母と慕う子
《実樹》視点
膝の上に乗せられたまま、静かに時間を過ごす。仕事をするなら俺を抱えている必要はないのだが、何なのだろう。まさか大公妃にするつもりであることは無関係だろう。大公妃でも仕事中にこのようなことはしないと分かる。そんな時間に飛び込む男の子の声。
「父上、今いい?」
すぐさま許可を出す相手はエリアス様だ。こうして俺が来ている時に遭遇したことはなかった。その可能性もあったのにどうして今まで黙っていたのだろう。入って来たその子はキリリとした表情の男の子。十歳の割に大人びており、体も大きい。その子も大公様の腕の中にいる見知らぬ女にに気が付いた。締まらない格好だが、立てば流石にエリアス様より俺のほうが大きい。そのことをさり気なく確かめて挨拶する。
「もしかして貴女が父上の大切な人ですか?」
丁寧な子だ。興味津々と言った様子で俺の顔を覗き込む。大公様も俺を大公妃に考えていると教え、二人で遊んで来ると良いと仰った。それは良いのだが、まずは男の姿に戻したい。自分の部屋に戻らせていただき、術式の上で変化の術を使う。戻っても目が見えたままだ。視界が先ほどより少し高い気もする。スカートの裾も良い長さになっており、少しだけ身長が変わっているのかもしれない。
待たせているため急ぎエリアス様を招き入れる。改めて挨拶をし、大公妃に関しては検討中と返事する。大公妃として具体的に何をするのか、どんな知識が必要なのかは少し聞いて分かるものでもないだろう。また後でゆっくりと考えよう。
「そうですか。大公妃ということは僕の母上ということになります。御子様が母になってくだされば、非常に心強いです。ぜひ前向きに検討してください。」
育った環境なのか、個人の性質なのか、話し方も大人びている。それよりも母になる点については何も考えていなかった。結婚も親になることも考えたことなどなく、なったとしても父親だと思っていた。それが突然母親にと言われても困る。それもよく知らない子の母。まずはその子であるエリアス様について知ることから始めてみようか。母になる点からは少し目を逸らしていたい。
質問はまず大公様と十分に話せているかという点。それから遊ぶ時間はあるのかということ。他には好きな遊びや食べ物、時間など。一つずつ順番に聞いていこう。矢継ぎ早に質問を重ねても答えられない。興味があったと言ってくださるエリアス様のことだ。俺にも聞きたいことがおありかもしれない。いや、最初は話し方の部分からか。こんなに丁寧に話されては落ち着かない。友人のような距離で話してはくださらないだろうか。
「ありがとう、母上。父上とはたくさん話してるよ。僕も勉強があるから休憩時間を合わせてるんだ。でもある時からこの時間は駄目って言われるようになって。母上との時間のためだったんだね。」
呼び方も訂正しよう。まだ母になると決めたわけではない。名前で呼んでもらえれば一番受け入れやすい。御子では他人行儀過ぎる。エリアス様の母ではなくともその父親である大公様とは親しくさせていただいているのだ。友達のような距離感にはできる。俺からも少しだけ年の離れた友人になる努力をしよう。そのために必要なものは互いのことを知ること。好きな遊びや時間は何なのだろう。
「最近は神話や寓話を読むのが好き。面白いよ。」
中身を聞けば楽しそうに答えてくれる。大きな白い虎が窮地に陥った人々を次々と救う話が特にお気に入りのようだ。にこにこと笑っている様子が声だけでなく表情からも分かる。見て感じられる交流だ。
「母上のもう一つの姿もとっても綺麗だったよ。そうだ、お伽噺の中には昔の御子の話もあったんだ。教えてあげるよ。」
呼び方は訂正できないらしい。これは大公妃になってほしいという希望なのか、名前で呼ぶのは気恥ずかしいのか。一度聞き流すことにすると昔の御子の偉業について話してくれる。一部は俺も知っている瘴気浄化や能力の底上げを行う加護に関する話だが、知らない内容もあった。それは幾つもの姿を持つ御子の話。人間の男性の姿も女性の姿も子どもの姿も犬や猫、狐、鳥、人魚、馬、蛇などどんな生き物にもなれたと言う。眉唾物の話であり、御子に限らずそんなことをできる人の話は他にない。もう一つの姿すらなれる人がごく少数なのだ。世界樹に思い出させてもらうというやり方では生まれた時の姿ともう一つの姿の二種類が限界。何かになるという願いを乗せた変化の術は可能なのだろうか。
