プロローグ 花と共に目覚める
時計の針が午後10時を回った頃、アリア・ブルームは小さなフラワーショップの奥で、最後の花束を包装紙で包んでいた。
店内には彼女一人。シャッターの降りた商店街は静まり返り、聞こえるのは包装紙の擦れる音と、冷蔵ケースの低い駆動音だけだった。27歳の誕生日まであと3日。彼女は今夜も一人、明日の納品準備に追われている。
「これで、最後」
手元の花束を見つめる。白いカスミソウに囲まれた淡いピンクのバラ。明日の朝、常連のお客様が娘さんの結婚記念日に贈る花だ。5年前から毎年同じ日に注文してくださる、優しい笑顔の紳士。
アリアは花束をそっと抱きしめた。バラの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「誰かの幸せに、なれたかな」
呟きは誰にも届かない。
冷蔵ケースに花束を並べ終えると、アリアは夜の商店街に一歩踏み出す。3月の夜風は冷たく、コートの襟を立てても寒さが首筋に忍び込んでくる。
自転車を押しながら、いつもの帰り道を辿る。街灯の下を過ぎるたび、自分の影が伸びては縮んだ。誰もいない道。誰も待っていない部屋。
母が営んでいた小さな花屋を継ごうと思っていたのは、いつまでだったろう。
大学を出て、都会の企業に就職して、母の店は閉じた。「アリアには、もっと広い世界があるから」と、母は笑っていた。でも企業勤めは5年で辞めた。人間関係に疲れ、数字に追われ、花のことを考える余裕もなかった。
それから転職を繰り返し、今はこのフラワーショップで、契約社員として働いている。
交差点の信号が青に変わった。アリアは自転車にまたがり、ペダルを漕ぎ始めた。
もっと誰かの役に立ちたかった。花を通じて、人々に幸せを届けたかった。母のように。
でも今の私は、ただ花を包んで、冷蔵庫にしまっているだけ。
考え事をしながら交差点を渡りかけた時、左からの強烈なヘッドライトが視界を奪った。
ブレーキ音。
叫び声。
自分のものか、誰かのものか、わからない。
衝撃。
体が宙に浮く感覚。アスファルトに叩きつけられる鈍い痛み。
視界が回転し、夜空が見えた。街灯が滲んでいく。
不思議なことに、痛みは一瞬で消えた。
代わりに、柔らかな光が体を包み始める。まるで花びらのような、淡いピンク色の光。温かく、優しく、どこか懐かしい。
光の中で、アリアの意識は過去へと流れていった。
母と一緒に花屋の店先に立っていた、小学生の頃。「アリア、このバラはね、『愛してる』って意味があるのよ」と教えてくれた母の笑顔。
中学生の時、好きだった男の子にカーネーションを渡せなかった、バレンタインデーの放課後。
高校の進路相談で、「花屋を継ぎたい」と言えなかった自分。母を楽にしてあげたくて、「大学に行く」と答えた日。
大学の卒業式。「おめでとう、アリア。お母さん、誇りに思うよ」。母の目には涙が光っていた。
そして、母が亡くなった日。病室で握った冷たい手。「ごめんね、お母さん。私、花屋、継げなかった」。そう謝ったのに、母は微笑んでいた。「いいのよ。アリアは、アリアの幸せを見つけて」
でも見つけられなかった。
私の幸せは、どこにあったのだろう。
花びらのような光が、どんどん強くなっていく。体が軽くなり、地面から離れていくような感覚。痛みも、寒さも、何もかもが遠のいていく。
ああ、このまま――
「誰かの幸せに、なりたかった」
最後の想いだけを残して、アリアの意識は光の中に溶けていった。
甘い香り。
それが最初に感じたものだった。
バラでもない、カーネーションでもない、もっと複雑で、もっと豊かな、何百という花が混ざり合ったような香り。
次に感じたのは、柔らかな感触。草の上に横たわっているような、ふかふかとした心地よさ。
そして、温かな日差し。
アリアはゆっくりと目を開けた。
青い空が広がっていた。見たこともないほど澄んだ、透明な青。雲一つない空の下、彼女は花畑の真ん中に寝転がっていた。
