一番の人
《林檎》視点
二条花一郎様と《鬼火》、十六夜椋様と《六華》。それぞれ順調に一歩を踏み出した。私もそろそろ距離を縮めたい。いや、友人としての親しさはあるのだが、彼らのように結婚などの具体的な話が出ていない。特別な関係に至るには何かが足りない。六華と椋様の関係は参考にできない。幼い頃からの関係性などどう参考にしろというのか。参考にできるとすれば春仁さんのほうだ。悩み事を聞き、弱みを探り、そこに付け込みたい。花一郎様のように弱っている姿は見ていないが、隠しているだけかもしれない。そこまで深刻ではなくともそういった話を聞き、上手く対応することでもっと親密になれるだろう。
突然悩み事はないかと聞いても聞き出せない。私からの相談事も特にない。上に立つ者としての話もできない。私の上位者という立場は地上の一葉様に内緒だ。他に彼と共有できそうな悩みらしきものはあるだろうか。成績も彼は悪くない。より上を目指す人なら伸び悩むと言うのだろうか。ひとまずこの話題で攻めてみよう。
冬休み中のため、各領地に帰省している学生も皇都で社交に励んでいる学生も多くいる。一方で彩羽島に留まり、勉強場所や遊び場として教室を利用している学生も多い。そんな彼らのために教室の鍵も簡単な手続きのみで貸し出されている。一葉様のよくおられる音楽室もその中の一つだ。
「なんか最近、特によく会いに来てくれるね。」
喜んでくれているのだろうか。話題はあらかじめ用意して来たが、せっかく音楽室にいるなら歌いたい。そう数曲一緒に歌い、ゆったりと会話する空気になる。今なら自然に話し始められそうだ。用意してきた話題は勉強のこと。私は勉強が得意とは言えないが、苦手というわけでも嫌いというわけでもない。宿題などやるべきことをやり、ある程度の結果は出している。
切り出し方を迷う必要はない。親しい人との雑談に細心の注意を払う人などいないだろう。そう適当に学期末試験の結果から切り出す。掲示では一葉様の名が上位になかった。その点には身分による忖度もない。私も下位に掲示されている。他の子が優秀過ぎるだけだろう。
「俺もそこまでできるわけじゃないけど、将来的に必要になりそうな科目は一緒に勉強でもする?」
有難いが今回の目的はそれでない。苦手科目が大きく足を引っ張っているわけでもないのだ。比較的出来ないだけで、就職先も探してはいる。最悪、《豊穣天使》の従業員という立場だけでも良い。地上で行動しやすいように地位や身分を探しているだけだ。卒業後、ゆっくり探し続けても良い。成績だって悩むほど悪くないのだ。一葉様にも足を引っ張る、力を入れなければと感じている科目はあるのだろうか。
「大事な科目は大抵大丈夫だよ。今だけ勉強してれば良いってものでもないけど。」
様々な分野の研究が日々進んでいく。諸外国との交流も視野に入れるなら、それぞれの文化も学び続ける必要がある。成績として評価されなくとも人との会話の中からどの程度の人間なのかは推し量られるのだ。数字として結果の出る学校よりももっと厳しく、相手の対応は変わってくるだろう。むしろここからが学びの本番と言える。
得意な科目、苦手な科目、好きな科目。そんな話を続けるが、弱っているような話はやはり聞き出せそうにない。私と同じように深刻なものは抱えていないのか、話す雰囲気ではないのか。繊細な内容まで聞き出すには人よりも可愛い白猫の姿のほうが適しているのだろう。話して満足したと言って、一度そこを離れる。変化した際の難点は服が脱げてしまうこと、扉が開けられなくなること。人に見られない屋外か、脱いだ部屋まで連れて行ってくれる誰かが必要だ。
そう頼りになる右腕の部屋へと向かう。部屋で勉強して過ごす予定と聞いており、突然の訪問も快く受け入れてくれた。ここなら半日でも居続けておかしくない。誰かが来ても彼が拒めば見つからない。最初から勉強の予定と言っているなら来る人も少ないだろう。私が来ていたことを知っていても特別に認めたのだと思ってもらえる。
