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花と音楽のカフェ巡り~記憶を紡ぐ異世界巡礼~  作者: 雨音トキ


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第2章 音を失った音楽家

夕陽が森の向こうに沈みかけていた。

アリアは息を切らしながら、獣道のような細い道を進んでいた。木々の間を抜け、草むらを掻き分け、北へ北へと歩き続けて、もう1時間近くになる。

「本当に、こんなところに人が住んでいるのかしら……」

リリィが不安そうに呟いた。

やがて、木々が途切れた。

開けた場所に、古い建物が一軒、静かに佇んでいた。

二階建ての木造建築。壁は色褪せ、窓ガラスの一部は割れている。屋根には蔦が這い、煙突は傾いていた。かつては製材所だったのだろう、建物の脇には錆びた機械の残骸が転がっている。

廃墟だった。

でも――

建物の一階の窓から、かすかな光が漏れていた。

「誰かいる……」

アリアは建物に近づいた。入口の扉は半分開いている。中を覗くと、薄暗い部屋の奥で、何かが動いた。

「すみません……!」

声をかける。

動きが止まった。

しばらくの沈黙の後、奥から人影が現れた。

若い男性だった。

30代前半くらいだろうか。痩せた体つきで、少し長めの茶色い髪。作業着のような服を着て、手には工具を持っている。顔には無精髭が生え、目の下には隈ができていた。

その目が、警戒するようにアリアを見た。

「……誰ですか」

低い声だった。

「あの、道に迷ってしまって……ここに人が住んでいると聞いて、訪ねてきました」

男性は何も言わず、じっとアリアを見つめている。

「私、アリアと言います。今日、この街に来たばかりで……」

「帰ってください」

冷たい声だった。

「ここは、人が来る場所じゃない」

男性は踵を返し、奥へと戻ろうとした。

「待ってください! あなたは……セレスさんですか?」

男性の足が止まった。

背中が、わずかに強張る。

「……違います。人違いです」

「でも……」

「帰ってください」

男性は奥の部屋へと消えていった。扉が閉まる音が聞こえた。

アリアはその場に立ち尽くした。

「どうする?」

リリィが囁いた。

「彼よね……きっと。でも、認めてくれない」

アリアは入口の扉を見た。追いかけるべきか。でも、無理に踏み込んでも、心を閉ざされるだけだ。

その時、奥の部屋から音が聞こえてきた。

ピアノの音だ。

いや、正確にはピアノではない。調律の音。一つ一つの鍵盤を叩いて、音程を確認する音。

アリアは耳を澄ました。

音は規則的に続いている。低音から高音へ、一音ずつ丁寧に。調律の作業をしているのだ。

「ピアノの調律……」

アリアは決めた。

扉を開け、中へと入る。薄暗い廊下を進み、音のする部屋の前に立った。

扉をノックする。

「……帰れと言ったはずですが」

「お仕事の邪魔はしません。でも、少しだけ見せてください。私、花屋で働いていたんです。植物の手入れなら手伝えます。この建物の周り、草だらけですから」

沈黙。

やがて、扉が少しだけ開いた。

男性が顔を出す。疑わしげな目。

「……勝手にしてください」

扉が閉まった。

アリアは小さく息をついた。追い出されなかった。それだけで、一歩前進だ。

建物の周りを見回す。確かに草が生い茂り、花壇だったと思われる場所も荒れ果てている。

「リリィ、少し手伝って」

「了解」

アリアは草を抜き始めた。夕暮れの光の中、黙々と作業を続ける。

30分ほど経った頃、部屋の窓が開いた。

男性が顔を出し、アリアを見た。

「……何をしているんですか」

「草取りです」

「なぜ」

「花が、埋もれていたので」

アリアは足元を指差した。草の間から、小さな白い花が顔を出している。

男性は何も言わず、窓を閉めた。

でも、その後も時々、窓からこちらを見ている気配があった。

日が完全に沈んだ頃、アリアは作業を終えた。建物の周りは、少しだけすっきりした。

部屋の扉をノックする。

「終わりました。失礼します」

扉が開いた。

