十六夜の温泉
《林檎》視点
六華からの話では十六夜領主は私たちの密会に協力的で、上手く場所の調整をしてくださったそうだ。一葉様が私を星見会には堂々と伴っても、温泉旅行は堂々とできない。そう伝えてくださったため、私たちの恋を応援するつもりで尽力してくださったとか。六華を好意的に受け入れてくださった方だ。身分のことはあまり気にしておられない、もしくは私たちがその問題に対処すると信じてくださっているのだろう。六華に対する信頼が私への信用にも繋がったのかもしれない。飛鳥様からも私のことを聞いていた可能性もある。親しくしていたため、好意的な話になったことだろう。
彼らの協力のおかげで無事に同日宿泊という形に収められた。私も花様の侍女として同行し、また船に揺られている。花様も楽しみにしてくださっており、私が一人で来た時はどうだったのかとしきりに尋ねられた。温かな湯が体の芯まで解し、疲れも全て洗い流してくれる。そう説明することは簡単だが、その身で味わっていただくことが肝要だ。
旅館に着けば一日目は別行動。花様も春仁様との時間を楽しんでおられることだろう。皇都や二条家領ではもうそろそろ夏の日差しだが、ここ十六夜領北部ではまだ春の陽気だ。散歩には適した季節だがその気持を抑え、一葉様と合流する。
「後で海辺も歩こうか。泳ぐにはまだちょっと早いけどね。」
自然な流れで手を包まれ、海の見える一室でこの後の予定を相談する。今日は残り半日、ゆっくりと二人の時間を過ごそうとだけ言っており、具体的な予定はない。その相談の時間も先を決めずに歩く時間も大切な二人の時間だ。海岸を歩こうか、波打ち際で遊ぼうか、少し濡れてしまうだろうか、それも良い、と話していく。海を見下ろす高台も良い。そちらも風が強くはないだろうかと言いつつも、結局海岸を歩くことに決めた。
高台も海岸も歩いて行ける距離だ。精一杯のお洒落をして、手を繋いで、隣を歩く。必要な情報共有ではなく、ただの他愛ない会話をする。焦る気持ちを抑えての時間も必要なものだ。いつもより歩く速度も遅く、時間を気にせずに行動する。すべきことも一時忘れて、ただの一人の人間として話すだけ。六華の話も当然出るが、十六夜家の次期領主の妻が私の友人、元同僚と聞いて驚いたというだけ。一葉様も皇子として、地下の人間として、その有用性を論じることはない。
砂浜に足が沈む。暖かいこの時期には水遊びもしたくなるが、綺麗な貝殻を探すだけでも非日常だ。少し湿った砂に触れ、光る欠片を手に取る。貝の形が残っている物もあり、巻き貝らしき物もあった。
「流石に海の中には入れないね。次は南のほうに旅行に行かない?」
泳ごうという話だろうか。南には四辻領があり、《虹》が次期領主として励んでいる地域になる。《鬼火》に頼めば密かな旅行は可能になるかもしれないが、彼女の家族関係を事前に把握する必要はあるだろう。十六夜家は良好、元々地下の住民である六華、秘密を共有済みの椋様がおられる。そんな家の領地だからこそ今回のような旅行が可能になっている。南部への旅行実現のためには越えるべき壁が多そうだ。正式に婚約者となってしまえば何の困難もないか。
正式に、という言葉には何の反応もなく、散策の時間は続いた。次第に体は熱くなり、冷たい物が欲しくなる。そう一度町中に戻り、茶を貰う。爽やかなお茶と優しい会話。次は高台に登ろう。先程間近から見た海の姿を、少し高い場所から眺める。そんな楽しみを語り、まだまだ力の残る体で高台へ向けて出発した。整備されてしまっているため景観としての美しさは下がるが、登りきった場所からの景色はその限りでない。やはり風は地上よりもあり、涼しさも感じられる。爽やかな風が隣の島まで見せてくれ、先ほどまでいた海岸への未練を思い出させる。もっと遠くまで見えるだろうか。そう思い始めたのに、雨がちらつき始めた。
「果穂さんには雨も似合うね。大人になってより美しくなったよ。」
学校に通っていた頃に何度も雨の日を共に過ごしている。濡れた姿だって見せている。王国にも共に行った。久しぶりに会ったというわけでもないのに不思議な感想だ。この一年で私も成長したのだろうか。鏡を見ても自分が変わったようには思えなかった。果樹園に実った幼い娘の延長線上に今の私もいる。何をすべきか、何をする立場にあるのか、私が何をしたいのか。それらが矛盾せずにいられる場所は同じ果樹園の中にある。顔立ちもあまり変わっていない。
