神秘の獣
《夜鳥》視点
魔力風に巻き込まれて転移した一件以降、樹さんは意外と怖くないと思ったのか、外出を好むようになった。もちろん一人では出掛けないが、気になる物があれば先に行こうとすることもある。元気になってくれたことは嬉しいが、もう少し警戒心は持ってほしい。護衛は隠れた場所にもいるとはいえ、あまりに好き勝手動かれると心配になる。今日も少し散歩と言って大公邸の敷地の外を出歩き、どんどん離れていく。魔物のあまりいない場所を選び、賊への警戒も怠っていない。それでもその危険のある場所だという話を忘れてしまっているような態度には不安も抱く。俺たちへの信頼なのか、ただの油断なのか。ただの冒険者などであれば出入りできる場所であり、いるだけで不審とは言えない。そういつも以上に彼の傍から離れないよう気を付ける。
自然の中に包まれる感覚を好むのか、何もない森の中を彼は弾む足取りで進んでいく。そんな中、水色のピアスをした女性に出会った。樹さんより小柄だが、皇国女性と考えると取り立てて小さいというほどではない。《秋風》の配下になるが、こんな所で何をしているのだろう。そのことに樹さんは気付いていないようについていく。桃色の髪と水色の瞳が可愛らしい印象を与えるが、背中には槍を背負っており、戦う力を持った人だと分かる。こんな所を一人で行動できる人なのだ、油断して良い相手ではない。それなのに樹さんは誘われるままついていく。彼女も来てほしそうに何度もこちらを振り向いた。しかし話すことはなく、ただ進んでいく。
到着した場所は地下への入口にも似た洞窟の前。護衛もいる今は地下に入ることは避けたい。彼女が俺たちの傍に立つ。洞窟の中に入れと言うように立ち止まり、突然槍に手を伸ばした。そんなことをさせるわけなく、樹さんを引き寄せれば、彼女の体に大きな白い塊が襲いかかる。護衛の魔術かと思いきや、その白い塊は虎の姿を取った。
「助けて、くれたのか。」
驚いただけの様子で樹さんが呟く。女性のことは他の護衛が取り押さえるが、樹さんはそちらに見向きもせず、白い虎に目を奪われている。先ほど話さない人間について行って危険な目に遭ったというのに、また白い虎について行こうとした。答えがあるわけもないのにどこへ行くのか問いかけ、名乗れるわけもないのに何者なのか問う。神秘的に見える獣に関心を示すことも分かるが、人語を解すると思うのはお伽噺の聞きすぎだろう。何を思ったか名前を付けるとまで言い出し、立派な体高の彼に似合わないヴァイスと名付けた。良い名前だと自分で思ったのか、何度もその名前を呼びかける。ヴァイスも諦めたように数回に一回は鳴いて返事をした。自分の名前を認識したのか分からないが、樹さんは返事をしてくれたと喜んでいる。気分が良くなったのか、またどこに行くのか尋ねた。
「言葉が分かったらいいのにな。」
暗くなり始めた。そろそろ帰らなければならない。渋る彼を説得し、屋敷に向けて歩き出す。ヴァイスももう来ないと察したのか、樹さんの傍に移動した。それにも彼は喜び、良いかなと繰り返し、恐る恐るヴァイスに触れる。
「意外としっかりしてる!密度の高いスポンジみたい。綿菓子みたいな見た目なのにな。」
戯れるのも良いが、夕食までに帰りたい。樹さんの速度に合わせていては日が沈むどころか朝になってしまいそうだ。ここは俺が抱えて強制的に連れ帰ろう。そのために俺が傍にいるのだから。
「え!?じゃあヴァイスに乗る。乗せてくれる?」
大人しく理知的に見えるが、野生の動物だ。乗せるつもりで体を屈めてくれるが、乗せるわけにはいかない。ヴァイスの動きに樹さんが対応できなければ落下してしまうのだ。馬より低いとはいえ危険であることには変わりない。不服そうな彼にも説明し、後日、安全な場所で試そうと今は俺の背中に乗ってもらう。
もう帰らなければならない時間だと理解したのか、残念そうではあるが大人しくしてくれる。次第に会話も減り、重さが増した。規則的な呼吸は聞こえる。眠ってくれているならそのほうが都合が良い。このまま寝室に連れて行ってしまおう。
夕食の時間も遅らせ、樹さんが目覚めてから共に取ると大公殿下は仕事に戻られた。その間も俺の担当だ。少しの居眠りだったのか、間もなく樹さんは目覚める。目を擦ったかと思うときょろきょろと周囲を見て、ヴァイスはどこ、と問う。よほど彼が気に入ったらしい。安全のため、また広さの問題もあるため、一時的に牢に入ってもらっている。
「牢?駄目だろ、そんなの。何も悪いことしてないのに。早く行くぞ。」
