四辻の悩み
俺と一葉は反省文を免れたが、果穂さんと緋炎は三ツ谷の姉弟と共に反省文を書かされることになっていた。二人とも敵の攻撃に対応しただけ、抵抗しただけと不服そうではあるが、結局書いたようだ。大変不服と書かれた顔で職員室から出てきた二人は謝罪のため待っていた彼方様と万里様を見てさらに気分を下げている。
「ごめんね、うちの弟妹が。ちょっと血気盛んで。」
「私からもごめんなさい。姉様と海里兄様に愚痴っちゃったの。」
「ほんと災難でしたよ。」
緋炎にとっては災難でしかなかっただろう。俺と果穂さんに巻き込まれた形だ。俺からも謝罪し、何かあれば今後も手助けをするつもりと伝える。怒った様子はなく、自分で対処できると遠慮されてしまった。
そんな会話をしていると、もうその場にいなかった人にも事態が伝わっているのか、四辻彩芽様が面白そうに声をかけてこられた。
「聞いたよ、三ツ谷の二人と派手にやり合ったんだって?やるね〜、あの家の人に楯突くなんて。」
楯突いたという表現は適切でない。三ツ谷姉弟の攻撃から身を守るために抵抗しただけ。彼方様は万里様から事情を聞き、万里様とは対立していない。彩芽様は万里様とも俺たちとも違う学年のため、具体的に何が起きたのかはご存じないのだろう。そう万里様が何もなかったことを説明してくださると、あからさまに落胆した様子を見せた。
「生意気な商人の子がとうとう三ツ谷家と直接対決って聞いてんだけど。残念ながら尾ひれはひれの付いた噂だったみたいね。」
三ツ谷家と四辻家は何か敵対していただろうか。《豊穣天使》への敵対と捉えたのか、果穂さんも強い態度で訂正している。《豊穣天使》は果樹園であって商会でない点も彩芽様は把握できていない。果実や作物に興味があれば、《豊穣天使》産の果実は《春一番》商会を通じてのみ入手できることもすぐ調べられる。まだ本格的な勉強は始められていないのだろう。
「危機感の足りない人の頭の中を覗いてみたいと思ったんだけど、期待外れだったみたい。」
ただの商人の子が三ツ谷家に喧嘩を売るなんて、ということか。前提が間違っているこれを考えても意味はないが、非常に美味しいと評判の《豊穣天使》の果実の売れ行きはその話が広まったとしても変わらないだろう。子ども同士が喧嘩しただけで家同士の対立にまで広げるなんて馬鹿げている。むしろ三ツ谷家の評判を落とす行いだ。しかし彩芽様にはそう見えていないようで、ただの同級生ではなく既に家の代表として見ている。この見方が優勢というわけでもないようで、彼方様も諌めてくださった。
「背負う物がない人は気楽でいいな、ってだけの話よ。彼方様だって同じでしょう?」
言うべきではないと判断できているだけで、思いは同じ。彼方様もこの彩芽様の言葉には返せないでいる。領主という地位を継ぐ人たちから見ると何も継がなくて良いから気楽に映った。彼らに比べればそうなのかもしれない。そうかといって何も考えずに過ごしているわけではない。補佐的な立場なのかは未定でも、同じ領地を支える立場としての教育は受けている。領民を守る責任を共有する一員ではあるのだ。果穂さんに至っては果樹園を継ぎたいという気持ちで動いている。駄目なら兄がいるという点は異なるが、それでも何も背負う物がないわけではない。家のことを何も話さない緋炎も彩芽様の言葉に何とか反論しようとしている。
「何も考えずに済むお気楽な立場というわけではありません。あなたは今日の食事の心配などしたことがないのでしょうね。」
子どもを学校に入れるだけの収入がある家の子なら食事の心配はしたことがないだろう。しかしそういった人を目にする機会はあったのかもしれない。俺たちはそういった人が存在するという知識だけで、実際に会ったことはない。減らすために何をするのか、何をしているのかに学習の比重は置かれていた。俺たちがすべきことは同じ生活を体験することではなく、彼らがそんな生活をしなくて良い環境を作ることだ。
