公国での日々
《夜鳥》視点
説明を長く聞けるほど体調の改善した樹さんも現状を無事に把握できた。ここが公国の国家元首である大公が住む屋敷、大公邸であり、王国や神殿に連れ戻されることがないと安心してくれている。王国と対立している公国が最も安全な場所だ。紅いピアスが再召喚も防いでいるため、再び連れ去られる心配もない。問題は皇国の家族の下に帰れないこと。もちろんその点も理解はしてくれている。長距離の移動に耐えられるほどの体調ではないこと、実家の《天空の安らぎ》で面倒を見ることは難しいこと、御子が公国にいることの意味や価値。皇国には世界樹、王国には導師、公国には御子。これらは国同士での話し合いにより正式な決定となるが、その後押しには御子の希望が重要な一手となる。御子は世界で最も尊重されるべき立場であり、その希望はよほどの悪逆非道でない限り通る。樹さんなら何を頼んでも叶えてもらえるだろう。
「とても良くしてもらってるからなぁ。何かお返ししなきゃいけないくらいだ。」
御子の価値を考えれば、公国に滞在すること自体がお返しとも言える。しかし樹さんは御子の重要性についての理解が浅いのか、納得していない様子だ。そんなに気になるなら大公殿下にお礼をしたいと言ってみると良い。あの様子ならそういった気持ちを伝えるだけでも喜んでくださるだろう。これは報告せずに樹さんから直接伝わるようにしよう。自分にできることを考えるくらい余裕が生まれているという程度の報告でも、体調や気分の明るさは伝わるだろう。
今日はもう大公殿下は来られない。明日に時間があれば来られるだろう。そう今夜の夕食と入浴を手伝う。世話されることにも慣れたようで、風呂でもう船を漕いでいた。寝間着も体を締め付けない物のため、寝ている所の着せ替えもまだしやすい。これらの衣類は全て大公殿下が選んだ物に取り替えられているが、あの方にはこのような趣味がおありなのだろうか。フリルが沢山付いているというわけではないが、ふんわりとした可愛らしいネグリジェだ。気付いたら樹さんは怒るのではないだろうか。
翌朝の着替えも行い、朝食も済ませ、今日の予定を相談していると、樹さんがとうとう自分の服装に気付いてしまった。ひらりとスカートの裾を摘み、不機嫌そうな顔をしている。
「なんでこれ?」
大公殿下のお勧めだ。俺がどうにか変えることはできない。体をあまり締め付けない服装、着せ替え易さ、裾は踏んでしまわないから心配ない、と何とか納得してもらおうと言葉を発する。不満はありそうだが、ひとまず受け入れてはくれた。寒さの問題はあれば言ってもらうが、室温が十分管理されているため、その格好でも寒くはないだろう。少し足元が頼りないような様子を見せている。
「見苦しくはないよな?」
可愛くなれていれば許容範囲内なのだろうか。似合っていると言えば似合っている。俺も見慣れたため、特に違和感は覚えない。大公殿下はわざわざ可愛い服を選んで着せようとしているならそういった格好の樹さんを見たいのだろう。光さんも愛らしいと褒めていた。そのことに気を良くしたのか、今日の散歩を始める。しかしせっかく上向いた気分も陰口に沈められた。俺が睨めばすぐに解散する奴らに邪魔されるなんて気分が悪いが、殴ってしまうわけにもいかない。樹さんも一休みと木陰に座り、俯いた。涙を堪えているのか、気分を落ち着けているのか。
「御子、今構わないか。」
時間を用意できたのか、日中忙しくしているはずの大公殿下が樹さんに声を掛けた。近づく足音にも気付いていなかったのか、樹さんは驚いた様子で顔を上げ、笑顔を作る。しかしその頬には雫が伝い、大公殿下もその筋を拭った。
「覗き見るつもりではなかったのだが。」
続けて光さんと俺からも樹さんの普段の頑張りも知っていると伝える。樹さんもそれに喜んだように見えたのに、何故かその手を振り払う。しかし隣に腰掛ける大公殿下のことは拒まない。
「お前の口から話を聞きたい。話してくれるか。」