他の使用人たちの不安を軽減するため、また、ここまで何もなかったとしてもここから何もないとは限らないため、一時的に入ってもらっているだけのことだ。こちらの言葉を理解しているのか、樹さんが起きるまでここで、と言えば大人しく入ってくれた。冷たい床に直接寝転ばなくて良いよう、毛布などは用意してもらえているため、心配は要らない。しかし樹さんは説明を聞く前に飛び出していく。牢がどこにあるかなど知らないだろうに、どこに行くつもりなのか。
説明しつつ、牢へと案内する。話を聞いても心配なのか、早く早くと落ち着きのない様子だ。牢でのヴァイスはすっかり自分の家のように寛いでいる。樹さんの視線に気付けば柵のほうに近づき、彼の手を舐めた。ヴァイスからは一度も攻撃性が見えていない。樹さんを守るために女を倒した時のみで、それも凶暴といった様子ではなかった。彼もこうして触れて心配要らないと感じてくれたのか、ようやく落ち着いてくれる。ヴァイスも興奮した様子がないため、牢を開けても良いだろう。まだ大公邸の中の自由に動いてもらうわけにはいかないが、この中に樹さんが入るなら問題ない。そう開けると喜んで樹さんはヴァイスに飛びつく。人間より虎のほうが落ち着いているではないか。
「いいだろ、別に。それよりさ、御子が特別なら、その御子を守ったヴァイスは聖獣ってことにできないかな。そうしたら自由に外に出られるよな。」
樹さんと会わせるかどうかは俺に託されたが、大公邸の中を歩き回るには大公殿下の許可が必要だ。そう言うと樹さんはすぐに大公殿下の執務室へと向かった。今日は特に落ち着きのない日だ。パタパタと小走りに、扉を叩きながら話したいと呼びかける。こんなこと、樹さんにしか許されないだろう。子どもに見えないかといつも気にしているのに、今日は気にせず行動する。もうどう見えるか気にならなくなったのだろうか。大公殿下の笑い混じりの許可にもご機嫌な様子だ。
「待っていた。夕食を取りながら話は聞こう。」
移動中も大公殿下は樹さんの心身の状態を気にかけ、それから話を聞かれる。すっかり馴染みの様子でご機嫌な報告と可愛いお願い事が続いた。ヴァイスを連れ出し、一緒に過ごしたい。大公殿下と眠れない日は俺や光さんも良いが、ヴァイスとも一緒に眠れるようにしてほしい。大公殿下としても人より獣のほうが良いのか、簡単に牢から連れ出す許可を与えた。
ヴァイスは非常に利口で、他の使用人が体を清めている間も危害を加えることはなかった。そのおかげか邸内の移動にも制限はなく、樹さんが望むだけ連れ歩ける。町に向かうことは制限されているが、人々に混乱と恐怖を齎さないために必要なことだと理解し、それ以上は望まなかった。初対面の時から樹さんを守る行動を取ったヴァイスは護衛たちからの評判も良く、すぐ傍に頼りになる彼を置いてくれるならむしろ安心、と歓迎している。
今日の散歩は泉での水浴び。予定では地脈花までの道中にある場所なのだが、突然樹さんは目的を変える。守られる立場と理解し、慣れてきたとはいえ、やはり人の目から逃れたいこともあるのだろう。そう地下への隠された入口の手前、小さな地下道のようになっている場所を何度も抜け、護衛を振り切る。ここからは俺が護衛として彼を守らなければならない。そんなこちらの緊張などどこ吹く風と樹さんは人のいない泉での水遊びを楽しみ始める。深い箇所と浅い箇所があり、せめて安全のため深いほうには行かないよう頼んでいる。パシャパシャとできれば良いのか、今の所樹さんもこれには従ってくれている。
「ヴァイス、こっちおいで。」
無闇に肌を晒さないよう大公殿下から注意されているため、服は着たままだ。肌に張り付き、透けてしまっているため意味がないようにも思えるが、これで良いなら俺から言うことは何もない。ヴァイスも大きな体躯で水を浴び、樹さんと掛け合って遊んでいるようにも見える。
「飛鳥も!ほら、食らえ!」
護衛が他にいるならともかく、今の状況で呑気に遊んでなどいられない。適当に相手をしつつ、念の為、他にこんな姿を見せて良い相手は大公殿下やエリアス様だけと注意する。迂闊にこのような姿を見せては不埒なことを考える輩が現れるかもしれない。
楽しい遊びの時間を邪魔する者が現れる。樹さんに近づかないよう制止すれば、ヴァイスも警戒心を剥き出しに唸った。
「冒険者には見えないけど、君はどこの子?貴方も駄目でしょ、こんな可愛い人をこんな所で無防備に遊ばせちゃ。」
桃色の髪に紅い瞳の見知らぬ青年。刀を腰に佩いているが、抜く様子はない。片耳には水色のピアスをしており、彼も地下の民と分かる。こちらの警戒心を読み取ってか、油断させるためか、軽い調子で言葉を続けた。