男性が立っている。さっきより、少しだけ表情が柔らかくなっていた。

「……ありがとうございました」

「いえ。あの、お水をいただけませんか?」

男性は少し迷った後、頷いた。

「どうぞ」

部屋に入る。中には、一台のグランドピアノが置かれていた。古いが、丁寧に手入れされている。周りには工具が並び、調律の道具が散らばっていた。

簡素な机、椅子、小さな暖炉。生活の痕跡は最小限だ。

男性がコップに水を注いで渡してくれた。

「ありがとうございます」

アリアは一口飲んだ。

「ピアノの調律をされているんですね」

「……ええ。生計を立てるために」

「街から、依頼が来るんですか?」

「時々。でも、最近は少ないです。音楽を聴く人が減っているので」

男性は窓の外を見た。

「あなたは、花屋だと言いましたね」

「ええ。以前、都会のフラワーショップで働いていました」

「なぜ、こんな街に?」

「……失われた何かを、探しに来ました」

アリアは男性を見た。

「あなたは、どうしてこんな場所に?」

男性は答えなかった。ただ、ピアノを見つめている。

「……街に、いられなくなったんです」

小さな声だった。

「理由は、聞かないでください」

アリアは頷いた。

「お名前は?」

「……」

男性は迷った。長い沈黙の後、小さく答えた。

「セレスです」

アリアの心臓が高鳴った。

「セレス……さん」

「でも、その名前は使っていません。今は、ただの調律師です」

セレスはピアノの蓋を閉じた。

「もう、音楽家ではないので」

「でも、ピアノは大切にされているんですね」

「……これだけは、手放せなかった。父が、僕に贈ってくれたピアノだから」

セレスは鍵盤に手を置いた。でも、弾かない。ただ、触れているだけ。

「昔は、毎日弾いていました。曲を作って、人前で演奏して。それが、僕のすべてでした」

「今は……」

「今は、もう弾けません」

セレスは手を離した。

「音楽は……もう、僕には奏でられない」

その声には、深い諦めがあった。

アリアは何と言えばいいのかわからなかった。ただ、セレスの横顔を見つめていた。

彼の目には、記憶の中で見た少年の輝きは、もうなかった。

「遅いので、街に戻った方がいいですよ」

セレスが言った。

「暗い道は危ないです」

「……はい」

アリアは立ち上がった。

「また、来てもいいですか?」

セレスは驚いたように顔を上げた。

「なぜ……」

「草取り、まだ終わってないので。それに……」

アリアは微笑んだ。

「お話、もっと聞きたいです」

セレスは何も言わなかった。でも、拒絶もしなかった。

アリアは工房を後にした。暗い森の道を、リリィの光を頼りに戻っていく。

「見つけたわね」

「ええ。でも……」

「心を閉ざしてる」

「どうすれば、もう一度音楽を……」

「焦らないで。少しずつよ」

星が瞬き始めた空の下、アリアは街への道を歩き続けた。

セレスの諦めた目が、頭から離れなかった。

あの目に、もう一度光を取り戻したい。

それが、今のアリアの願いだった。


翌日の朝、アリアは再び工房を訪れた。

セレスは驚いた様子だったが、扉を開けてくれた。

「また、草取りですか?」

「それもありますが……お話、聞かせてもらえませんか?」

セレスは迷ったが、やがて頷いた。

部屋に通され、簡素な椅子に座る。セレスはピアノの前の椅子に腰かけた。

「何を、聞きたいんですか」

「あなたの、音楽のこと。なぜ、弾けなくなったのか」

セレスは目を伏せた。

長い沈黙の後、彼はゆっくりと語り始めた。

「30年前、僕が生まれたばかりの頃……この街に戦争が起きました」

窓の外を見つめながら、記憶を辿るように。

「僕自身は覚えていません。でも、父から何度も聞かされました。街がどれほど焼かれたか、どれだけの人が傷ついたか……」

セレスの手が、無意識に鍵盤の上に置かれた。

「戦争が終わっても、混乱は続きました。戦後10年経った頃、僕が12歳の時……店で火事が起きたんです」

「火事……」

「原因はわかりません。でも、二階が燃えて……そこに、たくさんの楽譜がありました。僕が作った曲、師匠から教わった曲、祖父の代から伝わる曲……すべてが、あの部屋にあった」