「その程度の話をしている点がお気楽だって言ってるんだけどね。じゃ、私も用があって来てるから。失礼いたします、彼方様、万里様。」
彼方様と万里様にだけ丁寧な礼をして職員室に入られる彩芽様。彼女に関しても彼方様は軽く謝罪される。これこそ彼には関係のないことのため、彼からの謝罪は受け入れられないとして果穂さんも緋炎も拒否した。彩芽様からでなければ意味がないのだろう。そんな強気な態度に彼方様は心配を見せる。
「反論するのも良いけど、あまり悪目立ちしないようにね。他の子と比べても君たちは態度が大きいと話題だから。」
万里様は彼方様に隠れて小さく謝罪する。自分が事を大きくしてしまったと思っているのだろう。幼い分周りは心配するのだろうが、そのせいで彼女が小さくなっている。これではむしろ好きに動きにくい。過保護も考えものだ。
二人を見送り、ひとまず俺の役割は終わり。この様子なら彼方様と万里様二人で謝罪に向かっても喧嘩にはならなかったかもしれない。緋炎と果穂さんも二人がいなくなると少し冷静になったのか、彼らは彼らで大変と言いたかっただけなのだろうと反省している。それはそれとしても面白くないこともまた事実。やはり少し愚痴を零している。
「果樹園の人たちだって私の好きにしたらいいとは言ってくれてるけど、彩羽から色々知識を持ち帰ることも期待はしてるんだよ。果樹園が恙無く続くことは彼らの将来にも関わるからね。」
教育環境は領主家と比べて恵まれたものなのか、彼女の家の実際を知らない俺には分からないが、随分良い教育を受けられていたようだ。緋炎も領主の家の子みたいと感心している。もっとも周囲のことを考え行動する立場は領主に限らない。商会の主も従業員のことを考え、子のある領民だって我が子のことを考え、この学校の先生たちだって学生のことを考えてくれている。いつまでも守られる側に居続けるわけではないのだから、誰かを守るためにできることを考えるのだ。
「あの人たちと果穂ちゃんの違いは、代わりがいるかどうか、かな。」
その意味では彼らにだって代わりはいる。基本的に第二子までは領内に残る理由も第一子に何かあった場合には代わりになるためだ。俺もその予定で領主としての心構えも並行して学んでいる。それでも第一には支える立場として、という話をされていた。
「代わりにする人が大変で可哀想だから、って話も花一郎様はしてたよな。」
誰かがやらなくてはならないものだ。突然代われるほど簡単なものではないが、そのための事前準備は行われている。まさか二条家では花一郎様以外に何の教育も施していないのだろうか。領主夫妻に子がない場合はその兄弟姉妹の子、そこにも子がない場合には遠縁の子、と誰か一人は確保するものだ。本人が嫌と言わなくても怪我や病気で突然領主を務められなくなる状況は考えられる。やるものとして教えられはするが、できなければできる人に代えられる。その責任に圧し潰され、他人に当たるくらいなら誰かに代わってと言うほうが良い。
領主家ではどんな教育が行われるのか話し、彼らの好奇心に応える。それは良い影響を与えたのか、彩芽様も何が言いたいのか結局よく分からなかったと再びの対話に意欲を見せた。職員室への用事ならそう長くないだろうという予測通り、すぐに彩芽様は出てこられる。何か良いことでもあったのか、入る時よりも上機嫌だ。俺たちからの一緒にお茶したいという申し出も快く受け入れてくださる。
彩芽様がお茶会の場所に選んだ場所は庭園の一角。目隠しの花々が他人の目や耳を気にせず会話する空間を用意してくれている。社交の場では面倒な社交辞令や本題に入る前の挨拶があるが、毎日顔を合わせる学校ではあまりされない。先ほど会ったばかりの彩芽様にも不必要だろうと早速本題に入る。
「そういうところが未熟だと言っているのよ。まあいいわ、続けなさい。」
