第13話 ターニングポイント
ダンジョン放置で直人は現実世界へと戻る。一番大事なもの、家族を守るために直人は行動する。
「行ってくる」
夕方の空気は、昼の会議よりはるかに重い。
在宅勤務の“在宅”は、たぶんこういう時のためにある。
しかし、会議の余熱は指先に残り、Slackの通知はまだ耳の奥で鳴っている。
出る前、ミリアが画面の隅で手を振っていた。
「いってらっしゃいませ♡ 魔王さま♡」
直人は振り返らない。
「俺は父親だ」
ダンジョンは放置した。
1 迎え
幼稚園の門の前に着くと、妻がすでに立っていた。
「ありがとう、来れたんだ」
「会議は切った。……ひなは?」
先生に抱えられるようにして出てきたひなは、頬が赤い。
でも泣いてはいない。直人を見ると、少しだけ笑った。
妻が小声で言う。
「熱、37.8。いまはだるいだけっぽいけど、念のため」
直人は頷いた。
「小児科寄ろう。その前に――」
直人は幼稚園の向かいのコンビニに走った。
ポカリ、ゼリー、氷。あと、子どもが飲めそうなストロー付きの水。
(買い方が完全に“家庭の緊急対応”)
戻ると、妻が少し笑った。
「手際いいね」
「仕事のせいで“最短導線”が身体に染みてる」
ひなは直人の袋を覗き込み、弱い声で言った。
「それ、あおいやつ?」
「そう。あおいやつ。いまのひなに一番強い」
直人はペットボトルを少しだけ開け、コップに注いで渡した。
「ちょっとずつ。のど渇いてる?」
ひなはこくんと頷き、ストローで吸った。
「……あまい」
「それでいい。今日は甘いが正義」
妻がほっと息を吐く。
「飲めてる」
直人は小さく頷いた。
「よし。じゃあ病院へ」
2 医者
小児科の待合は、世界でいちばん静かな戦場だ。
熱の子ども、心配する親、淡々と呼び出す受付の声。
直人はスマホを見るのをやめた。
見れば仕事に戻ってしまうのが分かっていたから。
診察は短かった。
のどの腫れは軽い。肺音も問題なし。
「風邪でしょう。水分をしっかり。今夜高熱が出たら解熱剤を。明日も続くようなら再診で」
医師は淡々と、しかし“事なきを得る”言葉をくれた。
妻が息を吐く。
直人も息を吐く。
ひなは会計の間、直人の袖を握っていた。
「だいじょうぶ?」
「大丈夫。……ひなのほうが大丈夫?」
ひなは少し考えて、こくんと頷く。
「パパ、かえる」
「帰る」
3 帰宅、団らん
家に着くと、ひなは布団に入った。
妻が冷えたタオルを用意し、直人がポカリをコップに注ぐ。
何も劇的なことは起きない。
でも、こういう“何も起きない”が、どれだけ貴重か直人は知っている。
ひなが少し元気になって、寝室から小さな声がする。
「まおうごっこ……」
直人は笑って、寝室に入った。
“魔王役”は直人だ。
でもダンジョンの魔王じゃない。
布団の上の、やさしい魔王。
「まおうは、ねむい」
「ゆうしゃ、たおす」
「ゆうしゃは、もうねる時間です」
「うそだぁ!」
妻が台所から笑う。
「うるさくしないでよ、熱あるんだから」
直人は小声で返す。
「魔王は静かに滅ぼす」
団らんは短い。
熱の子どもは、笑ったあとはすぐ眠る。
妻が寝息を確認して、そっとドアを閉めた。
「……大丈夫そうだね」
「うん。ありがとう、会議切ってくれて」
「切ったんじゃない。逃げた」
妻が小さく笑う。
「逃げて正解」
その言葉が、直人には救いだった。
4 時間ができてしまう
時計を見る。
まだ早い。
しかし、家の中は静かになった。
静かになると、直人の“仕事脳”が戻ってくる。
そして、戻ってきた瞬間に、別の怖さも一緒に戻る。
ダンジョン。
PCを開けない時間は、意外と長かった。
その間に何が起きているか、直人は想像できる。
想像できるから、開けたくない。
妻が言う。
「見ないほうがいいんじゃない?」
直人は苦笑した。
妻はダンジョンの件は知らない。
仕事の事と思って聞いている。
「見ないと、もっと酷くなるタイプのやつなんだよ」
「そうなのね」
直人は恐る恐る、PCを開いた。
5 現実:捨て置きのメール
まず現実が殴ってくる。
未読のメールが溜まっていた。
件名だけで胃が痛くなる。
【至急】顧客からの追加要望(回答期限:本日中)
【重要】再発防止の提出フォーマット(経営層レビュー要)
【対応漏れ】一次回答への追記依頼(営業)
直人は眉間を押さえる。
「……捨て置いたの、ちゃんと刺してくるな」
ミリアがどこか愉快そうに言った。
「現実もダンジョンも、“放置耐性”ゼロですね♡」
