花を知る者
夜中に研究所を眺めても、侵入方法は思いつかなかった。木から飛び移るにも窓が開いていなければ難しい。そう植物園から見えない研究所のほうを向いていると、一人の学生に話しかけられた。
「珍しく物思いに耽っておられるのね。そちらに何かあるのかしら。」
余計な一言を掛けてくれる彼女は百地麗華。同年代とは思えないほど大人びており、こちらが緊張してしまいそうだ。そんな彼女から見ても今日の俺はいつもとは異なるように見えたらしい。彼女は何か思いついてくれるだろうかと研究所の少女のことと侵入したい旨を相談する。研究所の情報は学生に入って来ない。侵入方法は特に隠されており、学生でも分かるようなら機密情報が漏れ放題になってしまう。あまり期待はできないが、考えてくれる人は多いほど良い案が思いつくだろう。
「侵入方法は分からないけれど、研究所に関する怪談はあるわ。」
今聞きたい話ではないと断る間もなく、麗華さんは話し始めた。まだ明るい時間に聞く分には耐えられる。そう自分に言い聞かせ、彼女の話に耳を傾けた。
怪談の舞台は彩羽研究所。謎の少女がいる場所と同じだ。そこでは様々な研究が行われており、中には違法なものも含まれる。それが世界樹の化身を生み出す研究。この世界の中心、この世界が世界として成り立っている理由。その世界樹そのものとも言える存在が、この世界を見守っている。彼女の力を借りられれば全てが叶う。そうその存在が求められた。神とも言える存在を人の手で生み出す。なんとも無謀なことに思えるが、そういったものに挑戦していくのが研究者というものなのだろう。
話が聞こえていたらしい果穂さんも、いつの間にか傍にいたらしい榴さんも会話に加わる。しかしこの研究に二人は思う所がありそうだ。
「研究者の慢心と思い上がりが生んだ、命知らずな行動です。」
「下手なことをして作物がこれ以上育たなくなったらどう責任を取るおつもりなんでしょうね。世界樹の機嫌を損ねてしまったら事ですよ。」
植物園をどちらかが継ぐ予定の二人にとっては我が事の問題のようだ。彼らの《豊穣天使》は上質な果実を生産している。世界樹に何かあり、生産に問題が発生すると真っ先に品質が落ちるだろう。しかしこれは怪談ではなく、ただ違法な研究が行われているという噂だ。
「世界樹の化身を洗脳して、世界征服を目論んでるという話ね。」
信憑性のない噂か。恐ろしい内容ではあるが、やはり怪談ではない。この話は少し侵入した程度では確かめられない。気にはなるため、頭の片隅に留めておこう。
侵入策は得られなかったが、果穂さんのやる気は満ちた。行ってくると榴さんにも言い、俺を連れて研究所へ向かう。ここでは言えないとして急ぎ足だ。到着した先は数度来ている研究所裏。思い立ったが吉日と言わんばかりに早口に説明される。彼女がしたいことは時属性魔術による侵入。対策されているだろう転移術による侵入ではなく、体を浮かせる浮遊術で窓に近づき、後は拳で何とかする作戦だ。浮遊術といえば風属性にも思えるが、時空属性とも言いかえられる時属性でも得意になる。窓もあの少女の部屋は閉められているが、最悪壊せば良い。あの無表情の少女が身振り手振りを理解して開けてくれるとは思えない。
「流石に見つかると困るんで、開いていて人の居ない部屋から入りましょう。そのための探知術ですよ。」
外から見ただけでは人がいるかどうか分からない。これも果穂さんの探知術で把握し、確実に見つからないよう侵入する。最も厳重な研究所なら探知術も拒否されるだろうが、そんな研究所なら学校に併設しない。換気のために開けっ放しの窓でもあれば、侵入はしやすくなる。幸い、その窓はすぐに見つかり、中に人がいるかどうかだけ確認してくれた。地面に描かれた術式も抜かりなく消し、次は浮遊術で体を近づける。俺はまだ使えないため、この瞬間を見られてしまった場合、どう言い訳しよう。俺は浮遊術がまだ使えない。果穂さんが使ったことになってしまう。
緊張しつつ周囲への警戒を強める。無事に開いたままの窓に到着し、先に部屋の内部に着地する。うっかり魔術を止めてしまっても落ちないよう、彼女の手を取り、そっと中に誘導する。これで二人とも無事侵入完了だ。本番はここから。机の上の物を崩さないよう気を付け、床に降り立つ。左右の壁は本で埋め尽くされ、中央の机にも開かれたままの本やメモが散乱している。窓際の机には湯沸かしも置かれている。ここで温かいお茶を飲みながら研究を進めているのだろう。
