第10章 未完の旅へ
エデンヴェールを離れて半日。
アリアは森の中で休息を取っていた。
木々の間から差し込む光が、地面に模様を描いている。
「少し休みましょう」
リリィが言った。
「ええ」
アリアは木の根元に座り、花図譜を取り出した。
「さて……」
アリアは花図譜を膝の上に置いた。
「残りの街を、確認しましょう」
ページを開く。
フロリア、サンフィーノ、アンバーレイ。
三つの音楽が、完璧に記録されている。
クリスタリアのページ。
氷花のスケッチと、空白の五線譜。
「まだ、未完ですね」
「焦らないで。セラフィナと一緒に、少しずつ」
リリィが囁いた。
アリアは頷き、次のページをめくった。
春の都市、二つ目。
そこには――
花のスケッチがあった。
繊細な線で描かれた、美しいスケッチ。
でも、これは誰が描いたのか。
エレナではない。もっと古い筆致だ。
「これは……先々代の花守りが描いたものよ」
リリィが説明した。
「花図譜には、歴代の花守りの記録が受け継がれているの」
花の下に、文字があった。
『ヴェルナ チューリップ 目覚めの前奏曲』
「ヴェルナ……」
アリアは呟いた。
「春の都市、二つ目」
五線譜は空白だった。
音楽は、まだ失われたまま。
「目覚めの前奏曲……どんな曲なんでしょう」
「行ってみれば、わかるわ」
アリアは次のページをめくった。
春の都市、三つ目。
『プリマヴェーラ 菜の花 希望の舞曲』
やはり、五線譜は空白。
さらにページをめくる。
夏の都市。
サンフィーノは既に完成している。
次は――
『エスティヴァ ハイビスカス 太陽の讃歌』
『カニクラ 朝顔 夏夜の子守歌』
二つとも、空白。
秋の都市。
アンバーレイは完成している。
そして――
『オータム もみじ 実りの円舞曲』
『ハーヴェスト コスモス 感謝の鎮魂歌』
これも空白。
冬の都市。
クリスタリアは未完。
『ヒエマ 雪椿 静寂のアリア』
『ニヴェウス ポインセチア 再生の協奏曲』
アリアは、すべてのページを見終えた。
12の都市。
うち3つが完成。
1つが進行中。
残り8つが、未踏。
「8つ……」
アリアは花図譜を見つめた。
「まだ、8つも残っている」
リリィが肩に止まった。
「そうね。まだまだ長い旅になるわ」
「長い……」
アリアは空を見上げた。
木々の隙間から、青空が見える。
「でも……」
アリアは微笑んだ。
「一つずつ、丁寧にやっていきます」
「その意気よ」
リリィが嬉しそうに羽を揺らした。
アリアは再び花図譜を見た。
それぞれの都市に、それぞれの花。
それぞれの音楽。
そして、それぞれの物語が待っている。
「春夏秋冬が、三巡するんですね」
アリアが呟いた。
「春が三つ、夏が三つ、秋が三つ、冬が三つ。合わせて12の季節」
「そう。この世界は、36の季節でできているの」
リリィが説明した。
「え……36?」
「ええ。12の都市それぞれに、3つの季節がある。春の初め、春の盛り、春の終わり。夏の初め、夏の盛り、夏の終わり。秋も冬も同じ」
アリアは驚いた。
「そんなに……」
「だから、一年が長いのよ、この世界は」
リリィがくるりと一回転した。
「12の都市を一巡すると、36の季節を経験することになる。それが、この世界の一年」
アリアは花図譜を見つめた。
36の季節。
12の物語。
そして、すべてが一つの歌になる。
「壮大ですね……」
「ええ。だから、花守りの旅は長いの」
リリィは真面目な顔になった。
「エレナは、30年間花守りをしていた。でも、3つしか集められなかった」
「30年で……3つ……」
アリアは息を呑んだ。
「じゃあ、12全部集めるには……」
「わからないわ。人によって違う。早い人もいれば、遅い人もいる」
リリィはアリアを見た。
