二つの国の御子
《紅炎》視点
意識を失った果穂を寝かせ、過去見聞術の術式を消す。本当はすぐに一葉様と導師に伝えて連れ帰りたいが、これが何の術式か知られたくない。特に文字の部分を念入りに擦り、彼女を抱えて御子の間を出る。何があったのかと問う二人に地脈花の影響かもしれないと誤魔化し、今すぐ離宮に戻ることを要請する。こんな状態の人間を連れ歩くことはできない。そう賛同してもらい、馬車に同乗する形で離宮へと送っていただく。自分が抱えて乗るという一葉様の提案を拒否し、俺が彼女を連れて乗せた。
原因は魔力の欠乏、つまり魔術の使い過ぎだ。十分な休息と魔力の補充を行えば健康な状態に戻れる。医者に診せる必要もない。練習の際にも経験したことだ。使っている最中には自覚できないようで、度々こうして意識を失っていた。だから使ってほしくはないのだが、彼女が使うと言ったなら止められない。使う必要がないという理由を挙げれば説得こそ可能だが、そんな理由も思い付かなかった。御子の救助を行うことは決定事項だ。
離宮の寝台に横たわる果穂はただ眠っているだけだ。呼吸も安定しており、苦しそうではない。昼寝している時と同じ。何も心配する必要はない。時間が経てば目を覚ますだろう。そう分かっていても離れる気になれず、かといってじっと待てるほど落ち着いているわけでもない。一葉様と導師は親善の目的を果たすために他のどこかへ出掛けられた。誰かはここに残ってあげたほうが良いと分かっていても、自分も一緒に出掛けたほうがこの落ち着かない気分も幾分か和らいだだろうかと考えてしまう。
無理に起こす必要はない。そう分かっているのに早く目覚めてほしいと思う気持ちも止められない。起きた時のために林檎でも剥いてあげようか。疲れ切っているなら食べやすい大きさに切ってあげたほうが良い。そう《豊穣天使》の林檎を薄く切り分けていると、ようやく彼女は目を覚ました。まだ目の焦点は合っていない。熱っぽい時の表情で、目も少し潤んでいるように見える。やはり俺が残って良かった。こんな警戒心も何もない顔を他の誰かになんて見せられない。彼女自身の魔力が回復するまでこの状態が続くことも俺は知っている。この様子なら数日はかかるだろうか。しばらくは無理せず休んでほしい。導師から御子を救出するようせっつかれても跳ね除けよう。それを聞き入れられるような体調ではないという主張は受け入れられるだろうから。
林檎なら食べられるだろうか。何かは食べたほうが良い。返事は聞いているのかいないか分からないほど曖昧だが、理解はできているようで寝台の上で身を起こしてくれる。まだぼんやりとしたままだが、問題なく林檎を一枚ずつ食べてくれた。食欲がありそうなら夕食はしっかり食べてもらおう。
少しでも食べたからか、起きた直後よりは元気そうになった。意識を失ってからの状況を尋ねる余裕もあるようだ。状況と言っても何の変化もない。俺が過去見聞術式を消し、彼女を連れて離宮へと戻ってきた。それだけだ。御子に関する進展はない。一方で彼女が見た物には重要な情報もあったようだ。神殿の御子は皇国の御子である大空樹さんと同一人物だった。召喚された当初は俺たちの記憶の通りだったが、次第に痩せていき、怪我もしているようだった。地脈花の記憶を辿った結果だ。あの部屋にいたことは間違いない。同時に俺たちが行った時にいなかったこともまた事実。事前に見学すると伝えたわけでもないのにいなかった理由は、もちろん偶然の可能性もあるが、何らかの疑いを抱かれていた可能性もある。たとえば桜庭さんとの接触が知られており、彼が御子に手を出すと思われるような行動を取っていたとか。今後は彼の行動も制限されるかもしれない。それだけならともかく守秘義務違反を理由に処罰される可能性もある。重要な御子に関する情報であり、神殿の安全に関わる警備などの情報もあった。職を失うだけで済めば良いほうかもしれない。
情報共有を行うと、また彼女は眠ってしまった。今はそうして体力を回復することが先決だ。大空さんも助けを待つ状況かもしれないが、彼女に無理はさせられない。焦って事を進めようとしても失敗してしまうだけ。そうなれば結局あの人も助けられないのだ。