セレスの声が震えた。

「僕は、必死で楽譜を運び出そうとしました。腕に抱えられるだけ持って、階段を駆け下りて。でも、火はもう二階まで来ていて……」

彼は目を閉じた。

「梁が崩れてきたんです。楽譜が手から落ちて、散らばって。拾おうとしたら、父が僕を引っ張って外に出した。『命の方が大事だ!』って、叫びながら」

アリアは黙って聞いていた。

「僕は、父の腕の中で見ていました。炎に包まれる店を。窓から吹き出す火を。そして……空に舞い上がる、燃える楽譜を」

セレスは両手で顔を覆った。

「黒く焦げた紙が、灰になって空に消えていく。僕の音楽が、全部……消えていくのを」

部屋に、重い沈黙が落ちた。

やがて、セレスは顔を上げた。目が赤くなっている。

「戦争が終わった後、街には誰も戻ってきませんでした。僕と一緒に音楽を学んでいた仲間たちも、みんな散り散りになって」

「仲間……」

「ヴァイオリンを弾いていたマリア。フルートのトーマス。歌が上手だったエレナ……みんな、どこかへ行ってしまった。手紙も来ない。生きているのかどうかも、わからない」

セレスはピアノを見た。

「僕だけが残った。でも、楽譜がない。何を弾けばいいのか、わからなくなった。頭の中には音楽があるはずなのに……手が、動かなくなったんです」

彼は鍵盤に触れた。一つの音を鳴らす。

「父は、何も言いませんでした。僕が弾けなくなっても、責めることもなく、ただ……悲しそうな目で見ているだけでした」

「お父様は……」

「期待していたんです。僕が、この街の音楽を守る存在になることを。祖父の時代のように、花時計亭を音楽家が集まる場所にすることを」

セレスの声が沈んだ。

「でも、僕はそれに応えられなかった。楽譜を守れなかった。仲間を失った。そして……音楽も、失ってしまった」

彼は立ち上がり、窓辺に立った。

「10年前、僕は店を出ました。こんな僕が、あの場所にいる資格はないと思ったから。父に、これ以上失望されたくなかったから」

「でも……」

アリアが口を開いた。

「記憶は、失われていないんですよね?」

セレスは振り返った。

「楽譜は燃えてしまった。でも、あなたの心の中には、音楽が残っているはずです」

「それが……できないんです」

セレスは首を振った。

「思い出そうとすると、あの炎が見えるんです。燃える楽譜が、仲間の顔が、父の悲しそうな目が……すべてが、僕を責めているように感じて」

アリアは立ち上がった。

「見せたいものがあります」

リリィがアリアの肩から飛び立った。

「これは、昨日の記憶」

リリィの羽が光り始めた。淡い虹色の光が、部屋に広がっていく。

「昨日……?」

光の中に、小さな粒子が浮かび上がった。音符のような形をした、透明な光の欠片。

「これは『音の種』。あなたが子供の頃、花時計亭で弾いた『春風のワルツ』の記憶よ」

セレスは目を見開いた。

光の粒子が、ゆっくりと動き始める。まるで生きているかのように、空中で旋律を描く。

そして――

音楽が聞こえてきた。

かすかに、でも確かに。春風のワルツの、最初の数小節。

セレスは息を呑んだ。

「これは……僕の……」

「ええ。忘れな草が記憶していた、あなたの音楽です」

光の粒子が、セレスの周りを舞い始める。優しく、温かく。

「楽譜は失われても、記憶は残っています。花に、街に、そして……あなたの心の中に」

アリアはセレスの前に立った。

「音楽は、紙の上だけに存在するものじゃない。あなたが感じたこと、表現したかったこと、伝えたかった想い……それが、本当の音楽なんです」

セレスは光の粒子を見つめた。

その目に、涙が浮かんでいる。

「僕の……音楽……」

音の種が、彼の手のひらに降りてきた。触れると、温かい。