やってみてよという声に応え、変化の術の術式を描く。指でなぞり、頭の中に描いた時と異なり、実際の術式をこの手で描く。こんな雰囲気の線が描かれていたのか。自分でもこんなに美しい術式が描けるようになっていたのか。見えない中ではなかなか実感の難しかった部分が今、この目で確かめられた。しかし他の姿を願っても術式は応えない。やはりただの言い伝えなのか、俺にその才能がなかっただけなのか。エリアス様も残念がっておられる。少々申し訳ないが、こればかりは仕方のないことだ。
「ありがとう、母上。僕も勉強頑張るよ。母上も頑張って。」
勉強の続きをするという彼を見送り、俺は大公様の下に戻る。ひとまず母上呼びは受け入れたが、本当に母親になるわけでも大公妃になると決めたわけでもない。そのことを伝えておかなければ気付かないうちに事態が進められてしまいそうだ。
そっと執務室の扉を開く。今はお忙しいだろうか。極力時間を作ると仰ってくれていても大公としての仕事は片手間にできるものではない。あまり邪魔してはいけない。そう様子を窺っていると大公様は声を掛けてくださった。
「エリアスとの遊びはもう良いのか。ならおいで。」
見えている状態なら簡単にその膝に座れる。太腿に腰掛けるようにすれば大公様も仕事をしながら相手できると言ってくれていた。話はできないが、意識していると示すように時折体に手は伸びてくる。いや、もう見えているのだから触れられる距離でなくても良い。そう思って周囲を見るが、近くに座れるような椅子はなく、傍で話すならこの位置が最良になってしまう。妃でも仕事中に膝の上には座らないだろう。それこそ小さな子どもくらいで、エリアス様もきっとこのようなことはしていない。
気を取り直してエリアス様との交流について伝える。彼の興味について聞いたことも話すが、重要な部分は彼が俺を母上と呼んだこと。前向きに検討してほしいと言われ、呼び方の変更を求めても母上と呼び続けた。大公様が何か指示したのだろうか。
「いや、お前もエリアスも戸惑うかと思ってな。特に何も言っていない。あの子がお前を気に入ったのだろう。」
気に入っていただけて嬉しいが、妃という立場になるのだ。もっと美しい、あるいは可愛らしい女性になってほしいと思うことはないのだろうか。俺は男性であり、特別美しくも可愛らしくもない。女性の姿も手に入れたが、美しさや可愛らしさはよく分からない。大公様や光さんは綺麗や可愛いと仰るが、御子であることを前提にした褒め言葉に過ぎないだろう。それが俺にとって嬉しい言葉かどうかはさておき、彼らは褒めるつもりで言ってくれている。目が見えるようになり、体も元気になっている今、一人で着替えられるのだから着せ替え易さなど問題にならず、格好良い服でも着られるかもしれない。
「確かにそうだが。たまには今のような服も着てくれると嬉しい。」
たまに、くらいなら良いだろう。大公様の選ぶ服を着てさしあげよう。大公妃らしい服装も選択肢の一つに入れるだけで、他の服も着られるならもう抵抗もない。鏡を見る度驚くかもしれないが、それもそのうち慣れるだろう。大公妃らしい服装をするなら女性の姿だ。もう一つの姿ならいつでも男の姿にも戻れるのだ。特に何の危険もない。
「健やかに過ごすことが第一だ。頑張ろうと思えるならそれで良いが、無理はするな。」
御子の役割の第一は瘴気を浄化すること。瘴気の浄化には健やかな心身が必要。だからこうしてやってみよう、頑張ろうと思える状態なら良いが休むこと優先、と言ってくれている。そのために光さんなど人を付け、自分も時間を使い、気にかけてくれているのだ。何かお返しをしたい気持ちになっても何らおかしなことではないだろう。そのお返しの内容が人生を左右するものになったとしても。
「お前に傍にいてほしいのは御子だからというだけでも美しい大公妃に見えるからでもない。女性の体である必要は全くない。」
大公妃になるために女性の姿に慣れようとしているわけではない。そう反論すれば良いだけなのに言葉を発する前に優しく撫でる手の意図が気になってしまった。不快感はないが、何のつもりなのだろう。御子なら誰でも良いわけではなく、美しい大公妃に見える必要もないのに、俺には傍にいてほしい。エリアス様が慕う相手が必要なのだろうか。御子には何も強制できない。だからこの言い方になっているのではないか。俺が迷いつつでも大公邸で過ごそうとしていることも大公様は受け入れてくれるだろうか。