彼女の体調を気に掛けつつの数日が過ぎた。庭の散歩も問題なくできるようになり、昼寝も必要なくなった。そんな中、桜庭さんが興味深い情報を持ってきてくれた。
「御子様が他に、安全な場所に移されたという噂があるんだ。」
行き先までは分かっていないそうだが、俺たちは安全な場所という言葉で騙されない。果穂が大空さんへの仕打ちを見ているのだ。そんな状況で彼の安全に注意を払うとは思えない。
最初にすべきは彼の所在を探ること。桜庭さんには頼れない。ただの神殿騎士がわざわざ他国からの客が宿泊している離宮まで知らせに来たのだ。神殿側も事態を把握しただろう。だからこそ御子を他に移した。もう桜庭さんは俺たち側の人間だと思われているという前提で行動すべきだ。
次にすべきは大空さんの安全を確保すること。この国の中で相談する相手は導師か国王。一葉様にも連絡を入れなければならない。ひとまず桜庭さんに身辺への十分な注意を忠告し、神殿騎士としての日常に戻ってもらう。連絡も密かに行う。そう約束を取り付け、早速行動に移す。突然行って会えるわけもないため、離宮の人に言伝を頼む。御子に関する情報とだけ伝えれば十分だ。詳しいことは伝言できない。
すぐに事態は進展しないだろう。その間も果穂を休ませられる。そう思っていたのに、言伝がそろそろ届いたかと思う程度の時間で、一葉様と共に王の騎士であるフェリクス・フィヒター様まで揃って来られた。神殿による御子の召喚、現在地の秘匿、存在すら導師にまで隠されていたこと。それらの事実は彼らの関心をここまで引いていたようだ。彼らにも果穂は知った事実の一部を伝えていく。桜庭さんから聞いたことも俺から伝えた。
「御子様はどちらに?」
フェリクス様は話を急いておられる。その力を確保したいからか、信仰心からか。いずれにせよ居場所の見当を付けるためにも彼らの協力は必要だ。一葉様も所在の把握のため、協力し合うことに積極的だ。しかし保護できたならその処遇が問題となる。神殿から隠し、静かに療養できる場所が王国内に存在するのか。また、王国の御子が皇国の御子と同一人物と判明した今、その身柄を引き渡してもらえるのか交渉の必要がある。いずれにせよ、再召喚されないための措置も必要になる。これは果穂に頼むことになるだろう。
あくまで提案。そんな形での俺たちの発言は一葉様によって補足される。御子の安全第一、御子の意思最優先、と強調された。王国で御子の安全が確保されていないことは事実。一方で皇国でも安全を確保できなかったこともまた事実だ。皇国から王国の神殿への召喚も阻止できなかった。それでも再発防止策は講じられる。皇国や皇子としてではなく、御子の安全確保のために使える独自の伝手もある。そう自分たちの手に御子を迎えられるよう説得してくれた。この独自の伝手、というのは地下での繋がり、つまり《果実姫》の伝手のことだろう。ぼかしてはいるが、何らかの裏を匂わせるような発言は思い切っている。後で果穂に怒られないだろうか。
「なるほど、御子様の御意志が最優先と言われればこちらも拒否できません。お上手ですね、皇子殿下は。」
本音としては王国で確保したいのだろう。しかし御子の安全と意思を持ち出されれば強くは言えない。詳しいことは御子を保護してからと保留にされた。彼らとしては神殿に勝手をさせないことが最優先なのかもしれない。
続くは俺たちの欲していた情報。王国内の勢力図だ。御子の所在が伏せられていたこともそれに関係するため、救出作戦を実行する俺たちに隠せない、という判断らしい。その勢力は大きく分けて王家派と神殿派の二つが存在する。しかしややこしいことに神殿の精神的支柱である導師は王家派に属すると目されている。もっとも導師は傍観者の立場を取り、基本的に直接的な行動は取らない。歴代国王の参謀と言われることもあるそうだが、事実は傍らに立っていただけ。千年以上生きている導師はその時代、その地域の人間が治めるべきという考えを持っているため、自分は直接支配に関わらないようにしているとか。だから地下でも《公爵》として支えるだけに留めているのだろう。それでも権威は残る。象徴的な意味合いが強いのかもしれない。
「唯一の例外は召喚に関して。導師の意見で法が作られ、判明した際には導師自ら手を下すこともあるとか。」