質問は果穂さんから。領地を持つ家の、特に跡継ぎの子にとっての家名や領民はどのような意味を持つのか、それらからは決して逃げられないのか、逃げられないならどうして逃げられないのか。考えてくれる彩芽様に俺からも続ける。俺の家で教わったことと、四辻家で教わることには大きな違いがあるのか。領民のために彼らを支え、日々の生活は彼らに支えられ、共に領地で生きていくためにそれぞれの役割を担うだけではないのか。役割の内容が領民は農業や牧畜、商売その他であり、領主はそれらが円滑に進むような環境の整備だ。
「顔の見えない領民のため、それをどこまで思えるのかしら。一番に守るべきは誰?弟妹がこの重荷に耐えられるのかしら。そんなことを考えれば、自分だけ良ければ、なんて行動には出られないわ。」
領民の顔が見えないなんてことはない。少し町に降りればどこにだっている。領地の端になれば気軽に会いには行けないが、領主館の近くの人なら日々会うことだって可能だ。自分の家で働いてくれている使用人も領民の一人。彼らにも親や伴侶、子どもがいる。そうして辿っていけば彼らの名前と顔が一致する範囲だって広がっていく。顔が見えないのは交流する気も興味もないからだろう。弟妹だっていつまでも幼い子どもではない。今はまだ心配でも自分たちが大きくなる頃には彼らも同じように成長しており、共に領地を支える人間になっているだろう。
果穂さんと緋炎も自分たちなりに彩芽様の言葉を考えている。領主と領民の関係を果樹園の主と従業員となぞらえると、顔の見えない領民、の意味が分からないかもしれない。一番に守るべき、も難しそうだ。緋炎は自分を一番にして、他は余力でそれから、と分かりやすい答えを出した。領地を治めるにも自分が倒れてしまわないようにする必要はある。それでも災害時や敵襲時には自分のことが後回しになってしまうこともあるだろう。食事も睡眠も後回しにして忙しそうにする両親の姿は何度も見た覚えがある。
「羨ましいわね。家族関係も良好、お家騒動も生じていない。継ぐ者に選択肢がある家もあるでしょう。だけどそうでない家だってある。そうね、他人のことは話せないけれど、私のことなら教えてあげられるわ。」
それぞれの領主家のお家事情なら果穂さんたちは知らない。そう四辻家の説明をしてくださる。二条家、三ツ谷家に継ぐ規模の領地を持つ家で、母が領主、父がその補佐、弟妹が一人ずつ。弟妹もまだ彩羽に入学しておらず、俺の家よりも少し年齢が離れている。そのせいか彩芽様からは自分の弟妹がとても幼く見えているようで、頼りにはならないと判断されている。領主の地位も責任も当然のように全て彼女のものになる予定で事は進んでおり、彼女も弟妹を守る意識で動いておられる。
「可愛い二人に大変なことなんてさせたくないじゃない。頑張って支えるよ、何なら自分たちが家督を継いで、姉様が支えてくれても良いなんて健気なことを言っていても、どこまで理解できているか怪しいものだわ。」
まだ勉強を始めたばかりなら理解は浅いだろう。今の習熟度から判断するのは早計だ。これから勉強を続ければ頼れるほどの知識を身に着けられる。頑張って支えると言っているなら意欲も高い。今から悲観することはない。
「頼られるのは嬉しいけれど、時に重荷でもあるのよ。あなたたちの回らない頭でも理解できたかしら。」
一言余計だが、重荷に感じてしまう点は分からないでもない。頭を空っぽに体を動かせば良いわけではないことは俺にも理解できている。彩芽様が自分で全てを担うつもりなら、自分が一方的に頼られると考えても無理はないか。まだ幼い弟妹への信頼がないため、彩芽様は重荷と強く感じられるのかもしれない。今の彩芽様と話してもここは分かり合えないだろう。彼女の弟妹が入学する頃にはもう少し頼ろうという気持ちにもなっているだろうか。