「まだ、すべてを思い出せなくてもいい。焦らなくていい。でも……」

アリアは微笑んだ。

「あなたの音楽は、ここにあります。消えてなんかいません」

セレスは手のひらの光を見つめた。

やがて、その手が震え始めた。肩が揺れる。

「僕は……僕は、ずっと……」

声が途切れた。

涙が、頬を伝って落ちた。

セレスは膝をついた。両手で顔を覆い、声を押し殺して泣いた。

アリアは何も言わず、ただそばにいた。

リリィの光が、優しく二人を包む。

どれくらい時間が経っただろう。

セレスは顔を上げた。涙で濡れた顔で、でも何かが変わった目で、アリアを見た。

「ありがとう……ございます」

かすれた声だった。

「あなたは……誰なんですか?」

「私は、花守りです」

アリアは右手を掲げた。花の紋章が、淡く光っている。

「失われた記憶を取り戻し、失われた音楽を蘇らせる。それが、私の使命です」

セレスは紋章を見つめた。

「花守り……そんな存在が、本当に……」

「あなたに、もう一度音楽を奏でてほしいんです。花時計亭で、お父様の前で」

セレスは目を伏せた。

「でも……僕には、まだ……」

「焦らなくていい。一緒に、取り戻しましょう。あなたの音楽を」

アリアは手を差し出した。

セレスは、その手を見つめた。

長い沈黙の後――

彼は、その手を取った。

「……お願いします」

小さな声だった。でも、そこには希望があった。

リリィの光が、明るく輝いた。

「さあ、始めましょう。記憶の旅を」

音の種が、再び部屋に舞い始めた。

セレスは立ち上がり、ピアノの前に座った。

そして、震える手で――

最初の一音を、鳴らした。

最初の一音は、震えていた。

セレスの指が鍵盤に触れ、音が鳴る。高く、澄んだ音。

でも、次の音が出てこない。

指が、動かない。

「……やっぱり、無理なんです」

セレスは手を引いた。

「頭の中には、何かあるような気がする。でも、形にならない。どう弾けばいいのか……」

「待ってください」

アリアが言った。

「記憶を、見せます」

「記憶……?」

「あなたが10歳の時、花時計亭で初めて春風のワルツを弾いた時の記憶です」

アリアは右手をセレスの前に掲げた。花の紋章が光り始める。

「忘れな草が覚えていた、あの日のことを」

光が広がった。

部屋全体が、淡い光に包まれていく。そして――

映像が浮かび上がった。

花時計亭の店内。人で溢れている。笑顔の客たち。温かな光。

そして、ピアノの前に座る小さな少年。

「これは……」

セレスは息を呑んだ。

映像の中の少年が、自分だと気づいた。

10歳の自分。新しい白いシャツを着て、緊張した面持ちでピアノに向かっている。

隣には、若い頃のエリオが立っている。

そして、もう一人――

「祖父……」

年配の男性が、少年の頭に優しく手を置いている。

「さあ、お客様に聴かせてあげなさい。セレス、お前ならできる」

祖父の声が、懐かしく響いた。

少年が深呼吸をする。

そして、鍵盤に手を置く。

最初の一音が響いた。

セレスは、思わずピアノの前に身を乗り出した。

映像の中の自分が、懸命に弾いている。小さな手が鍵盤を叩く。右手が旋律を奏で、左手が伴奏を刻む。

「ああ……こうだった……」

セレスの指が、無意識に動き始めた。

映像に合わせて、空中で鍵盤を叩くように。

音楽が流れる。春風のワルツ。

軽やかで、優しく、温かい旋律。

映像の中で、桜の花びらが舞い始めた。音楽から生まれた、幻想の花びら。

客たちが息を呑む。

少年が一生懸命弾いている。額に汗を浮かべて、でも楽しそうに。

「僕は……こんなに、楽しそうに弾いていたんだ……」

セレスの目から、涙が溢れた。

映像の中の父と祖父が、誇らしげに見守っている。