「小さな獣使いか何か?それなら無防備なことにも納得だけど。」
彼はヴァイスを観察している。おかしなことをしたら斬る。そのつもりで身構え、俺たちの警戒心に樹さんも身を潜めた。
「怖がらせちゃったかな、ごめんね。僕は夏川跳。小さな旅人に出会うのは珍しいから、思わず声を掛けちゃったよ。」
何度も言われる小さいという言葉に樹さんが徐々に不機嫌になり始める。男性の体で女性の服装のため、そこまで小さな印象は与えないはずなのに、夏川には小さいように見えているらしい。透けているため男性と分かったのかもしれない。近くにいる俺とヴァイスが大きいせいもあるだろう。警戒しつつも自己紹介を行う。当然、御子であることを伏せての紹介だ。つまり大公妃であることも言えない。発言には気を付けつつの会話の最中、また誰かが近づく。ここは意外と人の来る場所だったのか。それならと樹さんに上着を被せる。肌の露出は大公殿下の好まれるところではない。
「秋瀬じゃん。今日は実里迎えに行くって言ってなかった?」
もう一人の彼は秋瀬夕日。彼も水色のピアスを着用している。夏川、秋瀬ともう一人、春海実里の三人で冒険者をされているそうだ。
「実里はどこかの誰かに捕まってしまってね。大きな白い虎を連れている人、という話だったけど、もしかして君たちか。」
樹さんに危害を加えようとした女が春海実里。あの女の仲間からはすぐに離れるべきだ。たまにはと護衛を振り切るような動きを容認すべきではなかった。ヴァイスも二人への警戒を緩めない。既に御子ということには気付かれているだろうか。樹さんはまだ警戒しつつも会話を試みている。夕食の時間には戻るが、それまでは水遊びとヴァイスに行き先を任せたお散歩。だから護衛をまず振り切ろうとしていたのか。話を聞いてもらえることに気を良くしたのか、ヴァイスは人の言葉を理解している、自分のことを守ってくれると親馬鹿のような発言を続ける。ヴァイスもその言葉に応えるようにこっちだと樹さんの体を押した。彼らから引き離そうとしてくれているのだろうか。
ヴァイスに従い、彼らから離れるように泉を出る。まだ先に進みたそうだが、まずは服や髪を乾かしたい。熱くなりすぎないよう注意し、繊細な魔力操作で乾燥させる。火属性の俺の魔術ならこれで体が冷えてしまうこともないはずだ。顔色を見る限り問題なさそうだが、念の為本人にも確認する。
「うん、大丈夫。あっちのほうに何があるか知ってる?」
自己申告は当てにならないが、適当な返事からはそれより気になることがあると分かる。あっち、とヴァイスの行こうとしていた方向を差しているが、そちらは大公邸からさらに離れる北方向。北方砦も少しここからでは方角がずれる。何よりヴァイスが行こうとする理由が分からない。しかし秋瀬には心当たりがあるそうだ。
「聖域と俗称される地脈花がある。ここからだとかなり距離があるけど、本当に行く気か。」
まだ昼前であり、北方砦までの範囲にあるなら秋の近づく今も散歩できる程度の気温だ。護衛が追いついている様子はないため、後日に回したほうが良いが、樹さんは今行く気満々だ。ヴァイスの警戒心と戦力を当てにして良いのなら、今から向かうことも可能ではある。
何故か秋瀬二人と一体で向かうことはお勧めしないと心配のような言葉を掛ける。一日で行ける距離でもない、北方砦よりもさらに北だ、と引き留め始めた。その情報を得られたことは嬉しいが、何か罠でも仕掛けたいのかとの疑念は生まれる。仕掛けられたとしても行かなければ良いだけのこと。今日の所は樹さんを説得して帰るべきだ。
「また今度なら一緒に行ける。どうだろう?戦力は多いほうが安全だ。」
全く必要ない申し出だが、その理由は教えられない。そう誤魔化していると、自分たちの戦い方を教えてくれる。聞き流していたのだが、魔術が得意と言っている秋瀬も人を守りながら戦うのは不得手という言葉が聞こえた。冒険者同士三人で行動を共にしているのなら、それぞれ自分の身は自分で守る作戦が取れる。護衛や騎士という立場の人々とは異なるだろう。敵を倒すことを目的としているか、誰かを守ることを目的としているか。俺も後者に近い。
旅の日程の話題になってようやく口を挟む。また時間を取れた時に向かう、その時に自分たちで十分準備する、だから彼らの力は必要ない。二人は樹さんに興味を持ったのか、春海も含めて何か企みがあるのか、どこか不服そうだ。一方でこの場で強引な行動に出る気もないようで、その場を離れることはできた。一体何だったのだろう。片耳に着けた水色のピアスは《秋風》の配下の証。これは《林檎》に報告すべき案件だ。