「一葉様狙いならその誤解は不都合だと思うけど。まあ、行ってくれば?」
戻ってくるつもりのおおよその時間を伝え、その前後に寮の前に来るよう頼む。約束も取り付け、私はもう一つの姿、白猫に変化する。入っていない猫が出ていくことのないよう、息抜きと誰に言うわけでもない弁明をしてから寮を後にし、木々の影へと入っていく。懐に隠した私を出し、何事もなかったように去っていった。
気を取り直して白猫の私は音楽室を目指す。先生や事務員に見つかれば連れ出されてしまうかもしれない。学生なら見逃してくれるだろう。そっと足音を忍ばせ、階段を上がっていく。目的の部屋までもう少し。一葉様はまた歌っている。相変わらず素敵なお声だ。それに引き寄せられるように音楽室の前に辿り着けば、扉の前で立ち尽くす。猫の手では引き戸が開けられない。器用な猫なら開けられるのだろうか。少なくともこの姿に慣れていない私には難しい。仕方ないので引っ掻いて中にいる一葉様に訴える。気分の悪くなる音だが、一葉様が気付いてくれるならそれで良い。
「何?あ、猫ちゃん。どうしたの、君も俺の声に釣られて来ちゃった?果穂さんみたいな子だね。」
一葉様の声に釣られて来ていると思われているのだろうか。それとも《六華》が飛鳥様に気付かれてしまったように、もう一つの姿を取っていても気付く人もいるのだろうか。人の姿の私と猫の姿の私の共通点は多くない。瞳の色、片耳の紅いピアス。たったそれだけだ。それだけで人間である林果穂のもう一つの姿がこの白猫だなんて思い付くものでもないだろう。
気付かれたわけではない。そう言い聞かせ、抱き上げて教室に連れ込んでくれる一葉様の手に従う。外と違って暖かい。一葉様の手も温かい。撫でてくれるその手も優しい。鳴海さんほど慣れた手付きではないが、花一郎様ほどぎこちない手付きでもない。眠くはならないが心地良い手。これが知花も良かったのだろうか。歌声を聞きつつ撫でてもらうのも良い。春仁さんに撫でてもらいながら一葉様の声を聞けたら最高だろう。
空想していても始まらない。問題はここからどうやって一葉様の悩み事を聞き出すかだ。何か手掛かりだけでも得られれば、後で人間の姿で会った時に話を振れる。糸口さえ掴めれば良い。上手く緊張の糸を切ることができれば、上手く心の隙間に入り込むことができれば。可愛い仕草で落ちてくれないだろうか。猫の可愛い仕草と言えば身繕い。前足を舐めて顔を洗う仕草をすれば良いだけなのだが、人間の理性を持ってそれをするには抵抗がある。後ろ足で体を掻く程度に留めよう。
「ふふ、何してるの?ここ?ここが掻きたいのかな。」
上手く足が届かない。猫の体がもう一つの姿なら本能的にできると思ったのだが、そんなことはないらしい。猫から習っていないからだろうか。これにも修練が必要なのか。ともかく一葉様の気を惹くことには成功した。思う存分掻いてもらったら、次はその指を舐める。これはお礼だ。猫ならこういった行動くらい取るだろう。
「人に慣れてるのかな。ああ、耳にピアスが着いてる。誰かの飼い猫だね。何か食べられる物でも持ってたら良かったんだけど、ごめんね。」
一葉様も猫に話しかける人だ。ご飯の代わりに、と子守唄を歌い始める。子猫ではないのだが、動物相手だからだろうか。心地良くて今度こそ眠ってしまいそうだ。いや、私の気が緩んでどうする。気を引き締め、一葉様にしがみつく。そうすると歌うことをやめてしまうが、体は撫でてくれる。服に爪が引っかかることは許してほしい。そうしないと目を合わせられないのだ。
「人間も君みたいに裏表なく接してくれたらいいのにね。腹の探り合いは疲れちゃうよ、ねえ?」