「あなたは、今のところ順調よ。数ヶ月で3つ集めたんだから」
「でも、クリスタリアは時間がかかっています」
「それは仕方ないわ。街によって、難易度が違うもの」
アリアは花図譜のページを一枚ずつめくっていった。
ヴェルナ。プリマヴェーラ。エスティヴァ。カニクラ。
オータム。ハーヴェスト。ヒエマ。ニヴェウス。
8つの名前。
8つの花。
8つの音楽。
「どんな街なんでしょう」
アリアが呟いた。
「どんな人たちが、待っているんでしょう」
「それは、行ってみないとわからないわ」
リリィが答えた。
「でも、きっと……あなたを必要としている人がいる」
アリアは頷いた。
フロリアで、セレスは音楽を失っていた。
サンフィーノで、タオは希望を失っていた。
アンバーレイで、姉妹は絆を失っていた。
クリスタリアで、セラフィナは声を失っていた。
残りの8つの街にも、きっと――
何かを失った人たちがいる。
「私にできることは、小さいかもしれません」
アリアが静かに言った。
「でも、一人ずつ、丁寧に向き合います」
「それでいいのよ」
リリィが微笑んだ。
「花守りは、世界を一度に救うわけじゃない。一人ずつ、少しずつ、幸せを届けていくの」
アリアは花図譜を閉じた。
手のひらに、その重みを感じる。
歴代の花守りが積み重ねてきた記録。
エレナが託した想い。
そして、自分がこれから刻む物語。
「次は……どこに行きましょうか」
アリアが尋ねた。
「まずは、クリスタリアに戻るべきね」
リリィが答えた。
「セラフィナが待ってる。そして、氷を溶かす作業を続けないと」
「そうですね」
アリアは立ち上がった。
鞄に花図譜をしまう。
「クリスタリアが終わったら……」
リリィが考えた。
「春の二つ目の街、ヴェルナに行くのがいいかもしれない。近いし、季節も春だから、移動しやすい」
「ヴェルナ……目覚めの前奏曲……」
アリアは呟いた。
「どんな音楽なんでしょう」
「楽しみね」
二人は歩き始めた。
森の小道を、クリスタリアへ向かって。
木々の葉が、風に揺れている。
鳥の鳴き声が、遠くから聞こえてくる。
「アリア」
リリィが呼びかけた。
「何ですか?」
「あなた、疲れてない?」
「大丈夫です」
アリアは微笑んだ。
「むしろ、楽しみです」
「楽しみ?」
「ええ。まだ見ぬ街、まだ会っていない人たち、まだ聞いていない音楽……すべてが、これから待っている」
アリアの目が輝いていた。
「それを考えると、わくわくします」
リリィは嬉しそうに羽を揺らした。
「いい心構えね。その気持ちを、忘れないで」
「はい」
道は続いている。
長い、長い道。
でも、一歩ずつ進めば、必ず辿り着く。
12の都市。
36の季節。
そして、一つの歌。
花守りの旅は、まだ半分も終わっていない。
でも、アリアは焦らなかった。
急ぐ必要はない。
大切なのは、一つずつ丁寧に。
人々と向き合い、記憶を取り戻し、新しい未来を共に創る。
それが、花守りの使命。
「リリィ」
「何?」
「ありがとう」
アリアが言った。
「いつも、一緒にいてくれて」
「当たり前よ」
リリィが笑った。
「私たちは相棒でしょう? 最後まで、一緒よ」
「ええ」
アリアも笑った。
「最後まで」
二人は、森の中を歩き続けた。
木漏れ日が、二人を照らしている。
遠くに、クリスタリアの白い街並みが見えてきた。
「もうすぐね」
「ええ。セラフィナさんが待っています」
アリアは足を速めた。
戻ろう。
そして、氷を溶かそう。
雪解けの子守歌を、完成させよう。
それが終わったら、次の街へ。
ヴェルナ、プリマヴェーラ、エスティヴァ、カニクラ。
オータム、ハーヴェスト、ヒエマ、ニヴェウス。
一つずつ、訪れよう。
一人ずつ、出会おう。
一つずつ、音楽を取り戻そう。
そして、いつか――
12の音楽が揃う日が来る。
