白い約束
《林檎》視点
連日白猫の姿に変化し、花一郎様を訪ねる。突如学内に出没するようになった白猫に不信感を抱く者もいるだろう。美しい毛並みに人懐っこい性格、片耳のピアスは野良猫に見えない。かといって誰かの飼い猫というわけでもない。私と結びつける情報もない。変化する場所は気をつけている。誰も来ないような場所に緋炎と向かい、そこで彼には時間を潰してもらう。私は変化し、花一郎様の所へ向かう。そうすれば私と白猫が同時に存在しているように見える。
努力が功を奏したのか、私は怪しまれることなく花一郎様の傍に寝転んでいた。彼女は意外にも猫に話しかける感性を持っていたようで、その日の教室での出来事、授業で習ったこと、自分の予定など様々なことを聞かせてくれた。喋り続けるわけではないが、ぽつぽつと幾つも零していく。小さな声は人間に聞かれないためだろうか。時折我に返り、辺りを見回し、猫に何を話しているのだろうと呟くこともあるが、話すことはやめない。やはり人間相手より癒しの効果はあるようだ。そんな中、花一郎様はいつになく明るい声で、報告があるの、と私を撫でた。
「この後ね、鳴海様と会うの。だから今日は少ししかいられないね。それとも一緒に来る?」
《秋風》が動いたのか、一葉様を動かせたのか。いずれにせよなる鳴海春仁《鬼火》はこの彩羽にやって来た。嬉しそうに話す花一郎様の手に頭を擦り付ければ抱き上げられる。この白猫を同行させることに決めたらしい。ただしこの腕は猫を抱き慣れていないようで、いつ落とされるかと少々不安だ。撫でる手付きも慣れていなかった。そう身を捩って逃れれば寂しそうな表情を浮かべた。詫びとばかりに足に擦り寄り、ぴったり離れずついていく。私の同行を喜んでくれたのか、彼との逢瀬をそれほどまでに待ち侘びていたのか、その足取りもどこか弾んでいる。人目を避けて向かう道中も彼女は鼻歌を歌っていた。
そうして辿り着いたのは千秋先生の家よりもさらに小さな家。一人が住むだけで手一杯という大きさだ。今も使われているようで、庭も手入れが行き届いている。
「二条家の人間としては人気のない場所に二人きり、なんて避けるべきなのだけれど。でも、鳴海様なら良いわよね。皆には秘密にしてくれるから。あなたも内緒よ。」
猫らしく気の抜けた返事でも彼女は満足してくれる。あなたは本当に賢いね、と頭を撫でてくれた。途端にその手は止まり、代わりに一度止まっていた足が駆け出す。向かう先を見れば一人の男性が煙草を銜え、壁に凭れかかっていた。駆け寄る花一郎様に気付き、その煙草の火を消す。安心させるような笑みを浮かべ、ゆっくりと歩いてきた。これが地上での《鬼火》改め鳴海春仁。服装こそ改まった物だが着崩しており、それだけ花一郎様と親しいことが窺える。
嬉しそうな花一郎様が令嬢としての礼をする。以前にも増して美しくなったと褒められてご満悦だ。家に上がれば鳴海さんがお茶を淹れてくれる。上流階級の子なら淹れてもらうことには慣れているだろうに、それにも口先だけではない礼の言葉を述べ、上辺だけでない喜びを示している。茶に口を付け、さらに笑みを深めた。
「あのね、今日は一緒に来てくれたこの子を紹介するね。最近よく会いに来てくれるの。指先舐めたりしてくれるんだ。優しい子でしょ?」
「ああ、そうだな。何て名前なんだ?」
猫さんと呼ばれるだけで、名前は付けられていない。答えられない彼女に、なら一緒に考えようと提案してあげる鳴海さん。彼女が考えやすいように質問もしてあげている。この白猫の特徴を挙げてみよう、君にとってはどんな存在なのか。尋ねながら鳴海さんも私を観察する。もう白猫が地下の民であることは分かっただろう。しかしそんな素振りなど一切見せず、床に寝そべる私を抱き上げ、膝に乗せた。彼はペットを飼っているのだろうか。花一郎様の時とは異なり、安定感がある。その上、自然と喉が鳴ってしまうほど心地良い手だ。背中やお腹を撫でられても力が抜けて、離れずにいたいと感じてしまう。
感じるまま気を抜き、完全に鳴海さんの手に体を委ねる。場所が彼の膝の上から机に移動させられる間も私の呼び名の相談は続いていたが、結局納得のいく名が出てこなかったのか、猫ちゃんと呼びかけられた。花一郎様には大切な者に名付ける習慣がないのだろう。私の返事の声以外は聞こえなくなった一瞬、視界の端に映った花一郎様の目に光る物が伝った。
「ごめ、んなさい。泣くつもりじゃないのに。こんなのじゃ立派な領主になんてなれないのに。」
私を撫でていた彼の手が離れ、花一郎様の頬に触れる。彼女もそれを受け入れ、子どもらしからぬ静かな泣き方をする。声も上げず、必死に止めようとして、震える息で呼吸した。泣きたい時は一度思い切り泣いてしまえば良い。その涙を拭ってくれる人がいるなら、泣き終わった後に残るのは爽快感だけだ。それなのに彼女は涙を止めた。