結論の出ない迷いに満ちた思考を放棄し、報告を続ける。女性の姿は大公妃として隣に立つに相応しいだろうか。そう再びその姿に変化してみせる。少しだけ合わない服、さらに高い位置になった大公様の頭、膨らみのできた胸。これらを大公様はどう考えられるのだろう。
「元々可愛らしい顔つきだったからな。意識すれば差異もあるが、全体的な印象としての変化はないな。」
複雑な気分だ。褒めるつもりであることは分かる。そのうち格好良いと言ってもらえるようになるだろうか。そんな俺の思考を大公様の手が邪魔をした。何を考えているのか大公様の手は怪しい動きで俺の下腹部や胸部をなぞっている。徐々に上がってきた手はいつも通り頬を撫でた。いや、いつもより優しい手付きのようにも感じられる。額に口付けられ、唇にも指で触れられる。見えない頃は俺を安心させるために沢山触れていてくれたと分かるが、今は何なのだろう。癖のように動いているだけだろうか。それとも大公妃にという話にも繋がる何か意図があるのだろうか。
しばらく相手してもらい、公国の常識、文化、貴族社会の決まり事や礼儀などについての勉強に戻る。頑張って褒めてもらおう、喜ばせようなんて子どもの思考だろうか。そう自覚しつつも大公様に報告することを楽しみに、エリアス様にも負けないよう気合を入れて、光さんの言葉に耳を傾けた。
一日の予定を終え、残るは休む時間のみ。大公様も今日は緊急の仕事が残っていないようで、夕食も三人で一緒に取らせてくれた。食後の寛ぎ時間も後の予定を考えず一緒に過ごせる。今日学んだことをエリアス様と一緒に報告し、合間の時間のことも話し、一日の疲れを癒やしていく。大公様の話も聞きたいと言ったが、話してくれることは少ない。
「お前の声を聞くことが俺にとっての癒やしだ。もっと聞かせてくれるか?」
エリアス様もおられるのだからそちらを優先して話を聞いて差し上げるべきだ。子どもが優先。俺はそこまで幼くなったつもりはない。
「僕はそろそろお風呂に入って、ゆっくり休むよ。明日は早起きしたいからね。お休みなさい、父上、母上。父上、本当に母上になってもらえるように頑張ってよ。」
「ああ、お休み。任せておけ。」
光さんも止める気がないことは昼間に確認し、その上今は彼もお休みの時間で傍にいない。飛鳥も家族の団欒の時間を楽しめと離れていった。この大公邸には俺を大公妃にしようとしている人間しかいないらしい。使用人にまで話を広げれば別の考えの人間もいるかもしれないが、大公様やエリアス様、俺の最も傍にいる光さんと飛鳥の意向を変えられるような立場ではないだろう。
諦めて話し続け、俺たちも入浴の時間を迎える。服はもう自分で脱げるのに今までのように大公様は脱がせた。見えるようになったことにまだ慣れていないのだろう。段差が危ないという発言もその推測を補強してくれる。頭と体を洗ってくれる流れも自然なもので、何も考えずに受け入れてしまった。しかし体を流す頃になって手付きが異なることに気づく。女性の体になっているからか、服の上からではなく直接触れて変化を確かめようとしているのだろうか。怪我が治ったばかりの頃も同じように触れられていた。変化の術のため心配要らないだろうが、それでも悪影響がないか気にしてくれているのかもしれない。もう一つの体であることを実感している。初めての体のはずなのに初めての気がしない、この短時間で既に馴染んだ体だ。むしろ大公様の逞しさも強く感じられる素敵な変化がある。
綺麗に洗われていく感触は相変わらず心地良い。時折降ってくる口付けがそんな気分をより高めてくれる。そうした気分に任せてくすぐったさ由来の声を漏らすが、少しその感覚から逃げるために体を捻ると閉じ込めるように抱き締められた。
「責任は取る必要があるな。」
手の意図が分かった。口付けの質感も変わった。彼から逃げるべきか、大公妃という話を前向きに検討するなら受け入れるべきか。迷っている間に入浴の時間も終わり、風呂上がりの髪を乾かす時間も終わった。体を拭う手付きからは俺の様子に気付いてか別の意図が消えていた。それなのに相談をしようと布団に連れ込まれてしまった。