隣を見れば柔らかな表情をしている一葉様がいる。今は寛ぐ時間のためだろうが、思い返せば王国で仕事をしている時間は学生の頃より凛々しい顔付きをしていたような気もする。同じように一葉様も私の印象が少しだけ変わったのだろうか。
「暗くなる前に帰らないとね。美味しいご飯が待ってるから。」
そろそろ戻り始めよう。手を引かれるままに階段を下り、そこで引き止める。明日の案内に備えて先に探索している振りをしておきたい。直接言葉による説明はできないが、もう少し一緒に歩いていたいと誤魔化し、今度は私が手を引いて先を歩く。秘密の道の場所は知っている。今回は行かない。明日行くために、誘う自然な状態を用意するために、今日一緒に歩く。
気温は下がり始め、肌寒いと感じられるようになってきた。暗くもなり始めた。もう町の外に留まることが危険になる。そうなってようやく宿に戻った。宿では温かい料理が待っている。小さな鍋に焼き魚、貝とどれも舌を楽しませてくれる。日頃食べることのある食材でも調理する腕が変わったからか、あるいは食べる場所が変わったからか、何だか新鮮だ。美味しい、これ好きと会話しつつの時間は、これが今回の目的だったと言ってしまいたいくらいだ。
食事の後の寛いだ時間も終わり、温泉へと向かう。冬場は開放されている温泉地が減っているそうで、今も真冬ほどではないが制限されている。今回は安全のため、宿から繋がる場所が選ばれている。屋根のおかげで雨でも傘を差さずに移動できる場所だ。一葉様とは別れ、一人での入浴になる。花様は春仁様と共に別の湯を利用される予定のため、ここで遭遇する可能性もない。何も考えずに全身の緊張を緩める。染み渡る温かさに疲れが全て染み出していく感覚を覚えた。やるべきことを意識し、一葉様と歩いただけの今日でも体は疲れたようだ。湯の中でうとうとと瞼が落ち始める。ゆっくりと浸かっていたかったが、そろそろ上がらなければならない。
涼しい風が熱くなりすぎた体を冷やしてくれる。十分に冷やされた蜜柑果汁も心地良い。半分凍った実も用意されており、特別な気分を盛り上げてくれる。そうして楽しんでいると一葉様も上がってこられた。
「大丈夫?のぼせちゃった?」
お風呂上がりにしても顔が真っ赤になっていたようで、心配そうな様子で隣に腰掛けてくれた。もう眠気は覚めている。続きは部屋で休ませてもらおう。体調に問題がありそうなら宿の人に塩を溶かした冷たい果汁をお願いする。美味しく感じられることだろう。
腰を抱かれるようにして同じ部屋へと戻り、今夜はここで一夜を過ごす。表向き私は侍女のために用意された部屋に、一葉様はお一人の部屋にいることになる。花様と春仁様は見せかけ通りお二人の部屋におられるはず。私たちは隠した時間だ。そして明日は四人で隠した時間を過ごす。私は明後日以降も隠した時間が続く。きっと今夜だけが緊張感から解放された時間になるだろう。
素敵な夜を、そして朝食を済ませ、足湯に浸かりつつ花様たちを待つ。見せかけは足湯に浸かって寛ぐ時間。そこに偶然、花様たちが訪れる。そんな筋書きだ。事は予定通りに進んでいる。昨夜の温泉よりも高い温度の湯が張られた細長い桶に足を入れ、並んで雑談に興じる。勿論内容など決めているものではない。動きも台本などない。それは分かっているのだが、足に注がれ続ける視線は話になかったと思ってしまった。つい手で一部を隠すと、ごめんという小さな声と共に視線は外された。
「見惚れちゃって。全然隠せてなかったけどね。」
反省はあまりしていなさそうだ。見えてはいけない部分など露出していないが、それでも凝視して良いことにはならない。上辺だけの抗議を入れ、見るなら二人きりの室内で、と続ける。勿論そんなことをするなら公的な立場も要求するつもりだ。このくらい言っても許されるだろう。そう強い調子を装うが、一葉様には全く堪えた様子がない。それどころか、それなら見放題、とまで言い切った。抑止の効果はなかったらしい。
そんなことをしているうちに花様と春仁様も通りかかる。当然、頭を下げての挨拶を行い、見知った仲の花様はここでの感想を軽く述べられる。その間も春仁様は視線を上に、私の足を視界から外すようにされているため、速やかに足湯を中断する。花様も足湯に浸かってみてください、とても気持良かったですよと軽く言葉を掛け、私たちはその場を離れた。