花守りの歌が、完成する日が。
その日まで、旅は続く。
アリアの旅は、まだ始まったばかり。
でも、道は見えている。
希望を胸に、一歩ずつ。
花守りの物語は、続いていく。
クリスタリアの雪が、目の前に広がっていた。
アリアは、その白い世界に足を踏み入れた。
次の章が、始まろうとしていた。
クリスタリアでの日々が続いた。
毎日、セラフィナと共に氷を溶かす。
少しずつ、確実に。
そして、ある日――
氷晶カフェで、いつものように二人で氷花に向き合っていた。
セラフィナが声なき歌を歌い、アリアが花の紋章を光らせる。
その時、氷花が激しく輝き始めた。
「これは……!」
氷が、音を立てて溶けていく。
水が滴り落ち、氷の殻が崩れていく。
そして――
氷花が、完全に解放された。
白い花びらが、自由に風に揺れている。
花から、温かな光が溢れ出した。
記憶の光。
アリアは花に触れた。
映像が流れる。
セラフィナの母が、幼いセラフィナに歌を歌っている場面。
温かく、優しく、愛に満ちた子守歌。
「雪が降る夜も、怖くないよ。温かな腕の中、眠りなさい」
旋律が、アリアの心に流れ込んでくる。
「夢の中では、春が来るよ。花が咲いて、鳥が歌うよ」
完璧な旋律。完璧な歌詞。
雪解けの子守歌の、すべてが。
アリアは花図譜を開き、ペンを走らせた。
音符が、五線譜に刻まれていく。
そして――
「……あ……」
小さな声が聞こえた。
アリアは顔を上げた。
セラフィナが、喉に手を当てていた。
目を見開いて、驚いた表情で。
「……あ……あ……」
かすれた声。
でも、確かに声だ。
30年ぶりの、声。
セラフィナの目から、涙が溢れた。
「……う、た……」
震える声で、歌い始めた。
「ゆ……雪が……ふる……よるも……」
途切れ途切れ。
でも、確かに歌っている。
「こわく……ない……よ……」
アリアも涙を流しながら、聴いていた。
セラフィナは両手で喉を押さえながら、必死に歌い続けた。
「あたた……かな……うでの……なか……」
声は小さく、かすれている。
でも、母から教わった子守歌を、自分の声で歌っている。
「ねむり……なさい……」
最後の一節を歌い終えた時、セラフィナは膝をついた。
両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
「……こえ……こえが……もどって……」
アリアはセラフィナを抱きしめた。
「おめでとうございます、セラフィナさん」
二人は、しばらくそうしていた。
氷晶カフェの中で、温かな光に包まれて。
やがて、セラフィナは顔を上げた。
涙で濡れた顔で、でも笑顔で。
紙に書く代わりに、声で言った。
「……ありがとう……ございました……アリアさん……」
かすれた声。
でも、心からの感謝が込められた声。
アリアは微笑んだ。
「いえ。私こそ、ありがとうございました」
花図譜の4ページ目が、埋まった。
雪解けの子守歌。
完成した楽譜が、静かに輝いている。
「また、来ますね」
アリアが言うと、セラフィナは頷いた。
そして、声で答えた。
「……まって……います……」
そして、アリアは次の旅へと向かった。
「さあ、行きましょう」
アリアは笑顔で歩き続けた。
花図譜を胸に。
希望を心に。
リリィと共に。
空は青く、風は優しい。
花々が、道を彩っている。
遠くの街が、徐々に大きくなっていく。
新たな季節が、待っている。
新たな物語が、始まろうとしている。
物語は続く――
アリア・ブルームの物語は、まだ途中。
花守りの歌も、まだ途中。
でも、希望と共に。
一歩ずつ、前へ。
それが、花守りの旅。
アリアの旅。
そして――
これから出会うすべての人々の旅。
道は続いている。
どこまでも。
新しい記憶が、今日も生まれている。