翌日の昼食終わり、学校周りが何故か騒がしい。先生たちが誰かを探すように見回し、右往左往している。そのうちの一人と目が合えば、彩芽様を見かけなかったかと尋ねられた。彩芽様とは昨日の昼間に少し話しただけ。それも夕食の時間には離れており、それ以降見かけていない。彼女の所在なら同じ女子寮の人に聞いたほうが良いだろう。果穂さんにも、と呼びかければ先生も確認する。果穂さんも緋炎も俺と同じ時間にしか彩芽様を見ていない。その後の予定も尋ねられるが、大して親しいわけでもない別学年の友人にいちいち伝えるわけもなく、二人も知らない。それなのにこの先生は彩芽様が最後に会った人物が俺たちだとして、何度も本当かと質問する。
「疑ってるんですか。本当に何も知りません、俺たちは彼女と揉めてもいません!」
緋炎の音圧も上がる。しかし先生は謝罪しつつも、彩芽様と俺たちの会話を聞いていた人たちの証言から彩芽様側に不適切な発言があったとして、その報復に彼らが動いたのではないかと疑う。彩芽様の発言に問題があったからと執拗に疑われては不快に思っても当然。彼らが何かしたと責めるだけの情報もないため、無事に彩芽様が見つかることを待つだけで良いだろう。しかし果穂さんの気持ちは収まらないのか、自分たちで探すと先生に宣言し、俺と緋炎の腕を掴んで食堂を後にした。
庭園まで歩きながら彩芽様捜索作戦が立てられていく。まず今手元にある情報の整理、と果穂さんが話を始めた。現在の彩芽様の目撃情報は放課後の職員室、それから俺たちが話した庭園。寮での目撃はない。庭園の後どこに行ったかが問題だ。教室で自習か、図書館で調べ事か、植物園で鑑賞か、他の庭園の散歩か。他にも行き先はいくらでもある。あの時間から町へ出掛けることだって考えられる。彩芽様と親しい人に聞いたほうが行き先を絞れるだろう。彼女は誰と親しかったか。四辻の領地は南部、蓮様の八神家も近くにあったはずだ。しかし彼の居場所も分からない。
「一葉様は?領地の距離が関係するなら真ん中の皇家はみんなと仲良いでしょ?」
そんなに単純ではないが、俺が聞きやすい相手ではある。居場所も音楽室と分かりやすい。そう三人で訪ねるが、何故か果穂さんは戸の前で立ち止まった。歌声は聞こえてくるが、珍しいことではない。歌の途中では入りづらいのだろうか。気にすることはないと俺が一葉に声を掛け、用件を伝えた。しかし彩芽様の所在は分からない。蓮様なら図書館、ついでに彩芽様と親しい人として花一郎様の名も挙げてくれる。緋炎は本気で彩芽様を探す気のようで、ついでの雑談もすることなく音楽室を後にした。果穂さんは何か気になることがあるのか、一葉の隣に腰掛ける。彼らはそっとしておこう。
彩羽学校の図書館はとても広く、蔵書は多岐に渡る。授業で気になったことは全てこの図書館で調べられるほどだ。その豊富な書物のせいで梯子に登らなければ届かない高さの棚もあるが、大きな不便はない。地上よりも地下に広く、薄暗い。このどこに蓮様や花一郎様がいるのか分からないが、そんな時頼りになる人が司書さんだ。
「お教えできません。ここはそれぞれが安らいで本に触れる空間ですから。彼らから言伝がない以上、場所をお教えすることはできません。」
「ありがとう、いるってことだよな。」
この回答で緋炎には十分だったようで、図書館の奥へ進んでいく。蓮様や花一郎様が好む本の種類も聞いておけば良かった。わざわざ戻るよりはと手分けして探す。緋炎は下の階から、俺は上の階から。地上階には娯楽関係のものも多いが、語学や文化関係の本も置かれている。最上階から探そうと階段に向かえばその手前、絵本の区画に彼女は座っていた。その手には可愛らしい服装の女の子が描かれている。こういった物を好んで読まれるなんて意外だ。
「きゃあ!ん、礼儀を弁えなさい。他人の読んでいる物を覗き込んだ挙げ句、背後から声を掛けるなんて礼儀がなっていないわ。」