「ここは……」
体を起こす。痛みはない。事故の衝撃も、アスファルトに叩きつけられた記憶も、まるで夢のように遠い。
見渡す限りの花畑。白、黄色、ピンク、紫、青。名前を知っている花も、見たことのない花も、すべてが満開で、風に揺れている。
アリアは自分の手を見た。
そして、息を呑んだ。
右手の甲に、淡く光る紋章が浮かび上がっていた。花をかたどったような、繊細な模様。触れてみると、温かい。まるで生きているかのように、かすかに脈打っている。
「これは……何……?」
「ようこそ、花守り様」
声が聞こえた。
アリアは顔を上げる。目の前に、小さな光が浮かんでいた。いや、光ではない。蝶だ。手のひらに乗るほどの小さな蝶が、虹色の羽を輝かせながら、宙に浮いている。
そして、その蝶は確かに、人の言葉を話していた。
「驚かないで。私はリリィ。あなたの相棒になる妖精よ」
蝶――リリィは、アリアの鼻先まで飛んできた。羽ばたくたびに、花の香りが漂う。
「妖精……? 相棒……? 私は……」
混乱するアリアに、リリィは優しい声で続けた。
「あなたは死んだのよ。あの世界で。でも同時に、この世界で生まれたの。花守りとして」
「死んだ……」
言葉が、現実として胸に落ちてこない。でも確かに、あの交通事故の衝撃を思い出す。痛みも、恐怖も、そして最後の光も。
「ここは、エテルノ大陸。あなたがいた世界とは違う場所よ」
リリィはくるりと一回転した。
「この大陸には、12の季節都市が環状に配置されているの。春の都市、夏の都市、秋の都市、冬の都市……それぞれが3つずつ。12の街が、それぞれ固有の花と、音楽と、カフェの文化を持っているわ」
「12の……都市……」
「そう。でもね、この世界は今、とても寂しいの」
リリィの声が少し沈んだ。
「30年前、大きな戦争があった。多くの人が傷つき、多くの記憶が失われた。音楽も、カフェの賑わいも、人々の笑顔も、みんな色褪せてしまったの。そして、花守りも消えてしまった……あなたが来るまで」
アリアは紋章の浮かぶ手を見つめた。
「花守りって……」
「花に宿る記憶を読み取り、可視化する力を持つ者。それが花守りよ」
リリィは近くに咲いていた小さな白い花の上に舞い降りた。
「試してみて。その花に触れてみて」
アリアは言われるままに、白い花に手を伸ばした。指先が花びらに触れた瞬間――
視界が光に包まれた。
そして、映像が流れ始めた。
若い女性が、この花を摘んでいる。笑顔だ。隣には男性がいて、二人で何か話している。女性が花を男性の胸ポケットに挿す。男性が照れたように笑う。幸せそうな二人。
「これは……」
「この花に宿る記憶。誰かが幸せを感じた瞬間が、花には刻まれるの。そしてあなたは、それを見ることができる」
映像が消え、アリアは花から手を離した。胸が温かかった。知らない二人だけれど、その幸せが、確かに自分の中に流れ込んできた気がした。
リリィは再びアリアの前に飛んできた。
「失われた記憶を取り戻すこと。失われた音楽を蘇らせること。そして、人々にもう一度、幸せを思い出させること。それが、花守りの役目なの」
アリアは立ち上がった。花畑が、風に揺れている。どこまでも続く色とりどりの花々。その一つ一つに、誰かの幸せが宿っているのだろうか。
「あなたは選ばれたのよ、アリア。この世界で、花を通じて人々に幸せを届けるために」
母の言葉が蘇った。「アリアは、アリアの幸せを見つけて」
そうか。
私の幸せは、ここにあったのかもしれない。
アリアは右手を胸に当てた。花の紋章が、優しく光っている。
「わかりました」
声が、自然と出ていた。迷いはなかった。
「この世界で、人々に幸せを届けたい。花を通じて。音楽を通じて。私にできることがあるなら、やらせてください」
リリィの羽が、一段と明るく輝いた。
「その言葉を待っていたわ。さあ、花守り様。私たちの旅を始めましょう」
