椋鳥に落ちた雪
《六華》視点
もう新しい《果実姫》にもすっかり慣れた。他の配下たちも主人の変わった果樹園で恙無く働いている。《柘榴》か《林檎》が継ぐだろうと思っていたためでもある。自分たちの主人として頼もしい背中を見せてくれているからでもある。同時に可愛い子や孫のような愛らしさも見せてくれる。《果実婆》を慕っていた人なら皆新しい《果実姫》のことを好きになるだろう。以前の《柘榴》が《果実姫》として立つことを応援しているのだ。
今は《林檎》最後の夏休み。ゆっくりと遊ばせてしまいたい気持ちもあるが、《果実姫》の勢力拡大策のため、彼女にも相談したいことがある。地上でのことは《林檎》にも相談するよう指示を受けている。彼女と話したい。そう彼女にも分かるよう男性の姿で彩羽学校の敷地内を散歩していると自分を呼ぶ声がした。
「六華!」
喜びに満ちた声色のそれはあの人によく似ているが、今の僕は地上の六華と異なる姿を取っている。下手な答え方をすればもう一つの姿を持っていると教えることになる。そう距離を取るが飛鳥と、一緒にいた果穂も追いかけてきた。地下の話は飛鳥にできない。どう誤魔化そうか。今日は男性の姿で髪の色も異なるのに、どうして飛鳥は六華と分かったのだろう。彼に分かるということはあの人にも分かってもらえるのだろうか。
誤魔化す方法も思いつかないまま、二人に追いつかれた。曖昧な表情で振り返ると、飛鳥は驚いたように目を見開いた。
「ごめんなさい、雰囲気が似てたから。あの、人違い、でした。」
ここで彼を振り切ることは不自然だ。果穂とだけ知り合いと言えば二人にしてもらえるだろうか。しかし今回《林檎》に会いに来た理由は彼の兄との婚約の件について。飛鳥は《林檎》の時属性も隠し続けていると聞く。新たな秘密も共有できるだろう。僕が見た彼も信頼に値する人物だ。このまま人違いということにしても良いが、姿は違っても同じ六華という人物なのだと教えてあげても良い。あの人に最初に気付いてほしい気持ちもあるが、それはそれで試せば良いだけ。飛鳥にはこのことを黙っていてもらおう。
地上でのいつもの姿、女性の六華の姿に戻った僕を見せる。この姿で一人彷徨うことの危険性はあの人から聞いている。だから男性の姿で行動しているのだ、このことは秘密にしてと伝えた。話を聞きつつも驚いた様子を見せてくれる。目の前の出来事は理解してくれたようだが、僕が果穂と二人で話したい理由は分からない。どう席を外してもらおうか。
「女の子には女の子の相談事があるんです。邪魔者はあっち行っててください。」
随分と雑な扱いだが、果穂のこの言葉でも聞き入れてもらえて、飛鳥は席を外してくれた。おかげで今から地下へと降りられる。彩羽でも身分の上下があるはずだが、飛鳥に対するあの態度は受け入れられているのか。そのことを問おうとすれば、拗ねたような彼女の表情に気付く。
「どうして彼にもう一つの姿を見せたの?私にだって見せてくれてなかったのに。」
嫉妬のようなことを言うなんて可愛らしい子だ。これには理由がある。上位者たちの作戦にも関係するため、駄目とは言われないだろう。その下準備とも言える。ついでに彼女が以前知りたがっていた僕の昔話を聞かせてあげよう。これからの作戦について、僕を利用する形になることも気にしなくて良い、むしろ望む所と言ってあげられる。
それはまだ僕が名前さえ持たなかった頃のこと。どこを歩いていたのか、どうやって生きていたのか、それさえもう記憶の彼方だ。名前がないと自身のことも曖昧になってしまうのかもしれない。しかしそんな泡沫の日々はあの人の言葉で終わりを告げた。六華。冬の日に舞う雪の別称を、僕に付けてくれた。
