶を持っているみたいに」
マリナは少し考え込んだ様子で言った。
「あの、もしタオ親方に会うことがあったら……海藻茶を渡してあげてください。親方の好物なんです。父もよく一緒に飲んでいました」
「海藻茶……」
「ええ。ここでも売っていますよ。少しお待ちください」
マリナは店の奥に消え、小さな包みを持って戻ってきた。
「これです。どうぞ、持っていってください」
「ありがとうございます」
アリアは包みを受け取った。
アリアの右手が、微かに温かくなった。
花の紋章が、淡く光っている。
「マリナさん、あのひまわり畑に行ってもいいですか?」
「ええ、構いませんけど……」
「ありがとうございます」
アリアは代金を払い、波音亭を後にした。
リリィが囁く。
「記憶があるわね、あの花に」
「ええ。確かめないと」
ひまわり畑へ向かう足取りが、速くなった。
ひまわり畑に着いた。
枯れかけたひまわりが、何十本も並んでいる。かつては太陽に向かって伸びていたであろう花々が、今は力なく下を向いていた。
アリアは一番大きなひまわりの前にしゃがんだ。
「この花なら……」
リリィが肩から飛び立ち、花の周りを旋回した。
「記憶はあるわ。でも、とても弱い」
「それでも、試してみます」
アリアは深呼吸をした。右手を掲げる。花の紋章が淡く光り始めた。
そして、花びらにそっと触れた。
最初は何も起こらなかった。
でも、じっと集中していると――
かすかな温もりが指先に伝わってきた。
光が、弱々しく灯った。
視界が揺らぎ、映像が流れ始める。
――――
夜だった。
港の広場。
松明が何本も立てられ、炎が揺れている。オレンジ色の光が、周囲を照らしていた。
人々が集まっている。漁師たち、その家族たち、子供たち。みんな笑顔だった。
映像が揺れる。ノイズが走る。
画面が乱れたテレビのように、映像が途切れそうになる。
「しっかりして……」
アリアは集中力を高めた。
映像が再び安定する。
広場の中央に、太鼓が置かれていた。大きな和太鼓が3つ。
その周りに、笛を持った人々が並んでいる。
一人の老人が前に出てきた。白い髭を生やした、背筋の伸びた老人。手には太鼓のバチを持っている。
老人が合図をした。
ドン――
太鼓の音が響いた。
深く、力強い音。
ドン、ドン、ドン――
リズムが刻まれる。
笛が加わった。
高い音色が、太鼓の低音に重なる。
人々が動き始めた。列を作り、広場を歩き始める。
これが、大漁行進曲だ。
太鼓と笛が奏でる、夏の祭りの音楽。
映像がまた揺れた。
ノイズが増えていく。
でも、音楽は続いている。
漁師たちが松明を掲げながら行進する。
子供たちが笑いながら後ろをついていく。
女性たちが手拍子を打つ。
港全体が、音楽と光に包まれていた。
行進は港を一周し、船の周りを巡る。
豊漁を祈る儀式。海への感謝。
太鼓の音が、さらに力強くなる。
笛の音が、高く響き渡る。
人々の歓声が重なる。
「大漁だ!」
「今年も豊漁を!」
笑顔、笑顔、笑顔。
幸せに満ちた夜。
でも――
映像が激しく揺れた。
ノイズが画面を覆い始める。
音楽が途切れる。
人々の姿が消えかける。
「待って……!」
アリアは必死に集中した。
映像がかろうじて戻る。
祭りの最後の場面。
老人が太鼓を叩き終え、バチを掲げる。
人々が歓声を上げる。
そして――
映像が完全に途切れた。
ノイズだけが残り、やがてそれも消えた。
――――
アリアは花から手を離した。
額に汗が浮かんでいる。息が上がっていた。
「大丈夫?」
リリィが心配そうに飛んできた。
「ええ……でも、記憶が……、薄れてるのよ」
リリィの声が沈んだ。
「花の記憶は、人の記憶と繋がっている。誰かが覚えていれば、花の記憶も強く残る。でも、誰も覚えていなければ……」
「消えてしまう……」
アリアは立ち上がった。ふらついて、一瞬バランスを崩す。
「無理しないで」
「大丈夫です。でも、急がないと……」
アリアはひまわりを見た。
「この花の記憶が完全に消える前に、誰かを見つけないと。祭りのことを覚えている人を。さっき見た映像の中の老人……。あの方が、鍵ですね」
アリアは港に戻った。
網を繕っていた老漁師に声をかける。
「すみません、もう一度お聞きしたいことが」
老漁師は顔を上げた。
「夏祭りで、太鼓を叩いていた方をご存知ありませんか? 白い髭を生やした、背筋の伸びた方です」
老漁師は目を細めた。
「ああ……タオ親方のことかね」
「タオ……」
「この港の最年長の漁師だ。祭りの太鼓は、いつも親方が叩いていた。音楽も、親方がみんなに教えていたんだ」
「その方は、今……」
「岬の小屋に住んでいる。一人でな」
老漁師は遠くを指差した。
「あそこに見える、岬の突端だ。でも……」
「でも?」
「親方は、もう誰にも会いたがらない。戦争で仲間を失ってから、ずっと一人で暮らしている。訪ねても、追い返されるだけだと思うが……」
アリアは岬を見た。
海に突き出た岩場の先に、小さな小屋が見えた。
「行ってみます」
「そうか……」
老漁師は首を振った。
「親方も、もう80を超えている。いつまで元気でいてくれるか……祭りの記憶を持つ最後の人なのに」
「ありがとうございました」
アリアは岬へ向かって走り出した。
石畳の道を抜け、岩場を登る。
足元が不安定で、何度も滑りそうになった。
リリィが先を飛んでいく。
「急いで! 記憶が消える前に!」
岬の突端に、古い小屋があった。
壁は風雨に晒されて色褪せ、屋根は一部が壊れている。
窓からは光が漏れていた。誰かいる。
アリアは扉をノックした。
「すみません! タオさん、いらっしゃいますか!」
返事はない。
もう一度ノックする。
「お願いします! お話を聞かせてください!」
沈黙。
やがて、中から低い声が聞こえた。
「帰れ」
「タオさん、私は――」
「帰れと言っている! 誰にも会いたくない!」
扉は開かなかった。
アリアは扉に手を当てた。
「祭りのことを、教えてください。大漁行進曲のことを」
中の気配が変わった。
「……なぜ、その名を知っている」
「ひまわりが、教えてくれました。花の記憶が……」
扉が、わずかに開いた。
隙間から、老人の目が覗いた。
鋭い目。でも、深い悲しみを湛えた目。
「花の……記憶……?」
「はい。私は花守りです。失われた記憶を取り戻すために、旅をしています」
老人は黙って、アリアを見つめた。
長い沈黙の後――
扉が開いた。
「……入れ」
小さな声だった。
アリアは小屋に入った。
タオとの、対話が始まろうとしていた。