昨日とは異なる場所を散策する。二人の時間を求めて、人気のない林の中を進む。昨日と同じような行動、異なる場所。これらは自然に映るはずだ。旅館でも散策することを伝えている。私たちが関係を公的なものとしていないことも考えれば、人気のない場所を求めても何ら不自然ではない。星見会には共に参加したため今更の対応ではあるが、人目のない温泉宿ともなれば星見会の比でない非難が寄せられることだろう。知られた際のことは覚悟している。
「他の人からは見えないね。こんな所まで来る人もいないだろうし。」
誰にも見つからない。そう言いつつ恋人のように手を繋ぐのは万一に備えてだろうか。林に入った位置は適当な場所で、地下への入口のある場所から離れている。散歩しているふりをして、そこを目指す。開け方は聞いた。周囲に人がいないことを確認し、手順通りに道を開く。その横道には簡素な一室があり、少し湿気を感じる以外は問題なく一晩過ごせそうな環境だ。ここは日を過ごすための別荘ではなく、一時的に使用する秘密基地に過ぎないのだろう。
二人で雑談に興じつつ待っていると、程なくして春仁様と花様もやって来られた。私たち同様、他には見つからないよう注意して入って来てくれたことだろう。ここでようやく《果実姫》の配下《金声》と《鬼火》の配下《花》の対面だ。二人共緊張しているようではある。地上では責任ある立場だが、地下でのこういった対面には慣れていない。それでもこの場を望んだ《金声》は議題を提出した。
「地下の民の取り扱いについて相談したい。」
現在、地上において地下の民は存在しないことになっている。あるいは地上での立場も併有している者に関しては地上での立場においてのみ対応がされている。地下に張り巡らされた私たちの領域には何の干渉もない。そもそも知らないのだ。知られないよう私たちは活動を続けてきた。その基本はこれからも変わらない。一方で地上と地下の行き来を容易にもしていく。密かな道が増えることは喜ばしいことだ。現状は《秋風》配下の《地底湖》が運営する《春一番》商会が主な道であり、他はどれも小規模なものとなっている。規模に関わらず地上への道は増やしていきたい。
《金声》と《花》も地下の民の存在に留意されている。贔屓はできないが、地上への出口を用意することには積極的。地下と連携すれば労働力もより確保できるかもしれない。地上での秩序に馴染めなかった人物を地下に受け入れることも可能だが、今まで通り慎重に人は選ぶことになる。迂闊に受け入れ、地上に情報を広められては困る。
「私の家は段階的に使用人を入れ替える予定よ。先代の息が掛かっている可能性のある人間を放置できない。」
誰を解雇し、誰を地下に引き込むかは《鬼火》と私が相談して決定する。少なくとも以前先代領主夫妻暗殺に協力してくれた侍女は地下に引き込むよう推薦するつもりだ。二条家が窓口になるなら行き先も増やせることだろう。地上に対する知識の水準も引き上げられる。
一方の一葉様はすぐに行動を起こすことのできない立場にある。既に領主位を継いだ花様と異なり、一葉様は皇子、その上次期皇帝も姉の皇女。自由にできる部分は少ない。また一ノ瀬家内ならともかく国に関わることは皇帝の独断で推し進めることも難しい。現状、一葉様にできることはほぼないだろう。求めることは情報の提供が主だ。他は千秋領主と共に地下探索を阻止すること。地上の目に晒されること自体が彼らの居場所を奪うことに繋がりかねないのだ。
《金声》も今回は具体的な行動の相談というより、これから協力して事に当たろうという挨拶のつもりだったようで、これで問題ない、目的は果たせたと満足そうだ。《鬼火》も地上で協力できる人間ができたと喜んでいる。直接のやり取りがあれば、地上でのそれとない文面でも伝わりやすくなる。地下のことを念頭に置いた解釈もしてもらえる。この会合に意味があると判断したから、こうした時間を作ったのだ。ただし長くは取れない。林の中の散歩のため、怪しまれる前にそれぞれ町まで戻っておきたい。
ただの恋人同士の秘密の逢瀬のように、手を繋いで町へと向かう。後から来た花様たちが後から戻って来る形だ。町で食事を済ませ、また宿で一日の終わりを迎える。私の休暇はここまでだ。