誰にでも優しく接してくれる一葉様にもやはり悩み事があるらしい。ここで気が緩めば後で人型の私が近づいてもうっかり口を滑らせてくれるかもしれない。慰めてあげようとその頬を舐める。猫の体ではそうすることしかできないのだ。仕方ない。頬なのだから良いだろう。唇にはしていない。いくら人の姿ではないとはいえまだ早い。
もっと詳細に聞きたい。そう今度は私が安心させてあげようとペロペロ舐めてあげる。しかし人間の言葉が話せないため問いかけることはできない。ぎゅう、と抱き締められ、口を開くことすらできなくなってしまった。今は一葉様の油断を誘うことに集中しよう。話を聞き出すのは後だ。
「裏表ない人もいるんだけどね。果穂さんとか。あの子は、ちょっと違うか。裏も全部言ってるだけって感じするし。隠してるよってのを伝えるというか、何もないのにあるふりしてる、背伸びしてる感じかな。」
そんなふうに思われているのか。年齢はそう大きく変わらないのに、背伸びしているように見られている。少々不満だ。私だって大人に近づいているのに、そんなに子どもに見えるのだろうか。
改めて観察してみる。入学当時よりも互いに成長している。背は伸び、声も低くなった。子どもの体型から大人の体型に、子どもの声から大人の声に。特に一葉様は背が高く、随分見上げなければならない。帰省している間にも様々な経験を積んだのだろう。彩羽研究所の調査の時も、きっとそれ以降も、姉の皇女殿下を支えられるよう備えている。私も《果実姫》の右腕としての経験は積んでいるはずだが、その辺りはむしろ地上で現れないほうが良い。今さらに大きく見える理由には私が小さな白猫になっていることもあるだろう。撫でる手も大きくて当然なのだが、意識するとより差を感じられる。
その手で私の顔をこねくり回す。人間の時よりも顔の皮が動いているような感覚がある。潰された不細工な状態で止められ、笑われた。とても不本意だ。
「君は彼女と瞳の色が同じだね。とっても綺麗だ。」
私の瞳も美しいと思ってくれているのだろうか。人の姿の時にじっくりと見つめ合うことなどないため、こんな表情で見ているのかも分からない。猫だから人の時よりも瞳が見やすいのだろうか。今なら私も真っ直ぐ見つめ返せる。彼の瞳は、光の加減か、僅かに金色も差しているように見えた。あまり見つめると惹き込まれて本気になってしまいそうだ。猫の私からそんな気の迷いは感じ取れないだろうと、体を鍵盤の上に乗せる。欠伸をしてみせ、何度もそちらを見て訴えれば、また体を撫でてくれた。人の姿であればこんな時間は過ごせなかっただろう。
この穏やかさに浸っていたい。約束の時間も迫っているのにその手に身を委ね、心地よさに瞳を閉じる。しかし撫でる手は次第に手足に移り、肉球をぷにぷにと押し始める。あまり心地良くない、正直寝苦しい。
「ちゃんと爪も切られてるね。毛並みも良いし、ちゃんと可愛がってもらえてる。そろそろ帰ってあげないと飼い主さん、心配するんじゃないかな。」
猫に言っても分かるわけがないのに、一葉様はそうして私に話し続ける。寝させるつもりはないのだろう。確かに緋炎を待たせてしまう。また猫の姿で一葉様に会いに来れば良いのだ。妻となるならもう一つの姿を教えることだってあるだろう。そうなれば毎日、こうして歌声を聞きながら撫でてもらうことだって可能になる。自分に言い聞かせ、渋々音楽室を後にした。
戻りたい気持ちを振り切り、男子寮前に戻る。予定時刻を過ぎてしまっているが、緋炎はいるだろうか。不安になりつつ探していると、寮の外から彼は戻ってきた。私を見つけると安心したように微笑み、抱き上げてくれる。ほんの少し遅れただけだが、心配させてしまったのだろうか。そう感じさせる優しい手付きで私を懐に隠し、自室へと連れ帰ってくれた。
「着替え済んだら呼べよ。」