見ている場合ではない。そう果穂さんを急かし、廊下の物音に耳を澄ませる。足音の途切れる瞬間を狙いたいが、あまり時間も掛けられない。部屋の主が帰ってきては事だと彼女は再び探知術の準備を始めた。研究所内は当然魔術の使用が許可されている。そうしなければ研究もままならない。今なら誰もこの廊下にはいない。戸の開閉音にも気を遣い、廊下へと足を踏み出す。
出る瞬間は見られなかった。学生の顔や特徴など覚えていない、そもそも知らないだろう研究者なら見つけても俺たちを見逃してくれるかもしれない。それとも見覚えのない人間として見咎めるだろうか。子どもという時点で怪しさはある。研究者見習いくらいいるかもしれないが、それなら相手も顔と名前を把握しているはず。見知らぬ子どもは不審だ。しかし廊下に隠れる場所などあるはずもなく、ただあの少女の見えた部屋へと急ぐことしかできない。急ぐだけで解決する問題でもない。そんな心配が不運を現実にしてしまったのだろうか。俺たちが通ろうとしているすぐ目の前の戸が開けられた。
「君たち、何をしているんだ。ここは学生の入る場所ではないぞ。」
美しい顔を険しくしている研究者は風香先生。これでは言い逃れることもできない。迷い込んだという弁明も通じないだろう。彼女は俺たちが研究所に入りたがっていたことを知っている。それでも頭が焼き切れてしまうほどに回転させ、言い訳を考える。
本当の理由は世界樹の化身を生み出すという興味深い噂を聞いたから。これをそのまま言ってはただ怒られるだけだ。あの少女が閉じ込められているから助け出そうとしている、と言えば逃れられるだろうか。
「噂を真に受けたのか。全く仕方のない子たちだな。私としてのその少女の素性は気になる。明らかに不審な点も見つかったからな。ふむ、どうしてもと言うなら私の権限の範囲で見せられる物を見せてあげよう。」
俺たちの偽りの善意を信じてくれたのか、風香先生にも何か考えていることがあるのか、彼女は今出てきたばかりの部屋へと招き入れてくれる。まずは彼女の研究室に寄り、立ち入り許可証を受け取る必要があるらしい。研究者は名札を、それ以外の人は一時的に与えられる許可証を下げることで不審者と見做されない。たとえ皇族でもその許可証がなければ警備員に捕まってしまうらしい。実際、一昨年には一華様が研究所に侵入しようとして拘束されたとか。今回は許可証があるため警備員には捕まらないが、この許可証は臨時の物。長時間の滞在も単独行動もできず、機密に関わる場所には風香先生同伴でも入れない。それでも温情のある対応だ。他の人なら即刻つまみ出され、大問題扱いされていたかもしれない。俺たちは運が良かったと話しながら、今貰った風香先生の客人であることを示す許可証を首から下げる。これで他の研究者に見つかっても大丈夫。こんな所に子どもが、という目で見られても次の瞬間には風香先生が見学させていると思ってくれる。途端に気楽なお散歩の空気へと変わった。
「見せやすい場所はここだな。私も関わっている研究の実験室、召喚室の一つだ。」
離れた場所から何かを呼び寄せる魔術、召喚術。厳しい制限の下、皇国では一部発動が許されている特殊な術だ。床一面に描かれた大きな召喚術式にはびっしりと小さな魔術文字が書き込まれている。それら魔術文字の一部が厳しい制限に合致するよう調整している部分になるのだろう。これが召喚術か。そう思わせられる雰囲気とは裏腹に、部屋の隅には誰かの研究室にも風香先生の研究室にもあった湯沸かしが置かれていた。一角には上質な机と座布団、さらには毛布まで用意されている。研究室とは思えないほど整った設備に首を傾げていると、それに関しても説明してくれた。人物を召喚した場合に友好的な関係を築けるよう、こうして用意しているのだと。
「次は本来立入禁止だが、謎の少女について調べるなら外せない。何が起こるか分からない。私より前に出ないこと、何かが起きたらすぐに走ってその場を離れること。分かったな?」
真剣な声色で次の部屋に案内してくれる風香先生に緊張感が高まる。大きな物音は聞こえない。だから怪我をするようなこともないはずだ。そんなことを言いつつも、風香先生は最大限の警戒心を持ってあの少女の部屋に侵入する。
調度品の少なすぎる室内は召喚術式のあった部屋よりも殺風景だ。簾も何もない窓に、立ち尽くす少女。足は確かに生えており、音に反応してこちらに振り向きもした。風香先生の呼びかけにも応じた。言葉も通じている様子だ。果穂さんの挨拶にも意味深な言葉を返す。
「君のことは知ってるよ。《果実たち》の子だ。お姫様になりたいんだよね。」