「私、会いたかったの、貴方に。」
「ああ、聞いたよ。今まで一人でよく頑張ったな。」
一人で。彼女にとって彩羽学校は一人の場所だったのだろうか。この五年間で友人の一人もできなかったのだろうか。一葉様も気にかけていたのに、それには気付かなかったのだろうか。領地を治める家の子同士なら入学前の繋がりもある。そう聞いていたのに、彼女にとってはその繋がりも意味をなさないものだったのだろうか。
「ここなら気にせずお喋りできる。家の人の目も周りの評判も気にしなくて良いんだ。」
表情が一瞬にして明るくなる。家族すら信じられる人ではないのだ。何度も繰り返される彼女の過去の話は彼女にとってよほど重い意味を持つのだろう。灰色の瞳と偉大だと言う曽祖父の話、それから両親のこと。
「現領主の子もその妻も頼れないの。だって二人は興味ないんだもん。自分たち二人がぬるま湯に浸かっていられれば良いだけ。それ以外はどうだっていいんだよ。」
回りくどい言い方をしているが、要は花一郎様の両親のことだ。子である花一郎様にも興味がないのだろうか。少なくとも花一郎様にはそう感じられ、鳴海さんもそれを否定しない。だから信じられる人、という私の質問に咄嗟に答えられず、ようやく出てきた人物が鳴海さんだったのだろう。彼女も《彩》と同じだ。地下の優しさを必要とする人だ。しかし彼女は愚痴を言いつつも、どこかに逃げたいとは言い出さない。立派な領主になろうと、その座に相応しい人間になろうとしている。押し付けられただけの理想像を、おそらくは美化されている曽祖父の姿を演じようとしている。
彼女の血縁に対する愚痴はまだ続く。次は祖父母の過去に関して。立派だったらしい曽祖父は子の伴侶に関しても厳しい目を向けた。それに反発するように、祖父は家格の低い娘を伴侶に迎え、様々な苦労をしたそうだ。それでも曽祖父のことは立派だったと孫に聞かせるほど、関係性は良かったのだろう。
「人の親になれば分かるなんて知らないよ、身分違いは苦労するなんて知らないよ。立場には責任が伴うなんて知ってるよ。なんでそれを自分の子どもに言わないの?」
求められる礼儀作法の水準も教養の水準も異なる。責務の重さも異なる。二条家の品格に相応しいものを求められる。だからあまりに身分が離れていると生まれた家での教育では不十分で、結婚前後にまた覚える必要がある。幼い頃から体に覚えさせる類のものなら大人になってから覚えることは難しい。だから苦労するという話であり、見合った身分の人と結婚しろという話でもある。
彼女の祖父は万城目よりもさらに下の家格の娘を妻に迎えた。その時の経験を何度も聞かされたそうだ。まだ幼い彼女にとっては他人事なのか、それとも繰り返される苦労話にうんざりしたのか、あまり良い印象を抱いていないような口ぶりだ。妻が苦労したから、それを支える覚悟がないのに愛だけで身分の違いを乗り越えられるなんて夢を見るなという忠告。それを花一郎様の父君にも花一郎様にもしている。その忠告を聞いてか、花一郎様の父は釣り合った身分の女性を選んだ。
「権力なんて要らないんじゃなくて、責任から逃げてるだけでしょ。」
主に花一郎様の父君が跡を継ぐことを拒み、母君はそれを認めている形だ。その子が立派な先代の面影を宿していたことも影響したのだろうか。それに異論を唱える者は彼女の周りにはいなかった。
「なんで子どもには無理強いしたくないって言うのに、孫には立派な二条領主に、って言うの?」
同じ瞳、同じ名前。ただそれだけで同一人物ではない。その名前だって瞳の色が同じだからと付けられたものに過ぎない。同じ光を宿していた、同じ強さを纏っている。そんな周囲の言葉も彼女にとっては後付けの理由にしか聞こえない。本当にそう見えていても、彼女をかつての花一郎と同一人物と見做す理由にはならない。地下では一つの名を受け継ぎ、それでも別人格として扱われるというのに、地上ではなぜそれができないのだろう。《王》だって代替わり後も教育係を付けられている。《果実姫》だって《柘榴》に代わったが、先代とは比べられない。まだ幼いと言われているためでもあるが、それは花一郎様も同じ。もっと言えば彼女のほうが幼い。その点が考慮されず、同じであることを求められるなんて非常に息苦しいだろう。
それでも彼女は逃げ出さない。彼女がいなくなった後のことも領地のことも、彼女は無視できないのだろう。責められるべきは彼女ではなく、彼女に全てを押し付け、支える気もなかった親のほうだ。誰かが欠ければ誰かが穴を埋める。他人の都合に合わせて彼女が心をすり減らす必要なんてない。それなのに彼女はその場に留まり、立ち向かおうとしている。