自分は洗面所に向かい、私を置き去りにした。服も出掛けた時のままであり、すぐさま支度は整う。一葉様が帰ってしまう前に音楽室に戻りたい。緋炎へのお礼はまた今度、と一言だけ声をかけて急いで部屋を出た。
走って音楽室に入る。帰り支度をしていただろう一葉様が驚いた表情で私を迎えた。そうだ、今日は一度離れている。急いで来たことにも気付かれただろう。慌ただしい足音が聞こえていたはずだ。私の息が上がっていることにも気付かれるだろう。この理由を何と伝えよう。裏表なく、腹の探り合いをせず。私には隠し事が多い。それらができなくても、見せかけることはできると信じよう。それとも一部の秘密は共有しようか。変化の術の話をすれば、心地良い時間を過ごし、深い仲にもなりやすいかもしれない。一葉様の悩み事についても聞きやすくなる。一方で変化について隠したい気持ちもある。これを伏せれば入手できる情報も増えるだろう。
「何かあった?俺で良ければ聞くよ。」
迷いが顔に出てしまった。幸い一葉様には悩み事があるように見えたようだ。帰り支度も一度止め、座ってゆっくりと話を聞く体勢を整えてくれる。身分の差、それによる常識の違い。その辺りを絡めれば悩み事という言い訳も通るだろうか。彼らには裏表がある。私にも立場がある。それに馴染めない、と。恋愛関係の話題を一葉様に振っただけで色目を使っていると言われたのだ。結子様に緋炎のことを聞いた時も付き合っていると誤解を受けた。それを引き合いに相談という形を取ろう。
「色恋の話はみんな好きだからね。君もそうやって色々言われるのは面倒だって感じるほう?」
邪推されるのは面白くない。そう感じる人もいる。緋炎との誤解を受けるのは他の人からなら何ら問題ないが、一葉様本人からは不都合だ。一葉様に色目を使っていると言われるほうならどちらからでも困らない。それを受けて一葉様からの印象が悪くならなければ良いだけのことだ。一葉様は噂話だけで私への印象を下げるような人ではない。ただし、皇子の妻には大変な苦労があるという話を以前しており、私を迎えることには否定的な態度を見せていた。
裏表なく。嘘を吐いて気付かれたほうが悪印象を抱かれるだろう。好きだと言うことはやめておこう。告白の嘘は嫌われかねない。お近づきになりたい。これなら嘘ではない。妻になりたい、も嘘ではない。権力に惹かれた女はお嫌いだろう。どう伝えれば裏表ないという好印象と嘘を吐かない真っ直ぐさを演出できるだろうか。これが腹の探り合いと言われるものになってしまいそうだ。
「好奇心旺盛な方が多いな、とは思っちゃいます。一葉様は彼らと違って優しいですよね。そういう一葉様はどうなんですか?よく言い寄られてますよね。」
「ありがとう。一部権力狙いで親に指示されてるような子もいるからね。そういうのは苦手かな。本人も嫌々だったりするし。どっちにとっても良いことないよ。どこまで本気か分からないし。」
本気で恋している人もいるだろう。一方で自分自身の気持ちはない人もおり、本気の人相手でも疑ってしまうのかもしれない。私は権力狙いだが、親の指示ではない。その話をしてみようか。まず親がいないことは言ってみよう。兄はいるが、親はいない。果樹園の人々に育てられ、寂しいと感じる暇もなかった。これでも兄の指示という線は残り、私の権力欲をどこまで追うかに影響される。手に入れてから何をしたいか伝えれば悪印象には繋がらないかもしれない。
世界樹の浄化方法を求め、果樹園の果実を幅広く利用してもらい、故郷の人々が健やかに日々を過ごせるように。今の自分たちの立場では限界がある。何にも怯えることなく彼らが過ごせるようにするには力が必要だ。四辻彩芽様と話したのは地上での出来事。大切な人たちを守りたいと苦しみ、攻撃的な態度を取っていた。入れ替わった後の彩芽様は弟妹を守るために家を継ぐ覚悟を決めた。つまり地位があれば守れるということ。ただの果樹園従業員より皇子や皇弟の伴侶のほうが守れるものは多いだろう。