完全に私刑だが、導師を罰せられる人はいない。地下の上位者と考えると、理由が明確なら私刑に処しても問題ない。彼らにはその権力がある。地上ではそんなことがないため、法の下で罰せられる。それを無視して私刑を下したと考えると非常に強力か。
導師への詮索は後にしよう。少なくとも今はそのおかげで無理を通して大空さんを連れ出せる。そう話の続きを促すと、彼が避難させられているかもしれない家を幾つか挙げてくれた。神殿派の貴族がその候補になる。その中でももっとも神殿に傾倒している家はテールマン伯爵家。特に現伯爵の妻が亡くなってからは信仰心が厚くなり、神殿への寄付も増えたという。神殿にとって従順な駒の一つと数えることもできる。探ってみる価値はあるだろう。いくら導師でも他人の家に土足で上がり込むことはできない。咎められる人もいないだろうが、その権威や尊崇は落ちるだろう。他の方法を取るべきだ。そうは言っても多くの貴族の家は防犯のために転移術等を禁止する魔術を施している。果穂の転移術には頼れない。かといって門にも複数の見張りがいるため、何かで気を引いてその隙に横を通り抜けることも難しい。何より大空さんがいなかった場合のことを考えるとそんな危険は冒せない。そうなると残る手段は変化の術くらいか。あれはもう一つの姿を引き出す術のため、それが変化した人間かどうかを確かめる術はほとんどない。
変化の術は大事な秘密の一つだ。みだりに教えてはならない。そう考えがあると誤魔化し、今日の情報共有は終わりにしてもらう。ここからは俺と果穂の作戦会議だ。一葉様に教えては外交問題になるかもしれないと席を外してもらっている。変化の術で向かうことに関しては意見が一致した。しかしどちらが向かうかには議論が必要になった。彼女は自分が行きたがったのだ。何日も寝込むほどの魔術を行使した後だ。この後も使うことがあるかもしれない。だからゆっくり休んでほしいと言ったのに、彼女はもう十分休んだ、元気全開だと主張する。その上、白猫と白犬という変化先の特徴まで含めて自分のほうが適任と言い張る。猫のほうが自由気ままに邸内を歩き回り、大空さんを探したり盗み聞きしたりするのに適していると言うのだ。小さいほうが愛嬌を振り撒けるとも言うが、人間から見ればその差など微々たるもの。俺も小型犬だ。果穂の白猫より大きいというだけで、決して大きな犬というわけではない。何より猫か犬かという違いは個人の好みに大きく左右される部分だ。
「じゃあどっちがより愛くるしくアピールできるか勝負だね。それなら緋炎のほうが有利かな〜?媚びを売るの得意だもんね。」
相手の心を掴むのが上手と言ってほしい。それでも成功率が自分よりは高そうだと先行を譲ってくれる。俺が成功させれば彼女が侵入することはない。そう今から気合を入れて変化の術式を描く。詠唱は心の中で唱えれば良い。自分の魔力と世界樹の記憶を意識しつつ、揺蕩う魔力に身を任せる。すると俺の体はもう白く柔らかな毛に包まれた可愛らしい小型犬だ。人の言葉を発することもできず、可愛くきゃんきゃんと吠えることしかできない。
こっそり離宮を離れ、大通りを避けて、ただの散歩を装い歩く。壁際に身を寄せ、時折駆け、貴族街へ近づく。近辺の店にはお忍びで降りる貴族も多いそうだ。テールマン伯爵親子も城下で目撃されたことがある。人の好さそうな外見だったという話だが、当てにはできない。外見の印象と内面が一致しない輩など幾らでも存在する。地下の上位者たちなどその筆頭だ。穏やかな好青年の《果実姫》だって容赦なく人を殺せる。毒物すら作り、販売している。《鬼火》も良い男風なだけで弱っている花一郎様に付け入り、上手く伴侶の地位を勝ち取った。《秋風》も格好良いお姉さん風な態度とは裏腹に、大空さんに対して厳しい期待を押し付けていた。むしろ上手く取り繕える人間が成り上がれるのだ。
徐々に人通りの多い場所に近づく。小型犬の目では上品な服装の商人なのか貴族なのか見分けが付かない。顔など判別できる高さではないのだ。俯いてくれれば分かるが、見た所で直接会ったことのない俺には分からない。これは時間を掛けて歩き回り、話している内容からテールマン伯爵親子を探す必要がありそうだ。