「褒めるところじゃない」
直人は息を吸い、まず一通だけ返した。
“今夜できること”だけに切り分け、期限を握り直す。
すべてに答えるな。火の粉を止めろ。
返信を打ち終えたところで、直人は一度だけ手を止めた。
最悪の予感が、背中に貼り付いている。
ダンジョン側の画面を、最大化する。
6 異界:扉が開いた
ログが、赤い。
赤が多すぎて、赤というより血の海みたいだ。
[重大] フロアボス領域:侵入者進入
[対応] リザードマン:迎撃(自動)
[制約] 撃破禁止:順守
――ここまでは、想定内だった。
問題は、その次。
[重大] ミノタウロス:交戦開始
[結果] ミノタウロス:撃破
[結果] 扉:解放
[警告] 外部接続判定:成立
直人は、言葉が出なかった。
椅子の上で、背筋だけが伸びる。
「……ミノタウロス、撃破?」
ミリアは、悪びれない。
極上の笑顔で頷いた。
「はい♡ 直人さまが“放置”したので、現場が頑張りました♡」
「頑張る方向が違う!」
「侵入者が頑張ったんです♡」
「もっと違う!」
PCの画面を、最大化する。
ダンジョンのログは、赤い。赤が多すぎて、もはや赤字決算の色だった。
ミリアが、管理画面の隅に新しいタブを増やしていた。
タイトルは――
【障害報告書(INCIDENT)】
直人は目を細める。嫌な予感が確信に変わる。
「……誰が、こんな報告書フォーマットにした」
ミリアが極上の笑顔で言った。
「直人さまが“仕事で見慣れてる形”が、安心かと思いまして♡」
「最悪の気遣いだな」
画面には、淡々と地獄が整形されて並んでいた。
【INC-008】フロアボス(ミノタウロス)撃破に伴う扉の不正解放
発生日/時刻:本日 19:42(管理者不在時間帯)
重要度:S(“現実側”影響の可能性あり)
ステータス:未解決(扉:開)
担当:管理者(佐倉直人)※不在
概要:
フロアボス領域にて侵入者(勇者パーティ)がミノタウロスを撃破。
これにより、次段扉が解放され、外部接続判定が成立。
実際の挙動:
ミノタウロス:撃破(死亡)
ダンジョン:扉が恒久的に開通
外部接続判定:成立(現実側の位置情報が確定)
現実側:接続先が確定(後述)
直人は椅子の上で固まった。
「……“実際の挙動”が全部ダメだろ」
ミリアが小さく拍手した。
「直人さま、影響範囲の書き方が完璧です♡」
「“胃が痛い”を影響範囲に入れるな!」
暫定対応(提案)
扉前に“暗号申請ゲート(簡易)”を設置し、通行を事実上阻害
侵入者に対し、“推奨ルート”を扉から遠ざける(遠回り化)
メイジ:霧で“扉の存在”を薄める(※ただし逆利用リスクあり)
リザードマン:扉前の斥候のみ排除(撃破禁止のまま)
直人は額を押さえた。
「……暫定対応が全部“嫌がらせ”なの、うちの会社より終わってる」
ミリアが爽やかに言った。
「会社の方は嫌がらせじゃないんですか♡」
「そこは黙ってろ」
外部接続判定(重要)
画面の端に、別の項目が赤く点滅していた。
【外部接続判定:成立】
接続先:現実側(位置情報)
場所:幼稚園(施設名:××幼稚園)
直人の血の気が引く。
笑いが、冷える音に変わる。
「……やめろ!
そこはひなの・・・」
ミリアは、いつも通りの笑顔で言った。
「だって、扉が開いちゃいましたから♡」
直人は声を落とす。家族が寝ている。怒鳴れない。
「……家族に触るな」
ミリアが
「触れるのは、直人さまの“世界”です♡」
「言葉遊びで誤魔化すな」
直人は報告書タブを閉じたかった。
でも閉じると、現実も異界も“なかったこと”になりそうで、閉じられなかった。
直人は、血の気が引くのを感じた。
7 次の通知
――ピロン。
PCではなく、直人のスマホが鳴った。
幼稚園からの連絡ではない。
見慣れない、しかし妙に“丁寧な”通知。
【お知らせ】明日、園内で“安全確認”を実施します
担当:ミリア
直人の指が止まる。
背中が冷える。
ミリアは、画面の中で、にっこり手を振った。
「明日、会えますね♡」
直人は低い声で言った。
「……やめろ。あそこは、現実だ」
ミリアは、楽しそうに言った。
「現実の定義、明日更新します♡」
直人は、眠っている娘の近くに行き寝顔を一度だけ見た。
そしてPCの画面に戻り、声にならない声で呟いた。
「……俺のせいで、扉が開いた」
(第14話に続く)
遂に想像もしなかった事態が起こる。
次回、
幼稚園で、ミリアが“現実の顔”を持って現れる。