先ほど会った十六夜飛鳥の兄、十六夜椋。彼はどこの誰とも知れぬ僕を受け入れてくれた。領地にも何度も会いに行き、定期的に会うことを許してくれている。勿論、地上の女性としてだが、《果実姫》の勢力を拡大するために協力してもらうのなら、僕の地下の名前ともう一つの姿を教えても良い。地下での名前も同じ意味だ。それ以外の名前なんて要らないから。
「分かったよ。その人のことは《六華》に任せる。良い報告を待ってるよ。」
《林檎》に背中を押され、十六夜家に向かう。何度も会っているため屋敷の人にも認識されており、顔を見せるだけで通してもらえる。来客中や仕事中であれば応接室の一つで待たせてもらえる。そのくらい、僕は受け入れられた。しかし今日は訪問はしない。屋敷の中から見える木の上に腰掛ける。彼はここに人がいることに、それが僕であることに気付いてくれるだろうか。
仕事の終わりを待ち、窓から椋の姿を見る。僕だと分からなくとも凝視する人影には気付くかもしれない。窓から彼の姿が消えた。屋敷から出てくる人影もあった。こちらに近づいてくる。
「六華?じゃないな。誰だ?」
一瞬僕に間違えたが、性別が違うことにすぐ気付いた。姿を女性のものに変え、驚く彼に告白する。僕には隠し事があることを、とても重大な秘密があることを、大切に想う主がいることを。もう一つの名前がある、もう一つの姿がある。それらを受け入れてもらえるだろうか。
「いきなりどうしたんだ。」
学生の飛鳥よりも少し大人で精悍な顔立ち、落ち着いた雰囲気。それらを今は戸惑いに染め、ゆっくりと話を聞いてくれる。僕にとって六華という名前は特別で、それが自分を定めてくれた。椋が名付けてくれたから、自分を拾い上げてくれた人に名前を聞かれた時も名乗るものがあった。何者でもなかった自分が僕になれた。常識も教えてくれた。《果実婆》は自分の炎が燃え尽きるのを見てなお、共に生きたことを、その人を選んだことを後悔しなかった。今の主があの子を自分の炎に選ぶなら、僕の炎はきっと椋だ。
突然言われて驚いただろう。それでも彼は真摯に受け止めてくれる。疑うこともしない。信じてもらえていることは嬉しい。同時に、この告白に至った理由の一端には《果実姫》が地上への進出に前向きだからという理由もあることから、後ろめたさも感じる。そんな思いに、気付かれてしまったのか、返って来た言葉は否定的なものだった。
「次期領主の妻はそんなに簡単なものじゃないんだ。君を閉じ込めたくはない。」
自由に外に出ているのに、責務を果たさない。社交にも顔を出さない。それでは非難の的になる。それは今まで聞いてきた話からも理解できる。だから次期領主の妻として、他の支配者階級の人たちと肩を並べられるよう責務を果たす。果樹園のほうも問題ない。《彩》は十分育ってくれた。他の中位者たちにも後継として任せられる人物は複数人いる。僕が地上に出ることを《果実姫》も《林檎》も認めた。彼のご両親とも将来の話をしたことはある。
僕にとって地下のことが心配でなくとも、彼にとって地上でのことは心配。今まで聞いてきた礼儀作法や常識は一部だ。どこかの領主の家の子というわけではないため、見る目も厳しくなるだろう。粗を探され、言いがかりをつけられる。そう幾つも心配な理由を挙げてくれた。つまり完璧であれば何も言われない。言いがかりを付ける理由が探しても見つからなければ良い。僕には地下という彼らの目を完全に逃れられる場所もある。心を休める場所は椋の隣だけではないのだ。
「辛い思いをさせることになる。君にそんな目に遭ってほしくないんだ。」
僕のためを思って言ってくれているなら、希望はある。共に戦おうと言えるようにすれば良い。僕は見た目ほどか弱い人間ではない。そう男の姿も見せつける。身長も体格もさほど変わらないが、白で構成された女の体よりは逞しく見えるだろう。
「そういう問題じゃなくて。君が突然こんな話を始めたのは、そのご主人様の影響か。」
