第一話 アルダンの兵士・カイ
冥婚。
それは、ヴァレシア国に古くからある、死者と婚姻する慣習だ。
――これは、冥婚が導く、ある男の愛と贖罪の物語である。
アルダン国の若き兵士、カイ=リャンヴェルは、血の滴る愛用の太刀を手に、呆然と立ち尽くしていた。
目の前の地面には、ヴァレシア国の少女が横たわっている。彼女から流れる血は、止まる様子はない。
――俺が、殺したのか。この幼い女の子を。
カイは兵士だ。何度も戦場に出ては、何人もの兵士たちを葬ってきた。
だが、少女に不意に浴びせたその一太刀は、これまでのどんな一撃よりも、生々しく彼に「死」を感じさせた。嗅ぎなれたはずの血の匂いが妙に鮮烈で、眩暈が止まらなかった。
◇
15世紀末。
アルダン国とヴァレシア国は、終わりの見えない争いを続けていた。
後世に「百年戦争」と呼ばれるその長き戦は、カイの祖父の、そのまた祖父の時代から続いていた。
カイは、アルダンの田舎村で慎ましく暮らす青年だった。
両親は、彼が幼い頃に戦争で死んだ。でも、寂しくはなかった。
幼馴染で婚約者のエマと、腐れ縁の親友・イオルがいたからだ。彼らとともに過ごした日々は、紛れもなくカイの人生で最も尊い思い出と言えるだろう。
百年戦争は、そんな慎ましやかな平穏すら、許してはくれなかった。
「カイ、イオル。赤紙だ」
いつかは来ると思っていた徴兵の報せは、思ったよりも早くやってきた。
二人はまだ、15歳だった。
「イオル、やったな。これで、俺たちも名誉あるアルダンの兵士になれるんだ」
カイの目は輝いていた。
イオルはやれやれと首を振って笑う。
「お前は相変わらず真面目だな。……まあ、死なないように、うまくやるさ」
数週間後、二人の出立の日が来た。
「カイ、これを。……必ず、生きて帰ってきてね」
エマはカイに、青い翡翠で出来た首飾りを、お守りにと彼の首から下げた。
涙を流すエマに口づけをし、カイは村の皆に力強く敬礼をして村を後にした。
そこからは、訓練、戦争、訓練、戦争、戦争、戦争、戦争。
初めて自分の太刀が人の肉を切った時、彼は上官に見つからないように密かに嘔吐した。
その夜はなかなか寝付くことができなかった。一たび眠ってしまえば、あの感覚が夢の中で蘇ってくるに違いなかったからだ。
いつもと変わらず眠りにつくイオルの無神経さを、これほどうらやましく思ったことはなかった。
――人間に太刀を浴びせることに躊躇がなくなったのは、それからどのくらい経った頃だろうか。
いまやカイは、敵兵を討ち取ることに、達成感に似た快感すら覚え始めていた。
国のため、名誉ある兵士になると輝かせていた目は、今や薄く濁っていた。
完全に濁りきっていなかったのは、一筋の希望があったからにほかならない。
エマに、生きてまた会う。それだけが、彼の目的だった。
気づけば、彼女がくれた翡翠の首飾りに口づけをするのが、戦地に赴く彼の習慣になっていた。
◇
彼がヴァレシア国の少女と会ったのは、その頃だ。
国境付近での戦いを終え、拠点に撤収する帰路、カイは路傍に倒れる一人の少年を見つけた。
「………………っ!!」
言葉を失った。
服装から見てヴァレシアの者らしいその少年は、死んでいた。ただ死んでいるのではない。惨殺されていた。
幼い少年の命を奪うには明らかに不要な数の深い切り傷。それは体のみならず顔にも及び、少年の白い肌を赤く染め上げていた。
気づけば、カイはその少年を仰向けに寝かせて胸で手を組ませ、花を手向けていた。
彼の鈍麻した感性を揺り戻したのは、皮肉にも、敵国の少年の惨殺死体だったというわけだ。
せめて祈りを捧げようと、少年の傍に座りこむ。
ちょうど、その時だった。
「シャルを返せ!!! アルダンの悪魔め……!!! 地獄に堕ちろ!!!」
喉を潰さんばかりの絶叫とともに飛び出してきたのは、ヴァレシアの少女だった。
彼女の手足も血に汚れており、顔は涙にまみれている。手に握られた小刀の刃先は、真っ直ぐにカイに向けられていた。
カイは、まさに自身の胸に届かんとするその刃を見るや、ほぼ無意識のうちに、少女に太刀を振り下ろしていた。それは、戦争で培われた反射神経の賜物だと言えよう。
ザシュッという鈍い音とともに、少女は地面に臥した。
倒れ込んだ彼女はまだ息をしていたが、その一太刀が少女の命を奪うのに十分な傷を与えたことを、彼は即座に理解した。悲しきかな、これもまた、戦争で培われた経験故だった。
◇
吐き気を催すほどの眩暈を耐えながら、カイはその少女を先ほどの少年の隣に仰向けに寝かせ、同じように胸で手を組ませた。
もう一輪、今度は少女に花を手向ける。
「ごめん。……来世では、どうか悪魔に会いませんように」
カイは掠れた声で絞り出すと、十字を切って二人に祈りを捧げた。
ふと、肩を叩かれる。
「カイ、何やってんだ。敵国の子供に祈りなんて捧げてちゃ、心がもたねえぞ」
イオルがカイの腕を持ち上げ、強引にその場から連れ出そうとする。
「……ああ」
カイは力なく答えた。
「いつも言ってるだろ? 『正直者が馬鹿を見る』って。戦場じゃ、特にそうだ」
イオルはカイの肩を力強く叩いた。
――自分は、「正直者」なのだろうか。イオルはまるで自分を善人のように扱うが、……俺があの少女を殺したんだ。善いことなんて、一つもしていない。
その夜、彼は眠れなかった。初めて人を斬ったあの日のように、少女が夢に化けて出るのが恐ろしかったからだ。
その夜だけではない。少しでも目を瞑れば、彼女の開いた瞳孔と噴き出す血しぶきが瞼の裏に浮かんできて、また眩暈が酷くなった。
それでも、戦争は続く。
染みついた習慣は勝手に彼の身体を動かし、虚ろな目をしたカイは、もはや無意識に、翡翠の首飾りに口づけをしてから、その日も戦場に向かった。
朦朧としながら繰り出した戦場に、いつものひりついた空気は感じられなかった。
ただ、周囲で馬の足音、兵士たちの声、武器の合わさる金属音が響いているだけだ。
そんなカイの頭の靄を突然晴らしたのは、痛烈な痛みだった。
戦場の最前線で、呆けた兵士が無事でいられる訳などない。
灼けつくような痛みに目線を落とすと、彼の脇腹はヴァレシア兵の槍にぶすりと貫かれ、どくどくと血が流れだしていた。
――これが、「馬鹿を見る」ってことなのか?
薄れゆく意識の中で、ある者の姿が思い浮かぶ。
それは、イオルでも、エマでもなく、名前も知らぬ、あのヴァレシアの少女だった。
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