陰口の類も報告済みだ。それでも人伝の情報と本人の口から出る言葉では重さが異なる。求められた意味合いを正しく理解したのか、樹さんは自分なりの言葉で日常を話した。目が覚めた時、朝食も十分食べられるようになったこと、風や花の香りを感じる時間、散歩の時の出来事。暗い話題は避けられていたが、先ほど聞いたばかりの言葉は忘れられない。御子の浄化能力への疑問、使命を果たさないことへの不満、甘えているだけという批判。御子への期待と現状への不安が彼らからそんな言葉を生み出しているだけと自分を納得させるような理由を探している。しかしその声も僅かに震えており、傷付いた心も隠せていないのに傷付いていないふりをしている。助けての一言を発するだけで大公殿下も力を貸してくれるだろうに、何に躊躇しているのか口を閉じた。
「今度頼みを聞いてくれるなら話を聞こう。」
ただ聞くと言っても遠慮するだろう樹さんに、大公殿下は交換条件を示した。それに応えて、樹さんも苦しいと、御子としての何かができなければこれは続くのか、と弱音をようやく吐く。今はただ聞いているだけだが、今後の行動はあるはずだ。大公殿下はとても気にかけてくださっているのだから。そんな安心感を樹さんも感じたのか、それとも泣き疲れてしまったのか、幼い子どものように眠ってしまった。大公殿下もその信頼を喜ぶように微笑んでおられる。自ら抱き上げ、部屋に連れて行く。
「起きるまで傍にいてやれたら良いのだがな。後は頼んだ。」
名残惜しそうに職務に戻られる。この様子も樹さんに伝えてあげよう。大公殿下を頼りにできるならここでの生活の安心感を得られるだろう。
大公殿下による対処のおかげか、陰口の数は減った。一緒に散歩する時間を設けたことも大公殿下との親しさを周囲に見せつける形となっているのだろう。樹さんにとってもその散歩の時間とあの木陰での時間は大切なものになっているようで、秘密だとどこか楽しそうだ。付き添うため光さんも知っているが、他の使用人には見つからないよう気を付けている。子どもの秘密基地のように、今日もどこか浮ついた様子でその木陰へと向かおうとした。しかし今日は顔が赤く、体も少し熱を持っている。部屋で待っていても大公殿下は来てくださる。大人しく寝ていてほしい。
「大丈夫、もう元気だから。」
王国で受けた傷はほとんど治った。この熱はそれと別件だ。そう説得し、何とか布団に戻ってもらう。こうして寝かせるために護衛以外の傍付きが必要なのだ。多少強引でも部屋から出さない。そんな覚悟で見張っていると諦めて眠ってくれた。こうして眠れるということはやはり体が休息を求めていたということ。無理をして向かおうとしていたのだろう。
昼食時になると、俺が樹さんを起こす前に大公殿下が様子見に来られた。風邪が移っては大変だと伝えるが、小声でも周囲の変化に気付いたらしい樹さんが起きてしまう。薬が切れてしまったのか熱っぽい目をしている。
「聞いたぞ。熱があるのに出掛けようとしたそうだな。」
「ごめんなさい。」
お説教はまた今度と大公殿下自ら食事を与える。薬も大公殿下の手からなら嫌がらずに飲み、大人しくしていてくれた。しかし仕事に戻られる際にはせっかく来てくれたのにと起き上がろうとする。午前中ずっと寝ていたから眠くないという主張までした。夜に眠れなくなるとか、薬を飲むための食事もお腹が空かないから取れなくなるとか、よく熱に浮かされた頭で思いつくものだという理由を並べる。大公殿下も自分の時間に関しては希望を叶えてあげられないほど忙しい。俺がいるから一人にはならない、離れる際も光さんが代わりに来るからと言い聞かせ、何とか部屋に留まってもらった。そうするとやはり体はまだ動けるほど回復しておらず、すぐに眠ってしまう。最初から大人しく寝ておけと言われているのに、何故無理して起きていようとするのか。
今度は一時間ほどで目を覚ました。喉が乾いたという求めに応じて飲ませ、再び寝かせようとするがやはり抵抗される。毎回結局寝ているのだから早々に諦めて早く治すことに専念してくれると助かるのだが、そうはしてくれないらしい。
「ちょっと元気になったから、大公様に会いに行こう。いつでも行っていいんだろ?」
執務室にでもいつでも来ると良いとは言っていた。こうなることを予測されていたのだろうか。重い体を起こし、自分で歩こうとするが、床にへたり込む。やはりまだ休息が必要だ。仕方ないため連れて行ってあげると、大公殿下も休むよう注意しつつも自分の椅子を譲り、菓子を与える。食べる元気が戻っているなら体調もすぐ改善するだろう。
「今度は食べ終わっても傍にいよう。膝の上にでも座っているか。そのまま眠ってしまっても良い。」