「貴方に会えたからもうちょっと頑張れそうな気がする。」
「そっか。ならいつも頑張ってる花ちゃんにご褒美だ。」
そう鳴海さんは鞄から果実を一つ取り出した。それは私の果樹園で作られた林檎。ただ甘く爽やかな果実で、常温で食するに適していること以外に特別な点がなく、特殊な効果を持たない物。好む人も多くいてくれるが、ただそれだけだ。私たちは彼女を害したいわけでも洗脳したいわけでもない。ただ協力者となってほしいだけ。常温のそれを剥き、鳴海さんは彼女に食べさせる。喜ぶ彼女を見つつ、優しいような、甘いだけのような言葉を投げかけた。
「一人でも味方がいると違うだろ?心の余裕が全く、さ。」
黙って頷く花一郎様の表情は見たことないくらい華やいでいる。よほど私たちの林檎が美味しいのか、鳴海さんの言葉が嬉しかったのか。おそらくは後者だろう。味方、と小さく呟いている。これで彼女は彼が味方という認識を強め、頼りにしてくれるだろう。家族が敵という認識も深まっただろう。言葉にすることで明確な枠組みとなる。鳴海さんの言葉を聞き入れやすい土壌はできあがった。心配な点はこれを危険視した現当主が鳴海さんと会わせないという行動に出ないか、だ。その辺りは《鬼火》も《秋風》も考えているだろう。
美味しいとまた林檎を楽しむ彼女。気に入ってもらえたようで何よりだ。私たちが愛情を込めて作っている果実なのだ。美味しくないわけがない。それをさらに美味しくするために試行錯誤も行っている。残念なことは私が猫の姿でいるためにそれを今話せないことか。人間の姿であったなら私の勤めている果樹園と説明できる。
「疲れたならいつでも俺の所においで。気力が回復するまで休ませることならできるから。」
甘い言葉をかけ続ける。鳴海さんの所に行くのではなく、彼女から連絡を取り、鳴海さんが彼女と密かに会える場所を用意する形となるだろう。そのことを説明するまでもなく、彼女は安堵の表情を浮かべている。
「うん。私ね、貴方がいてくれたら何でもできそうな気がするの。だから、ずっと一緒にいてね。」
彼女はもう立ち直り始めている。告白のような言葉ではあるが、恋する乙女と呼べる表情には見えない。むしろ子どもが保護者を見つけたような安堵が見える。それを受けた鳴海さんも幼子に対するように頭を撫で、分かりやすく庇護者の愛情を注いであげている。しかしその表情を崩さないまま、彼は厳しい現実も彼女に突きつけた。
「だけど、これは君が大人になるまでだ。理由は、分かるね?」
学校では厳しい、凍りついた表情のままのことも多いのに、今は鳴海さんの言葉に一喜一憂している。それなら大人になりたくないと我が儘を言っている。二条家の子として傷になり得ることはできない。異性と二人きりで会うことは小さな傷になる。それが分かっているから彼女は目に涙を浮かべた。その涙を零すまいと目を瞑り、苦しそうに表情を歪めた。
「ずっと、一緒にいたいの。」
震える声で言い、考え込む。大人になれば一緒にいられない。だけど大人になっても一緒にいたい。それを満たすための答えを探しているのだろうか。これはこちらにとって都合の良い展開だ。夫婦であれば毎日二人きりで会うことができる。そして彼女は唯一の答えを思いつく。
「私、大きくなったら鳴海様と結婚する。」
良い案を思い付いたとばかりに涙を引っ込めた。引き出したかった言葉のはずなのに、鳴海さんは一度否定する。今一度考えてみよう、大きくなったら検討しよう、それまで誰にも内緒だ、と。彼女の中では最善の答えが出たのに、いつものように褒めてくれない彼。彼女は自分と結婚した場合の利益を提示し始める。
一番は二条領主の伴侶という立場。皇族に仕える一番の臣下であり、広い領地を持つ領主だ。現領主が祖父であり、父は継がない予定のため、他の人と比べると早い段階で二条領主の地位が彼女の物になる。彼女の物だから好きにできる。望めば鳴海さんの物になる。そう全てを明け渡す姿勢を見せた。これはもはや信頼ではなく依存だろう。駒として扱うなら好都合だが、情緒不安定で自分の全てを他人に任せようとする彼女には不安を覚える。これが地上の支配層の姿なのか。
《鬼火》は彼女のこれを引き出したかったのか、今後の話を始める。彼の思惑通り、なのだろうか。
「それなら周りを納得させられるように準備するから、君はこのことを秘密にできるかな。準備には少し時間がかかる。それこそ君の卒業までかかるかもしれない。それでも待てるかな?」
「うん、待ってる。絶対、約束だよ。」
期待に満ちた花一郎様。その頭を撫で、鳴海さんは満足そうだ。彼女はもう彼の行動を待つだろう。しかし鳴海さんはさらに意味深な言葉を続けた。
「機会があれば、隠れんぼをしよう。子どもらしく遊ぶ時間だって必要だろう?」