風が吹いた。花びらが舞い上がり、アリアとリリィを包み込む。
新しい世界。新しい使命。そして、新しい私。
アリア・ブルームの、本当の物語が、今、始まろうとしていた。
「ねえ、アリア。旅をするなら、これが必要になるわ」
花畑を抜け、草原の小道を歩き始めた頃、リリィが言った。
「これ?」
「旅人の花図譜。先代の花守りが残したものよ」
リリィの羽が光ると、空中に古びた手帳のような映像が浮かび上がった。革の表紙に、花の模様が刻まれている。
「12の都市を巡る時、あなたはそこで出会った花と、蘇らせた音楽を記録していくの。すべてのページが埋まった時……きっと、何かが起こるわ」
「何かって……?」
「それは、まだわからない。でも、先代もそうしていたの。記憶を集め、音楽を集め、花図譜を完成させようとしていた。その途中で、戦争が起きて……」
リリィの声が小さくなる。アリアは黙って頷いた。
「でも、あなたなら大丈夫。さあ、最初の街へ行きましょう。春の都市、フロリアへ」
小道を進むと、やがて大きな街道に出た。荷馬車が一台、ゆっくりと近づいてくる。
「すみません! フロリアへ行きたいのですが、乗せていただけませんか?」
アリアが手を振ると、荷馬車が止まった。御者台には白髪の老人が座っている。深い皺の刻まれた顔に、穏やかな笑みが浮かんだ。
「おや、旅の方かね。フロリアまでなら、まだ半日ほどだ。乗っていきなさい」
「ありがとうございます!」
荷台に乗り込むと、積まれた荷物の間に座るスペースがあった。リリィはアリアの肩に止まり、羽を休めている。
馬車が動き出した。車輪のきしむ音と、馬の足音が心地よいリズムを刻む。
「あなた様、見ない顔だが、どちらから?」
老人が尋ねてきた。
「あの……遠くから来ました。この世界のことを、まだよく知らなくて……」
「そうかね。なら教えてやろう。わしは商人でね、12の都市を回って商売をしておる」
老人は手綱を握ったまま、ゆっくりと語り始めた。
「フロリアは春の都市だ。桜が美しくてね。昔は音楽家が集まる賑やかな街だった。だが、今は……静かすぎる。カフェも客が少ない。笑い声も、歌声も、聞こえなくなってしまった」
「それは……戦争のせいですか?」
「そうだ。30年前の戦争でね、多くのものが失われた。音楽を奏でる者も、記憶を語る者も。人々は、幸せだった頃のことを忘れてしまったのさ」
老人は遠い目をした。
「わしが子供の頃、祖父から聞いた話では、昔は花守りという方がおられたそうだ。花の記憶を読み取り、失われた幸せを取り戻してくださる、特別な方が。でも、今はもういない」
アリアは右手の紋章を見た。老人には見えていないのだろうか。それとも、まだ言うべきではないのか。
「もしその花守りという方が、またこの世界に現れたら……きっと、この寂しい世界も、少しは明るくなるかもしれんね」
老人は優しく笑った。
馬車は街道を進み続ける。やがて、遠くに大きな門が見えてきた。桜の木が両脇に並び、門の上には「フロリア」という文字が刻まれている。
「着いたぞ。春の都市、フロリアだ」
門をくぐると、桜並木の道が続いていた。満開の桜が風に揺れ、花びらが舞い散る。美しい光景だった。でも、街を歩く人々の表情は、どこか寂しげに見えた。
馬車を降り、老人に礼を言って別れる。
「どうか、良い旅を」
老人は手を振り、馬車を進めていった。
アリアとリリィは、桜舞う街並みに立ち尽くした。石畳の道、古い建物、小さな広場。人はまばらで、会話する声もほとんど聞こえない。
その時――
遠くから、鐘の音が聞こえてきた。
静かで、どこか寂しげな音色。まるで、誰かを呼んでいるような、何かを求めているような。
「あの音……」
「カフェの鐘よ。きっと、そこに最初の答えがあるわ」
リリィが囁いた。
アリアは鐘の音がする方へ、歩き始めた。桜の花びらが、後ろ姿を優しく見送っている。
花守りの旅が、今、本当に始まった。