子どもがおられるからか、世話する手付きもどこか慣れておられる。そのうち大公殿下の子とも交流の場が設けられるだろう。事前に彼についての情報は集めておこう。交流する際の補助が必要なのか、任せておけば良い子なのか、何も知らなければこちらも心構えができない。
数日で樹さんの体調は改善した。夜間も大公殿下が添い寝されるようになり、弱っている間は執務室に膝の上に乗せられることも増えている。今もそうして熱を確かめられ、もう元気いっぱいという話をしてから、大公殿下は真剣な様子で話を始めた。
「この数週間どころではないな。無理を続けていたか。」
少しずつ報告していたため、大公殿下も状況を把握されている。既に様々な指示を出してくれてはいるが、それだけで人の心は変わらない。重要人物とは分かっても疑念は拭えない。未だ厳しい視線を向け、悪意ある態度を取る者もいる。それらを黙らせるには樹さん自身の行動と自信のある態度が必要だ。平気そうに、堂々と、彼らの想像する御子を演じ、大公殿下に守られる価値を示すことができれば、そういった彼らの反応も減るだろう。しかしそんなことができれば苦労しない。自分でも分かっている樹さんは先日の体調不良も含めて、大公殿下に謝罪する。
「ごめんなさい。約束を破りました。せっかく時間を空けてくださっていたのに。」
「そんなに一緒に過ごしたいのか?それなら執務室に来ると良い。相手はしてやれないが、隣にはいさせてやれる。」
寂しそうな樹さんにできる最大の対応だ。仕事の邪魔にはならないかと気にしているが、大公殿下は既に樹さんを抱き上げている。樹さんももう自分で歩けると反論しつつも抵抗する様子はない。御子として尊重されることに慣れたのかもしれない。
執務室に着けば当たり前のように樹さんを膝の上に座らせた。これにもやはり抵抗はないが、不思議そうにはしている。大人しくしているため、大公殿下も何事もないかのように抱えたまま書類の確認に入った。その音だけが響く部屋に落ち着いたのか、樹さんも眠ってしまう。流石に仕事に支障を来すと彼を預かり、部屋へと連れ戻した。今日はこの後来客があるとも聞いている。起きた時に来客中では樹さんも驚くだろう。
やはりまだ万全でないのか、移動中に起きてしまうこともなく、すやすやと眠っていた。元気になってきてはいるようで、目覚めは早い。軽く伸びをし、水を飲み、何かを探す。
「大公様は?」
執務室での仕事中か、応接間での来客対応中だ。ただし来客中でも来ると良いと言われている。相手によってはむしろ御子様に会えたと喜んでくださることだろう。御子が大公殿下を慕っているという評判が広まることも公国にとっての利益となる。向かっても迷惑になることはない。そう連れて行き、入室の許可を得る。事前に言ってくださっていた通り、客人も御子様に跪き、喜びを言葉にしてくださった。
「御子様、こちらへ。」
俺も指示を受け、樹さんを大公殿下に受け渡す。執務室にいた時のように膝の上に座らせ、満足げだ。樹さんは人前だからか恥ずかしそうにしているが、近くに机もあるため迂闊に動けない。精一杯澄まし顔をしているつもりのようだが、この体勢では全く様になっていない。交流を拒む様子ではないためか、大公殿下も客人に質問を許した。
「御子様はどこにいたいのかお聞かせ願えますか。」
厳格な老爺といった風貌から出てくる声は好々爺といった雰囲気だ。目の見えない樹さんを怖がらせないよう配慮してくださっているのだろう。樹さんも警戒心なくその質問に答えていく。一番は実家だが、現実的な生活のことも考え、それが難しいと結論付けた。日常生活にも困難があり、護衛も実家の《天空の安らぎ》付近に大勢置くわけにもいかない。皇国に帰るだけならどこかの領主家に入ることも可能だが、今のような生活になるとは限らない。そこまで考え、大公殿下に守っていただける現状を続けるのも良いかもしれないと迷う様子を見せた。
「迷っておられるのですね。ご家族の傍が良いのはそうでしょう。ですがこの公国を選択肢の一つに入れていただけることは喜ばしい限りです。こちらでもご家族ができると変わるでしょうか。」
そんなことを考えられるほどの余裕はないだろう。しかし大公殿下は何か考えていることがあるようで、まだ御子には伝えない、もう少し勉強が進んでからを予定している、と意味深な発言をした。一体何を企んでおられるのだろう。