魔術言語を交えての言葉。お姫様になりたい、は幼い女の子ならよくあること。今現在言っているなら少し夢見がちだが、誰かにとってのお姫様のような存在という意味ならおかしくはない。どういう意味で言われているのか果穂さんは理解しているようで、真剣な表情をしている。風香先生も分かっていそうな顔だ。《果実たち》とは何だろう。果樹園の子という意味だろうか。果穂さんを知っているなら俺のことも知っているだろうか。
「知らなーい。こっちの人は知ってるよ。《風》の主人だよね。」
風香先生のことは分かる。《風》の主人とは何なのだろう。風属性の先生ではあるが、主人と呼ばれるほど魔術に長けるのだろうか。二人の表情から的外れな発言ではないことが分かるが、どこまで正解かは分からない。会ったことがないはずの相手の情報を当てたようなのに、この少女は何も動じた様子がなく、当然のことをしたような表情だ。彼女は一方的にこちらのことをある程度知っているようだが、俺たちは彼女のことを何も知らない。そう名前を尋ねると驚きの返事があった。
「被検体って呼ばれてるよ。」
平然と答えている。それが名前ではないことも分かっていないのだ。風香先生も思う所があるのか、難しい顔で彼女を見つめている。俺たちが何も言えずに、どんな顔をして良いかも分からずに見つめている理由もこの子には分からないのだろう。首を傾げる被験体と名乗った少女に風香先生は会ったことのある人や様々な知識について尋ねていく。そして、果穂さんはようやくいつどこで自分のことを知ったのかと質問をした。
「深くて暗いお花の所にいたの。《果実たち》と仲良しなんだよね。」
自分のことは分からないのに、果穂さんのことは分かる。深くて暗いお花は一体どこのことなのだろう。どうして知っているのか、詳しく聞けば幼い頃に聞いた昔話のように話し始めてくれた。
果実の姫は、昔はいなかった。いつからか深く暗い場所を照らす花の傍で果実を育て始めた女性が現れた。果実を育てる女性、果実の姫。そう呼ばれるようになった彼女は果実を用いて飢えを満たし、時には傷を癒し、病を治した。その果樹園は何度も受け継がれ、代々果実の姫とその仲間の《果実たち》が世話をしている。
深く暗い場所に咲く光を放つ花。場所の心当たりはないが、光を放つ花なら知っている。地脈花だ。世界樹から魔力が多く流れる道、地脈の先にできた魔力の塊が花弁のような形に見えることからそう名付けられている。魔力の塊が作られるほど豊富な魔力がその地帯には満ちており、ありとあらゆる生命は魔力から成っているため、特別な作物もその周辺では育ちやすい。その近辺にしか生えない物も多いが、凶暴な動植物が周辺にあることも多い。冒険者と呼ばれる人々がそうした危険な場所に行き、特別なそれらを採集する仕事などを行う。地脈花は地表にあることもあれば、地中に埋まっていることも、水中に沈んでいることもある。そこに果穂さんがいたことがあるのかどうか、気になるところだ。
「あのね、行きたい所があるの。でも、ここから出ちゃ駄目って。」
指差す先は東の方角。彩羽島は皇国の中で北東部に位置し、ここから真っ直ぐ東に島はない。いや、ずっと東に行けばないことはない。世界樹の島は一般に開放されておらず、万城目家の管轄になっている。船でも大陸に行くより時間がかかるほど遠い。行きたいと言って簡単に行ける場所ではない。それなのに彼女は絶対に行く、帰ると言い張った。帰る、なんて世界樹の島に住んでいたかのようだ。
「世界樹周辺か。許可が要るが私では得られない。他を頼ってくれ。」
頼るなら同じ学年の万城目花梨。彼女の兄や姉に話してみても良い。世界樹は重要なため、皇家も関わっている。一葉に話しても良いだろうか。向かいたい人は俺、果穂さん、この少女の三人。少女のことはいつまでも少女と呼ぶわけにもいかないが、被検体なんてもっと呼べない。
「花を知る者、知花にしようか。」
地脈花は誰でも知っているが、気軽に見られる物ではない。自分の名前すら分からない子が見たことあるなんて不思議だ。それなのにこの子にとっては身近なようだった。これも知花について知れば分かるのだろうか。彼女も小さく自分の名前を繰り返し、表情を綻ばせた。
今日の見学はここまで。そう研究所から追い出され、臨時許可証も返却する。花梨に頼むのは明日でも良い。彼女も婚約者との時間がある。急に行っては迷惑だろう。そう果穂さんを止め、麗華さんに研究所での出来事を報告する。噂を俺たちに聞かせたということは少なからず彼女も興味があるはずだ。
「本当に行ったのね、驚きだわ。無鉄砲なお二人さんね。素敵よ。そういう人、私は好き。」
褒められている気がしないが、良いだろう。俺たちにも収穫があった。次の進展も期待できる。することが分かっているなら進展が遅くたって構わない。むしろ花梨に突撃しようとする果穂さんを止める側だ。