客たちが笑顔で拍手している。

温かい空間。幸せな時間。

「これが……僕の音楽だった……」

映像が終わりに近づく。

最後の和音が響き、少年が鍵盤から手を離す。

爆発的な拍手。

父が息子の肩を抱く。

祖父が目を細めて頷く。

そして、映像が消えた。

光が引いていき、工房の部屋に戻る。

セレスはピアノの前で、呆然としていた。

「もう一度……もう一度、見せてください」

「ええ」

アリアが再び紋章を光らせる。

映像が流れる。

セレスは今度、本物のピアノの前に座った。鍵盤に手を置く。

映像の中の少年が弾き始める。

セレスも、一緒に弾き始めた。

最初の一音。

次の音。

指が、動く。

震えながらも、鍵盤を叩いていく。

旋律が、途切れ途切れに流れ始めた。

「そう……ここは、こうで……」

間違える。止まる。

でも、また始める。

映像の音楽を頼りに、少しずつ、少しずつ。

右手だけ。左手は、まだ動かない。

「左手は……どうだったか……」

映像を凝視する。少年の左手の動きを追う。

「ああ……こう……」

左手が、おぼつかなく動き始めた。

不完全だ。音も外れる。リズムも崩れる。

でも――

確かに、春風のワルツの断片が聞こえてきた。

セレスは必死に弾き続けた。額に汗が浮かぶ。

映像が終わる。

セレスの演奏も止まった。

彼は鍵盤に手を置いたまま、息を切らしていた。

「まだ……完全じゃない……」

声が震えている。

「途中で、わからなくなる。思い出せない部分がある。でも……」

セレスは顔を上げた。

その目には、涙と、そして――希望の光があった。

「取り戻せるかもしれない。もう一度、この曲を……」

リリィがセレスの周りを飛んだ。

「素晴らしいわ。最初の一歩よ」

「でも、これだけじゃ……人前で弾けるレベルじゃない」

セレスは手を握りしめた。

「もっと練習しないと。何度も何度も、記憶を辿らないと」

「時間はあります」

アリアが言った。

「焦らないで。毎日、少しずつ取り戻していけばいい」

セレスは頷いた。

「手伝ってくれますか? 記憶を、また見せてくれますか?」

「もちろんです」

アリアは微笑んだ。

「毎日、ここに来ます。一緒に、あなたの音楽を取り戻しましょう」

セレスは立ち上がり、窓の外を見た。

森の向こうに、街が見える。

「父に……会えるでしょうか。こんな僕でも」

「会えます。きっと」

アリアはセレスの隣に立った。

「お父様は、ずっと待っています。あなたが帰ってくるのを」

セレスは目を閉じた。

「10年……長すぎた。でも……」

彼はピアノを振り返った。

「やり直せるなら……もう一度、父の前で弾きたい。この曲を」

リリィの羽が輝いた。

「その日は、必ず来るわ」

セレスは深く息をついた。

そして、再びピアノの前に座った。

「もう一度、弾いてみます」

指が鍵盤に触れる。

今度は、少しだけ震えが少なかった。

音が鳴る。

春風のワルツの、最初の数小節。

まだ不完全だ。でも、確かにそこにある。

失われていた音楽が、少しずつ蘇り始めていた。

アリアは静かに聴いていた。

リリィが肩に止まり、囁く。

「いい兆しね」

「ええ。きっと、大丈夫」

窓の外で、鳥が鳴いた。

春の風が、工房の中に吹き込んでくる。

新しい季節の始まりを告げる、優しい風。

セレスの指が、止まらずに動き続けている。

一音、また一音。

記憶が、音楽が、少しずつ形になっていく。

まだ長い道のりだ。

でも、もう立ち止まってはいない。

前へ、前へと進んでいる。

花時計亭へと、帰る道を。


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