「守りたいから、ね。じゃあ俺じゃなくても良いわけだ。」
確かに他の候補も考えた。しかし今一番近づけており、私の身分でも検討してくれるだろう人は一葉様だけだ。最も身分が高い人でもある。人柄で選んだと言ってほしいのだろうか。もっと親密になれそうだと感じ、実際に楽しい時間を共に過ごせている。
「それだけ?俺は不満だけど。」
私に気があるのだろうか。そうだとするなら希望はある。私にとって一葉様だけ他と違うと言える要素は沢山ある。立場のない私たちとも気さくに話してくれる、声が素敵、一緒に歌える、身分の違いを認識した上で配慮してくれる、一緒に話して楽しい、暴走召喚物討伐の時も協力し合えた。好きか嫌いかで言えば好き寄り。特別な好きにもできそうな人だ。
これが私に出せる最大だ。現状、特別に好きとは言えない。それでも一葉様は嬉しそうに笑ってくださる。一方で皇子の妻という地位は大変なものであるとも言う。妬み嫉みも沢山浴びるだろう。ただ学友と付き合う場合以上の礼儀作法も知識も求められる。期待されるものも多い。国の未来を決める一員に加わるのだ。下手な人間には任せられないのだろう。個人的な伴侶と国の役職が一致していると大変だ。自分の好きな人がその重みに耐えられそうにないなら諦めるしかない。私ならその程度余裕だ。地上の皇子の妻程度、務められるだろう。それを一葉様にどう伝えようか。礼儀作法はこの六年間で学んできた。不足する部分だってこれから学べる。勉強は決して得意とは言えないが、興味を持ったことや必要だと感じたことなら覚えられる。
「周囲の反対も激しいだろうね。身分違いって。二条夫妻や十六夜家のことは君も聞いただろう?」
それまで商人として上流階級の人々と交流し、大きな問題を起こしたことのない鳴海春仁でさえ反対された。それは急で強引な婚姻の方法のせいもあったのかもしれない。しかし一般的な流れに則って婚約者として紹介された六華に関しても、彼らは好き勝手なことを言っている。皇族と何も成していない学生とではどれほど反対されることだろう。それを黙らせるには納得させるだけの実力と成果が必要になる。地上の人間が納得する成果。それこそ世界樹の瘴気問題解決だろうか。彩羽島の人なら暴走召喚物討伐からもある程度評価してくれるだろうが、皇子の妻と認められるほどかどうかは疑問が残る。成績なら実力が分かりやすいだろうか。選択武術の成績は悪くないものだ。
周囲の反応も大事だが、一葉様からの印象が最重要事項だ。最終的には彼自身が選ぶことになるのだ。その時、私への想いがあれば選んでもらいやすい。私が有用だと思ってもらえれば、皇子の妻とすることに不安も覚えないだろうか。希少な時属性は確保したいだろう。問題はそれを開示するかどうかだ。以前見られているため気付いているだろうが、それを私の口から伝えることにも意味がある。
「君と話してると不思議な気分になるよ。立場を気にせずにいられると思ったら、風香先生や官吏たちと話しているような緊張感もある。ただの子どもだと侮って痛い目を見る人が多そうだ。」
これは褒められているのだろうか。彩羽学校に通える家の子がただの子どものわけがない。学費が一般的な家庭では払えないほど高額なのだ。支援者がいるか、自分たちでしっかりと稼げているか。彼も私の勤める果樹園《豊穣天使》のことは知っている。味を楽しむ果実以外についてもこちらからもっと詳しい内容を教えれば、特別と示せるだろう。もっとも一葉様と繋がれると確定していない現状では言いにくい。