座ったまま飛び上がるように絵本を隠した。そんなに急いではどこまで読んでいたか分からなくなってしまうだろう。それよりも礼儀を指摘することが優先なのか。ここで下手な返答をすると無駄に時間がかかるため、適当に謝罪し、本題に入る。俺が知りたいのは彩芽様の行方、もしくは行き先の心当たり。
「本当に良い度胸ね。友人の情報をそう易々と売るとでも?厩舎で馬にでも聞いてみては如何かしら。」
絵本を持って立ち去ってしまう花一郎様。呼びかけてももう応えてくれない。彩芽様にも相棒の馬がおられるのだろうか。俺も実家では馬を飼っているが、彩羽には連れてきていない。よほど寂しがったのか、こちらで新たに親しくなったのか。まずは緋炎とも合流し、互いに入手した彩芽様に関係する情報を共有する。蓮様からは、彩芽様は馬を始めとした動物がお好き、という情報を得られたそうだ。これで捜査は一歩進展だ。
どうか見つかってくれと祈りつつ、厩務員に彩芽様について尋ねる。少なくとも名前は認識しているようで、菖蒲と呼ぶ馬を可愛がっている人かと確認してくれた。馬の名前は知らないが、馬が好きという情報はある。きっと同一人物だ。
「その方なら昨日もいつもの散歩道に向かわれました。帰っては来られていませんが、何かありましたか。」
行方不明だと伝えれば、その散歩道を案内してくれる。馬で駆けるには木々が邪魔だが、ゆっくりと歩かせる分には十分な広さの獣道があった。馬の足跡も多く、菖蒲に限らず他の馬も散歩道として利用しているのだろう。どれが菖蒲の足跡なのか分からないが、それらを辿っていく。そうかと思えば途中で足跡から外れた。もう何も手がかりがないように見えるのに厩務員は迷わず足を進める。
よくここで休憩を入れると池の近くに誘導される。小さな池の畔の岩陰はとても良い雰囲気で、このままお昼寝してしまいたくなるような場所だ。本当に眠るわけではないと腰掛けようとすれば、その岩陰に先客がいた。
「飛鳥様、彩芽様って黒いピアスなんてされてましたっけ?あんな真っ黒なの、目立つから気付くと思うんだけど。しかも片方だけ。」
片耳にだけ着けられた黒いピアス。髪と瞳は光の加減で様々な色に見えるが、そのピアスだけは光を吸い込んだような漆黒。服装も色鮮やかなだけに非常に目立つ。凝視していると視線に気付いたのか彩芽様は目を覚ました。しかし自分がどれほど心配されているのか、どれほどの人が探しているのか分かっていないように、呑気な笑顔と挨拶の声を上げる。見つかって良かったと安堵の声を漏らす厩務員が彼女の容態を気に掛けるが、その対応にも不思議そうな表情を浮かべた。衣服も汚れておらず、ほとんど一日行方不明だったと思えないほど彼女は元気そうだ。期待せずに昨日の午後の行動を尋ねるが、やはり彼女は何も覚えていない。空腹もないなら食事を取れる状況だったのではないか。そう指摘しても彼女は何も思い出してくれない。緋炎たちとの揉め事の有無も記憶にない。これでは彩芽様に対して危害を加えていないと言えない。ここは俺が何とか訴えるしかないか。
落胆に包まれた雰囲気での帰り道。突然思い出したように彩芽様が口を開いた。
「相談に乗ってくれた人がいました。私は彼らと話して、弟妹を守り、領民を守るために家を継ぐと決めました。市井を歩けば、領民の顔が見えるようになるから。」
考え事をしている間に時間が過ぎてしまったのだろうか。それにしても覚えていることが少なすぎるが、俺と話した内容の一部は思い出してくれた。俺たちに好印象を抱いているようであるため、危害を加えたという疑いは晴らせるだろう。覚えていることが多ければ多いほどその証言の信憑性は増す。大事にしていたという菖蒲のことは覚えているだろうか。
「菖蒲は、いるべき所に行きました。でも大丈夫。彼女は私に大切な物を与えてくれたから。」
角の取れた雰囲気だ。悩み事が解決したからだろうか。この様子なら果穂さんにも良い報告ができそうだ。