影響は受けたが、それだけではない。僕にそういった地上の繋がりを作ってほしいとは頼まれていない。《林檎》と《紅炎》がそのためには動くと聞いている。他にも既に動き始めている人物がいる。ただ今後の変化の予定を伝えられただけの僕には地上での行動は期待されていなかった。地下の果樹園で果実を育て、果実生育係を育てる仕事に不満もなかった。果樹園の人々との関係も良好で、あの場所が自分の実家だと言える。自分のために、椋の下へ行こうと自分から思った。それだけだ。いずれ十六夜家に入ることは以前から考えており、ご両親とはその話もしている。ただ椋本人に言う勇気がなかっただけだ。
地上の権力が欲しいわけではない。ご主人様に指示されたからでもない。その部分は信じてくれた。しかし僕が受け入れられるかは別問題。友人として交流できていたことも、この屋敷の住人が僕を覚え歓迎してくれることも、彼の妻となるに十分な要素ではない。ただ悪い要素にもならないだろう。
「庭を歩こうか。」
嫌だと言って僕を突き放せるわけでもない。彼だって僕との交流を喜んでくれていたのだ。現実を見られていない頃にはずっと一緒にいられたら、という話もしていた。ただのその立場の責任と重さを知り、二の足を踏んでいるだけだ。妙齢の女性を私的な理由で何度も屋敷に招き入れている事実が彼に理解できないわけはない。周囲に知られれば質問の一つや二つ飛んでくるだろう。その時彼は何と答えるのだろう。ただ有望な人材とでも言うのだろうか。
昼間に比べて暑さの和らいだ時間でも涼しいとは言えない。直射日光がないだけ暑さを感じにくいだけだ。そんな感覚をより鈍らせてくれるのは星明かりに華やぐ庭の花々。ここの風景も見飽きない。ゆっくりと話したい時はよくこうして庭に案内してくれる。
「君は、未来の十六夜領主の妻になりたい?それとも俺の妻になりたい?」
椋の妻になりたい。それは未来の十六夜領主の妻でもある。僕の主人や《林檎》が乗り気になったのはその地位と身分からだが、僕と彼の仲がさらに進んでから次期領主の立場がなくなってもそれを邪魔することもないだろう。弟に乗り換えろなんて決して言わない。僕の主人も《林檎》も権力に盲目になる人間ではない。
この答えが彼の考えに何か影響を及ぼすのだろうか。友人に励まされて告白するなんてこと、ありふれた出来事だろう。一度告白してしまえばもう僕と彼との間の問題で、その友人は関係ない。その友人が例え僕の主人や上司のような立場の人物であったとしても。
「しばらく考えさせてほしい。すぐには答えが出せないから。」
勿論すぐに返事が欲しいとは言わない。必要とあらば地下の案内だってできる。果樹園を紹介し、僕を拾い上げてくれた以前の主人にも今の主人にも会ってもらえる。果樹園の他の人々に紹介しても良い。ここでは言えない地下の名前だって教えられる。地下に案内する時も楽しみだ。そのこともこっそりを教えてあげる。自慢の故郷だ。
故郷。それはきっと大切なもの。僕にとっての果樹園はきっと他の人にとっての故郷と同じ。椋にとってはこの十六夜領全体がそうだろうか。
「君の果樹園と同じほどかは分からないけど。大切な場所であることは確かだ。」
その領地を案内してほしい。椋が育ってきた風景を、大切にしている場所を、見てみたい。そこに生きる人々と知り合いたい。互いの大切なものを語り、大切な場所を見て、互いのことを深く知り合う。彼との間に今必要なことはそれだろう。
彼の仕事の都合もある。僕も果樹園の仕事の残りを引き継ぎ、完全に地上に出る準備を整えよう。《彩》も地上の良家で教育を受けただけのことはあり、管理する立場も務められる。実務の部分も随分慣れ、戸惑う部分があっても支えてくれる人たちがいる。果樹園に勤めてもっと年月の長い人もいるが、彼らだって彼女を信頼している。そう長くかかることなく、引き継ぎは完了するだろう。