地上では《豊穣天使》の代替わりが知られていない。そもそも経営者については何も開示していない。私の兄が既に継いだと伝えることは避けたいが、ただ従業員というだけの立場ではないとは伝えたい。果樹園の場所は当然秘密だ。それでも、あれだけの種類と数の果実を卸すことのできる果樹園ともなれば相当な広さが必要なことは彼にも分かるだろう。それなのに場所を謎のままにできている。私はその秘密を握っているのだ。そんな私を手に入れることは大きな意味を持つだろう。
「後ろ暗いことはしたくない、なんて言っていられないんだろうね。手段が分かれば対策もできる、って考えればまだ良いか。」
自分が人を傷付け得る果実を扱うことには抵抗があるようだ。私を取り込んでおけば最新の毒物について知ることもできる。私たちは何も国家転覆を企んでいるわけでも、全てを壊そうとしているわけでもない。協力関係を築けるはずだ。私たちの毒物もある程度流通させると同時に解毒薬も作っておけば、自分たちが致命傷を負うことはない。度々新しい毒物を生み出すことで、他の先を行くことで、自分たちの知らない毒物が流通する危険も減らせる。命を狙われることもある皇族ともなれば、これは他に代えられない利益だ。
毒林檎の話題は最悪誰かに聞かれても危険の少ない話題だ。捕まえようにも証拠はない。学生の空想という言い分も今ならまだできる。彼らだって自分の利用している果実が本当になくなってしまえば困ることだろう。解毒もできるかどうか怪しくなる。一方的に使われる立場になる危険は冒せない。潰そうという気にもならないはずだ。その気になった所で《春一番》商会や私を通じて果樹園やその支配者を探すところから始まる。正体の見えない相手にどこまで戦い続けられることだろう。
「周りは納得させられないよ。表向きは健全な果実しか扱ってないんだから。ただの裕福な農民か商人の身内だ。」
少なくとも一葉様は私との婚姻に利益を見出してくれた。彼の希望だけでは難しいのか、反対されない相手を望んでいるだけか。周囲の意見など的外れなことも多い。全員を納得させようなんて無理難題だ。それぞれが自分にとって都合の良い相手と結婚してほしいと思っているだけ。どれほど正当な相手を連れてきたところで、反対する理由を探されるだけだ。一葉様に足りないものは自分が黙らせるという意思か。それを引き出せるほどの利益を私に見出してもらうか、感情を向けてもらうか。どちらのほうが彼にしてもらえるだろう。色恋の類は私も経験がない。誘惑は難しいだろうか。誰かに教えてもらっても良い。
「勘弁してよ。俺だって未熟なんだ。君を守りきれない。今までみたいに気軽な会話だってしたいんだよ。」
私との時間は望んでくれている。皇子と結婚した場合、皇子の側にも悪口を言う人はいるだろうが、主な攻撃対象はその伴侶となるだろう。それには二人で対処する必要がある。皇子が守るべきという考えを持っているなら、まだ希望がある。私が守ってもらう必要もないくらい強いと示せば良い。隠し事があること自体には理解を示してもらえる。武術面でも最低限の実力はあると示せている。水面下での争いに関しても心配は要らない。
所在や規模だけでなく、経営者の姿や名前すら不明の果樹園、《春一番》商会との繋がり。後ろ暗い果実の栽培をしているとなれば、ある程度の策略が必要と分かるだろう。そんな果樹園で自由の利く立場という点から、裏での活動にも慣れていると思ってくれないだろうか。
「純粋なだけってわけじゃない、と。」
これは好印象なのだろうか、それとも純粋な子が良かったのだろうか。しかし純粋無垢では皇族の妻は務まらない。一葉様の好みと皇族の妻に相応しい人物が一致していないことも十分考えられる。それなら一葉様からの好印象を稼ぐことはその妻の座に近づくことにならない。現在の皇帝や皇妃に自分の有用性を訴えたほうが良いだろうか。それが通用するなら既に婚約者がいそうな気もする。候補もいないのか、その辺りも探ってみよう。《秋風》にも《鬼火》にも頼らせてもらおう。《六華》は何か探れる段階に至っているだろうか。